趣味に月100万円使えるとしたら、何する? ブログネタ:趣味に月100万円使えるとしたら、何する? 参加中
ブログネタなのに、月100万円、趣味に使えるとしたら?っていうテーマにむっちゃ、現実的に検討しております。まず、このためにわざわざ「金がかかる趣味」を検討しない。今現在でも既に「趣味」としてやってることで、果たして月100万円をつぎ込んでやりたいってことがあるだろうか?と考えています。

「趣味」=「道楽」。
ですから、この「趣味」で月100万円かかっても、儲けを得てはいかん。
うわー、、、一方通行の趣味かぁ・・・と勝手にハードル上げてみる。

以前、エコツーリズム推進プロジェクトのエコツーリズムガイド育成とかに関わるコンサルさんから「だるまちゃん、趣味、ある?」とたずねられました。以前っつーか、今月頭くらいのことです。つい最近だわさ。

私たちのようにエコツーリズムという、旅や地域振興、環境保護といった3本柱を並行して発展させようという取り組みで、かつエコツアーのガイドなんかやってたりすると、朝から晩まで、気がつけば「仕事のことばっか」になりがちです。だからこそ、「金に糸目をつけず、やりたいことを楽しんでやる」っていう趣味が大事です。

ある意味、「旅とモンゴル暮らし」って学生時代には、「趣味」だったことが、いまや、生活そのものになっちゃってる私としては、幸せと思いつつも、まあ「趣味」っていう感じじゃなくなっちまってる感じもある。だから、趣味がないっていうのもちょっと、情けないよね。

エコツアーオペレーターとして、人生は謳歌してなくっちゃ!
セ・ラ・ヴィですよね。

金が一方通行で出費してても、気にならないぜ!って張り切っている「趣味」としてやってるのは・・・「兼業遊牧」ですな。

ここをもうちょっと本気で極めてみたいですよね。
月100万円・・・1年で1200万円。

これだけあれば、結構、面白いことできる。

拠点を、
★ラクダ・ヤギ中心のゴビ地帯
★羊・牛・馬中心の草原地帯
★牛・馬中心の森林地帯
★アルタイ山脈のイヌワシ一家の遊牧
てな感じで分散させて、それぞれを、きっちりと、研究体制を整えて観察・体験・実験する。

この趣味に必要になってくる初期投資が
☆ゲルを買う
☆家畜小屋を建てる
☆家畜を購入する (それぞれの地元で「この人、すげえ!」って遊牧名人って評判な人から、適切な家畜100頭を買い取って、その人に委託して世話してもらうやり方)
☆放牧地域を選定し、放牧地登録をし、使用料等を支払うか、地元遊牧民と契約する
☆家畜それぞれにナンバリングをし、かつマイクロチップを埋め込んでGPSで移動状況がわかるようにする
☆気象の基本的なデータが集められる装置を設置する
☆正確に家畜の体重が計測でき、かつ記録ができる体重計を購入

さらに毎月かかるものとして
☆体の大きさを測定できるメジャーと記録係の人件費

四半期ごとに分けた場合
▲予防接種や寄生虫駆除等の伝染病対策用の獣医検診費
▲毛刈りやカシミア取り、牛乳搾乳等の作業費(まぁ、これは現物で相殺してあまるくらいあるから、余剰分はプールする)
▲移動にかかる引越し費用
▲干草やふすま、燕麦、ビール粕等冬用の餌
▲家畜税
▲各拠点へ行ってフィールドワークするための費用

こんな感じでしょうか?

計測を徹底的にやっての遊牧っていうのは、社会主義が崩壊してから、意外と誰も手をつけていない研究分野であります。

そう、今は仕事とかビジネスとかって経済的な考察が多い私ですが、学生時代は遊牧とかモンゴルの伝統的な風俗習慣といったことを調べるのが大好きで、通訳・翻訳等モンゴルがらみで稼いだお金のほとんどが学費とモンゴルでのフィールドワークにつぎ込んでいました。

一番お金がかかってたのが、約4年間にわたって、のべ2年間(四季各シーズンをそれぞれ2回ずつのフィールドワーク)を行ったフブスグルのツァータン住み込み調査でありました。今考えてみると、奨学金や科研費、研究助成金などを使わず、ぜーんぶ自腹の学生でありながら、研究費として、はじめのアプローチから、実際に論文を書いて修士号をいただくという目標を達成するまでに400万円近くかけた。今考えると結構なもんです。
でも、当時は研究費かかりすぎ!とかって全然考えてなかったのだった。
夢中になって、金に糸目をつけず、ただひたすら、「やりたい!」「知りたい!」っていう気持ちだけで突き進んでいたっていうのは、やっぱり「趣味」的にのめりこんでいたからこそ。

で、月100万円っていう趣味代が使えるならば、その当時の規模をさらに、これまでの経験や興味の蓄積を総動員して、もっとモンゴル全国規模で、徹底的に遊牧の伝統的生活の再現だったり、遊牧生活における経済性や自立経済のための損益分岐点の算出などもやってみたいです。さらに地元の人たちと協力して、「地元の遊牧資料館」みたいなものも作れたりしたら、最高!

