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猫の日(2月22日 記念日)
愛猫家の学者・文化人で構成される猫の日実行委員会がペットフード工業会(現:ペットフード協会)と協力して1987年(昭和62年)に制定。
日付は猫の鳴き声「ニャン(2)ニャン(2)ニャン(2)」と読む語呂合わせから。
同委員会は、ペットブームの中、猫好きの英文学者・柳瀬尚紀(やなせ なおき、1943~2016年)らが発足したものである。「猫の日」は全国の愛猫家からの公募により選定され、9000通の応募の中で約3割を占めた「2」が3つで猫の鳴き声「ニャン ニャン ニャン」となる2月22日に決定した。
この「猫の日」は「猫と一緒に暮らせる幸せに感謝し、猫とともにこの喜びをかみしめる記念日を」という趣旨で制定された。この日には、猫のコンテストなどのイベントやキャンペーンが行われるほか、猫に関する啓発活動も行われる。
2010年(平成22年)の「猫の日」は平成では22年であったことから「22.2.22」となった。そのため、茨城県水戸市の郵便局3局では「平成ぞろ目の日記念」と題して、猫の記念小型印が当日使用された。
この2月22日の「猫の日」は日本における記念日である。「猫の日」は世界各国で制定されており、ヨーロッパの多くの国は2月17日を「World Cat Day」、アメリカは10月29日を「National Cat Day」としている。
猫にちなんだこんな記念日も
猫背改善の日(2月22日 記念日)
パソコンやスマートフォンなどの普及で、日常的に背中が丸まっている猫背の人が増えていることから「猫背改善専門スタジオ きゃっとばっく」が制定。
日付は、数字の「2」が猫背の人を横から見た状態と似ており、2月22日が1年で最も「2」が多く並ぶ日ということと、季節的にも寒く、首をすくめて猫背になりやすいため。猫背を改善し、肩こりや腰痛などの予防、姿勢を良くすることで前向きな人生を送ってもらうことが目的。記念日は一般社団法人・日本記念日協会により認定・登録された。
「きゃっとばっく」は、「2ヵ月で猫背を改善する」スタジオで、猫背改善に特化したトレーナーによるマンツーマンの指導、姿勢分析器を用いた猫背の原因究明により、猫背を改善してくれる。猫背の原因は、骨盤の歪みからくるものや、脚の歪みが原因であるものなど様々ある。
さらに、こんな記念日でもあります
忍者の日(2月22日 記念日)
店舗デザイン、空間デザイン、忍者をテーマとしたレストランのプロデュースなどを手がける株式会社グラフィクスアンドデザイニングが2015年(平成27年)に制定。
日付は忍者の忍、忍術の忍など、忍を重ねた「ニン(2)ニン(2)ニン(2)」と読む語呂合わせから。同社はレストラン「NINJA KYOTO」からの委託を受けて忍者ショーの運営を行っており、そのプロモーションが目的。記念日は一般社団法人・日本記念日協会により認定・登録された。
「NINJA KYOTO」では、和食・フレンチ・イタリアン・中華・寿司などさまざまな食のジャンルを融合し、「忍者」というテーマで鮮やかに表現した創作メニューが数多くある。食事の合間には腕自慢の上級忍者(プロのマジシャン)が席で忍術を披露してくれる。
『お祭り忍者』忍者
1990年8月22日発売
最高位3位
売上枚数 14万1490枚
スニーカーの日(2月22日 記念日)
一般社団法人ウェルネスウェンズデー協会が制定。
日付はスニーカーの語源が「忍び寄る」という意味の英語「スニーク(Sneak)」からきているので、「忍者の日」でもある2月22日とした。健康に良い履物として定着しているスニーカーを、通勤やウォーキングでもっと履いてもらいさらに多くの人に健康になってもらうことが目的。記念日は2017年(平成29年)に一般社団法人・日本記念日協会により認定・登録された。
リンク:ウェルネスウェンズデー協会
「スニーカー」について
スニーカー(Sneakers)とは、天然皮革や人工皮革、合成繊維などのアッパーとゴム底などで製造された運動靴の一種である。
コンバース オールスター ハイ
画像元:by.S
スニーカーが流行しだしたのは、1970年代後期のことである。それまで若者は、キャンバス地や堅い革のスポーツシューズを好んで履いていたが、一気にスニーカー一色となった。きっかけとしては、アメリカのプロバスケットボールリーグ「NBA」が1976年(昭和51年)にリーグ「ABA」から4チームを迎え入れ、それを機に各靴メーカーが大々的にマーケットを広げたことが挙げられる。
1980年代、NBAの一大スターマイケル・ジョーダン(Michael Jordan)のスポンサーであったナイキが、彼をスポークスマンとしてバスケットシューズの新ラインを発表・販売。当時のエア・ジョーダン(Air Jordan)は、100ドルと高価であったにも拘らず、アメリカの販売店では長蛇の列ができ飛ぶ様に売れた。
