ん? 雑学?





















雑学(ざつがく)とは、雑多な知識の集合のこと(トリビアとは若干意味合いが異なる。)。興味本位で面白さを重視しているため、ひとつひとつは意味的なまとまりをもった知識であるが、集められた知識はお互いに関連性が希薄な事柄で、全体としてみて系統立っていないものを指す。知識がそういう状態になっていることや、そのような形で知識を学ぶことを指すこともある。
誰もが知っているべき一般常識も雑学の一部に含まれることもあるが、特に、一般にはあまり知られていない知識に重点を置いて捉えられることが多い。有用な知識として、あるいは役にはたたなくとも興味ある事柄として取り扱われたりもするが、無駄な知識の集まりであるとして、重要視されない場合に否定的な文脈で用いられることが多い。ただし、別の面では、一般の人があまり知らない幅広い知識でもあるので、中には聞く人を感心させることをも多く含む場合もある。人を楽しませる道具として、雑学をたくさん持つことには一定の意味がある。
雑学とは、学問の対象分野についてではなく、知識の整理のされ方について表した言葉である。一般に、学問に属する知識は、特定のやり方で系統立てて整理されており、それを学ぶ人は、その道筋に沿って順序だてて、自分が研究したい分野について知識を深めていくのが一般的である。それに対し、雑学を構成する知識は、全体としてひとつの学問を構成しない。つまり、雑学という学問は存在しない。一部カテゴリに収まる雑学などもある(商標の普通名称化など)
雑学を構成する知識は、瑣末な事実の記述に終始し、そもそも学問になりえないものも多い。一方、ある人にとって雑学に含めて考えられている知識でも、その分野の研究者にとってみれば、学問を構成する知識の一部分である。しかし、このように抜き出された知識は、意味の上では理解可能にまとめられているが、系統立っておらず、また考え方の上で応用もきかないことが多い。
雑学的知識を収集・編纂した「雑学本」「雑学書」は、アメリカ合衆国などではペーパーバック、日本では文庫本や新書判で多数が市販されているが、それらは学術性より読者受けする通俗的な娯楽性を重んじる編纂傾向が強く、明確な文献を典拠として学術的記述法で情報を引用するような姿勢は乏しい。編纂者または編纂グループとされる者の素性・実態が定かでない事例も多々ある。






















とは言っても、自分だけが知ってる雑学って無いんじゃないかな
って事で、ちょっと面白い雑学を
水戸黄門は、もともと超やばいヤンキーだった⁉️
その人物とは、時代劇でお馴染みの水戸黄門。徳川光圀です。
ドラマでは助さん格さんを伴って、諸国漫遊をしながら事件を収めるさまが描かれていましたが、あくまでこれはフィクションらしいです。なぜなら彼は水戸藩の第二代藩主であったため、公務で忙しくとても諸国漫遊なんてできませんでした。
旅をしていたわけではありませんが、光圀は江戸時代を代表する名君のひとりとして賞賛されています。これは光圀が、学問を奨励して 『大日本史』の編纂を始めたことによります。また、水戸藩の藩政改革にも積極的に取り組んだことや、兄で長男の頼重がいたにもかかわらず三男の自分が藩主になったのは儒教の教えに背くとして、自分の子ではなく頼重の子を後継とするなど、とても人格者だったことが名君とされるゆえんです。
気性が荒い札つきのワル
温和な性格だった兄の頼重と比べて、光圀は幼い頃から気性が荒かったといわれています。たとえば、一緒に武術の稽古をしたときには、光圀があまりにしつこく食い下がり、挙句の果てに逆上した末に殺し合い寸前になってしまうほどでした。
そのため、光圀は父の頼房に脇差しを取り上げられて、丸腰で歩いていたそうです。
そこに書かれていたのは、身なりは華美すぎて異様、挨拶の仕方や歩く姿も、蓮っ葉者、傾奇者にほかならない、という光圀の姿です。傾奇者とは、戦国時代に登場した、常識外れを好む派手な連中のことです。旗本衆もこんな光圀を見ては「(光圀は)言語道断の傾奇者で、あの体たらくでは、行く末も……」という噂を立てるほどでした。
彼は辻相撲にしばしば出場していました。あるとき、味方が負けるや、腹いせに仲間と共に刀を抜き、相手を裸のまま退散させました。
また、遊里からの帰り道、悪友にそそのかされて、浅草で罪もない人をなんと斬り捨てたのです。
心を入れ替え名君に
きっかけは、中国古典の『史記』に収録されている伯夷・叔斉の物語を読んだからでした。
この話は、父王から弟の叔斉に位を譲ることを伝えられた長兄の伯夷が、遺言に従おうとするも、叔斉が兄を差し置いて王位に就くことを拒み、ともに国を捨てて出国してしまうというものです。
兄の頼重は、親孝行者で旗本衆の評判もよい人物でした。ですが、1639(寛永16)年に下館五万石に封じられており、水戸藩を継ぐのは弟の光圀だったのです。彼の非行も、兄を差し置いて水戸藩の後継者になったというプレッシャーによるものだったともいわれます。
水戸黄門って、このイメージしかないから…かなりビックリしましたね