自分の財産として「家畜」や「遊牧用の設備」を購入した場合、経営する者の立場として一番「得する」と思えるやり方を見つけるために、「市場の相場」や「その地域での相場や売り方」、市場調査(つまりはどこが安く必要なものが買えるか、どこが一番高く売れるかを知りたい)をした上で、自分が有利な流通手段はどんなやり方か、と地元の人たちがどんな風にやってるか、を調べるようになります。「だれそれがそうしてた」っていうのではなく、「ダムディンさんはこうしてた」「バトさんはああしてた」といういろんな事例を見聞きした上で、「で、私はこうする。なぜならば・・・」と根拠を持って行動する。

「ある姿をあるままに」というのも大事なことだ、と思うのですが、その先に、実際に自分でやってみて、損したり、得したりっていうのを感覚として、身にしみて覚えていくっていうことがあってこそ、本当の意味で、「モンゴルにとっての遊牧」の意義が語れる、っていう思いがあります。

現時点では、自分の資金力や生活の基盤との問題で、ウランバートル近郊でミニマム、委託っていう条件でやっています。テーマは「庶民の遊牧」
でも、もしも月100万円使えるってことになったら、私はもっと、どでかいアプローチをします。
モンゴルの自然気象や都市部からの距離などでティピカルな地域区分ごとに私が尊敬する遊牧民の皆さんと協力して拠点がモンゴル国自慢の「遊牧モデル地域」として盛り上げていけるような壮大な遊牧経済研究をやりたい。

ほんとに、遊牧民は現金収入がなく貧しいのか?
私は、ちゃんと遊牧を続けている人は、それなりにちゃーんと「計算」し「調整」して、持続的に自分たちが「生活できる手段」として経営できてる、れっきとした「自営業」「個人事業主」である、と考えています。

見た目が貧しく見えるから、すぐ外国人は「貧困社会=遊牧民への援助」とかいいますが、それはどうかな?って。

確かに100頭で5年で自立っていう考え方は、インフレ率が300%以上になっちゃった今、ムリ!って感じです。
じゃぁ、去年始めた260頭だったらどうだったか?
でも、今年は100頭かっきりで9月からの2年目がスタートしているので、研究としてはわかりやすい状況だから、まだしばらくはこれを「殖やす」っていう方向を考えています。

遊牧民の「断・捨・離」テクニックは、そもそもの「断」が徹底している。移動する際に無駄なものを運ぶ労力がもったいないっていうのが根底にあるからなんだけど、最近は、トラックもちもいたり、トラクターもちもいたりする。
以前は「共同で使える」っていうネグデルという組合が牛耳ってた役割が、「個人の余裕がある人」にシフトしたからですね。だから、それまでは、「あった」ものが自分でも必要なものだからゲットしたっていうことで、無駄な贅沢ではない。それに地元の人たちと貸し借りし合ってたりするから、自分だけで独占っていうことでもないのです。

基本的に、モンゴル人の自給自足(自分の生産性を生かして自分の必要なものを調達し、満足できるっていう意味で)してる遊牧民は、ちゃんと市場相場と自分が畜産品を売るタイミングを見ているし、駆け引きもできています。そして、壊れるまで道具を使う。道具を直す。そういう風に道具を何十年でも長く使い続けられるし、自分で作れちゃうから、市場で購入する必要がない。自分で必要なモノを自分で作る技術を持ってるってすごいことです。

逆に、若い人たちに目立つのが、市場で買える安いプラスチック製品の導入です。
プラスチック製品でも徹底的に使いつくせば、減価償却してあまりあるだけの使い手があるっていうことも遊牧民から学びました。

年間1200万円で4箇所に遊牧経済・生活文化の徹底調査をするための拠点を作らせてもらえれば、私にとっては十分です。それ以上のことは、初期投資で得た基本遊牧キットを活用して、持続的活動を行うことができるように運営します。

去年は、とにかく委託遊牧民の選択、越冬地の選択、家畜を買いうける時期の選択など根本的なところで致命的なミスが重なってしまいました。これは、私が発言力を男性にゆずるべき、なんて変な主婦感覚を持ち出して、軸がぶれちゃったから。

今年は、「研究者=調査する人」という立場で、自分が出資したものをどうコントロールするか、という軸をしっかり守って、兼業遊牧に取り組んでいます。
とはいえ、「私が金を出してるんだから」だけでごり押しできない、っていうモンゴル文化も当然ファジーに対応しなければ続けていけません。
その辺は「相互扶助」の感覚としてどのあたりが妥協点かってことを含めて、調査対象としております。