1990年代、ナイキやリーボックを筆頭にハイテクスニーカーブームが到来。スニーカー専門のファッション雑誌も登場し、流行のスニーカーは盗難、エアマックス狩りが続出、社会現象にもなった。その中でもナイキ・エアマックス95やリーボック・インスタ・ポンプ・フューリーはこのブームを象徴する存在と言える。
2000年代に入ると、ローテク、ミッドテクスニーカーが主流となる。ナイキではエアフォース1、ダンクなどが定番としての地位を確立、アディダスではスーパースター、スタンスミスなどが定番として履かれるようになった。また、DCシューズ、VANSに代表されるスケートボードに特化したスニーカーも人気がある。これに加え、コンバースのオールスターなど、昔ながらのキャンバス地スニーカーも根強い人気がある。
関連する記念日として、3月15日は「靴の日・靴の記念日」となっている。
小学生・中学生の時は、asicsのスニーカー
高校生でMIZUNOのスニーカー
その後は、
NIKEのコルテッツ
などを履いてましたね。
カツカレーの日(2月22日 記念日)
東京・銀座3丁目に本店を置く、1947年(昭和22年)創業の老舗洋食店「株式会社銀座スイス」が制定。
日付は「銀座スイス」の創業日である1947年(昭和22年)2月22日から。
国民的人気メニューであるカレーライスにカツを乗せたカツカレー。1948年(昭和23年)に同店を訪れたプロ野球巨人軍の名二塁手の千葉茂(ちば しげる、1919~2002年)のリクエストから誕生し、あっと言う間に全国に広まった。
「カツカレー発祥の店」として知られる同店の、記念日を通じてカツカレーの美味しさを全国でカツカレーを提供する店とともに盛り上げたいとの願いが込められている。記念日は2023年(令和5年)に一般社団法人・日本記念日協会により認定・登録された。
銀座スイスの創業者・岡田進之助は1895年(明治28年)に四谷で誕生した。独学でフランス語を学び、全てのメニューをフランス語で書き、パーティ料理を得意としていた。
混沌とした終戦後、外地より帰還した息子達を中心に戦前・戦中に高価であった西洋料理を「より多くの方に食してもらおう」という理念のもと、1947年(昭和22年)に「グリルスイス」(GRILL SWISS)を銀座7丁目で誕生させた。
1948年(昭和23年)当時、巨人軍のユニフォームは「銀座テーラー」にて作っていた。その店主からお店に訪れた千葉に紹介されたのが同店「銀座スイス」だった。銀座テーラーから、多摩川の練習の帰りや試合前・試合後または、プライベートなどでと同店をよく訪れた。
とある巨人・阪神戦の前、お腹がすいて沢山食べたいし、早くも食べたい、ガツンといっきに食べたく思い付いたのが、「カレーライスにカツレツを乗っけてくれ!」だった。今ではトッピングは普通だが、当時、カレーライスに何かを乗せる発想はなかった。
千葉はカレーライスとカツレツは大好物、そしてカツレツは勝負に勝つ(カツ)という、験(げん)を担ぎ、試合前によく食べていた。千葉が美味しそうに食べる姿と、見た目のボリューム感や美しさで、さっそくメニューに加え、同店の人気メニューになったことはもちろん、あっと言う間に全国的に広がった。
銀座で生まれたもの・発祥のものでは、木村屋の「あんぱん」や、寿司屋・久兵衛の「軍艦巻き」など数多くあるが、銀座スイスの「カツカレー」もその中の一つである。
当初はカツカレーは正式メニューではなく特別メニューだった。当時のメニュー表には「特別料理」の欄に「カツレツ カレー」と記載されていた。1949年(昭和24年)の銀行員の初任給が3000円の時代に、カツレツ・カレーは180円だった。
乃木坂46の日(2月22日 記念日)
アイドルグループ「乃木坂46」の所属事務所である乃木坂46合同会社が制定。
日付は2012年(平成24年)2月22日にファーストシングル『ぐるぐるカーテン』でCDデビューをしたことから。記念日は一般社団法人・日本記念日協会により認定・登録された。
乃木坂46について
2011年(平成23年)8月21日、秋元康のプロデュースによるオーディションの結果、3万8934人の中から1期生メンバー36名が選出され、「乃木坂46」が誕生した。
グループ名の「乃木坂」は、レーベル会社のソニー・ミュージックエンタテインメント(SME)が当時所有していた東京都港区赤坂の「SME乃木坂ビル」に由来する。同ビルは「乃木坂46」結成メンバーの最終オーディション会場として使用された。
また、「46」という数字は、公式ライバルである「AKB48」より人数が少なくても負けないという意気込みを込めて秋元康が命名した。