多種多様な選択がある自由の中で、
現実的な努力によって安定が手に入る状況のときに、
あえてその安定を手にしない方向性というのが、
批判されるとしたら、
それは自由なようで自由ではないのではないかと、
リスクを背負う必要がないときに、
あえてそのリスクを背負う方向性というのが、
非難されるとしたら、
それはやはり自由ではないのではないかと、
そのときの世の状況によって、
なかば洗脳されるか抑圧されるか、
それが自主的であろうがなかろうが、
生きるということ自体の定義が様々にあるかもしれないが、
結局は自分というものを自分のメガネで、
他のパズルのピースとは似ていようが似ていまいが、
完全に同一のものがないものとして、
よりシャープなものとして貫くことが、
できるかどうかが、
結局は自分というものを自分の価値を、
自分で絶対的に認められるようになることには、
常識をしかと認識した上で、
常識を疑うという中で、
自分に責任を負う自由に行き着くが、
そこに他者の存在をなおざりにしては、
本当の自由には行き着かない。