感想文を大人が手直ししまくると子供は屈折する | 今日の日記

感想文を大人が手直ししまくると子供は屈折する

 小学校時代、私は感想文でクラスの代表に選ばれることが多かった(代表は三人選ばれ、一般部門、文系課題図書部門、理系課題図書部門から選ばれていた。私はほとんど毎年選ばれていた)。というのも私は夏休みの理系の課題図書を選択することが多く、クラスで理系の課題図書で感想文を書くのはクラスで私一人だったからである。(実際にクラスで一番理系の図書が好きで「黒土が燃えた」「もしも原子が見えたらなら」「北極星を探せ」みたいなタイトルを今でも覚えている。)


 しかし、選ばれた後が大変だった。まず私が書いた感想文を学校の先生が添削して、それを家に持ち帰ると母親が張り切って文章を練るのである。その後に、眠いのを我慢して起きていた私が母の言うとおりに原稿用紙を埋めるのである。これが夏休み明けの二学期の初め4~5回繰り返された。


 もう途中から、誰の感想文かわからない程の改変なのである。私は自信を持って「私が書いた感想文」と言うには良心が痛みすぎてくるのである。生きていくにはこういう社会の仕組みを理解して行かなくてはならないのだが、感想文は小学一年くらいから始まっていたので、こういう「大人の事情」を理解するにはまだ早かったと思う。


 おかげで中学を卒業するときの卒業文集(これは親に手直ししてもらっていない)には「世界の恵まれない子供たちに全員が、そこそこ恵まれるようになると、日本は今より貧乏になって、不満を言う人が出てくるかもしれない。(所詮人間なんてそんなものでしょ(心の声))」と見事な中二病っぷりを発病するようになってしまっていた。


 秋葉原無差別殺人事件の犯人が、自分と自分の母との関係のことを言っているものの中で「親に感想文や絵画を書いてもらっていた」「冬に薄着で外に締め出された」と言うのが自分にも当てはまる。私はこの二つの記憶の中のうち「親に感想文を書いてもらった」の方が、私はより嫌な気分になる。以前から何でだろうと思っていたが、今度の事件でなんとなく分かった気がした。