この「趣味」が実現できれば、私にとっては、「モンゴルでの自給自足遊牧民生活をするためのマニュアル」が作れたり、「遊牧経済」をミクロ&マクロ的に研究調査することができる。協力者の人たちもまた、自分たちが得意技・生業としている遊牧によって、日本人との絆が出来、さらに、もし2年間くらいでちゃんと元を取って利益を出せるようになっていたら、地方居住者にとって、持続的に地方を基盤に生活するためのビジネスモデルやライフプランとすることができるのです。


今、モンゴル国が直面している、人口の都市部集中・地方の過疎化促進という地方格差や貧富の差を緩和するための解決策を模索するためにも注目すべき「趣味」になるはずです。

私は、エコツーリズムと連動させた遊牧ライフによって、地方格差を是正し、モンゴル全土で「おらが草原」に対する愛着と誇りを基盤とした村落開発、自立経済の確立を目指したい。

今の政府やモンゴルをターゲットとしている人たちにとっては、鉱山開発はモンゴルが大金持ちになれるチャンス、と期待していると思います。

でも、モンゴルみたいに、天然資源の鉱脈だらけの国で、あちこちを掘り出したら、それこそ、モンゴルの「ブランド」である「遊牧」を行うための土地がますますなくなってしまう。
天然資源は掘ればなくなっちゃいます。何万年も眠り続けていたからこそ、モンゴルは「陸の孤島」としてほったらかしにされつつ、独自の文化を守り続けることができたんだと思います。

遊牧が国の主要産業のひとつとなっている国は世界でも有数です。
しかも、ちゃんと教育インフラや都市インフラが機能した状態で新興国として成長している中で、遊牧民が政治的にも無視できない存在として扱われている、という独立国はモンゴル以外にあるでしょうか?

天然資源も貴重ですが、人が代々受け継いできた生活文化や伝統的な知識や技術は、大切にすることで永続的に活用できる資源です。かけがえがない、という意味では天然資源も社会的文化資源もかわりがありません。

世界遺産において、自然遺産と文化遺産というカテゴリーがあるのも、人類にとっては、モノも人もどちらも同じように大切で継承していかなければならぬ、という意義があるからです。

というわけで、私は、モンゴル国のかけがえのない遊牧文化を徹底的に追求し、これを守る道や未来を探ることを「趣味」として、月100万円をつぎ込んでみたいと思います。

100万円といわなくてもいい。
実際は、月10万円あれば、とりあえず、ひとつ拠点が作れます。
「こんな趣味なら、おれもやってみたい」とお金をつぎ込みたくなった方は、ぜひモンゴルだるまに賭けてみてください。

・・・といいたいところだけれど、まずは来年の9月までぐるり1年間100頭規模でやってみたものでどんだけ儲かったり、損したり、やることがなにか?ってことを観察してから、でかい口をたたくことにします。

とりあえず、今は、そっと遠くで見守りつつ、後のために「貯金」しといてください。

他人様に損をさせないで持続的に遊牧できる!って手ごたえをつかんだところで、「モンゴルでの兼業遊牧って楽しいし、やりがいあるよ!」っていいたいと思います。

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他人の家畜で観察・・・といいつつも、そういう研究アプローチも必要だよ!と参考書として愛読している本もご紹介します。

現代の遊牧民がほんとに、騎馬民族・遊牧国家としての誇りや伝統を失ったモンゴル人たちなのか、都会ばかり夢みる人たちなのか・・・この本も読んでから、ちょっと言葉を選びたくなると思います。

本気でどっぷりモンゴル遊牧民とつきあった日本人の記録・考察としてすごく参考になります。

「モンゴル 遊牧の四季 ゴビ地方遊牧民の生活誌」三秋 尚著 鉱脈社出版 定価3500円(本体3398円)1995年刊

アマゾンでも楽天でも販売商品になってないのですが、この本は絶対読んでおくといいです。
1990年代に大阪外国語大学のモンゴル研究者が中心となって、自然科学的アプローチや経済学、モンゴル文化人類学、社会学的様々な分野の専門家や学生がコラボレーションした「ゴビプロジェクト」の集大成的な遊牧本。

農学博士で特に草地学がご専門だった三秋先生のフィールドワークがまとまった本です。1990年代で初めて遊牧民のところで越冬した日本人研究者として最高齢だったんじゃないだろうか?

モンゴルが民主化したからこそ、私たち日本人が遊牧民のところに住み込みで長期間滞在型のフィールドワークができるようになった!という草分け的な調査プロジェクトでした。

現代モンゴル遊牧民の民族誌―ポスト社会主義を生きる/風戸 真理

¥5,460
Amazon.co.jp

2000年代に京都大学大学院のうら若き女性研究者が住み込みありの遊牧フィールドワークをした集大成。
2003年以降にモンゴルの国土管理を揺るがした「土地法」などモンゴル国の遊牧に対する外的要因と遊牧民の暮らしの中にある内的要因の両方からアプローチした文化人類学的研究のまとめ。徹底的に観察者としてフィールドワークを行う著者の姿勢は迫力があり、その洞察力もすごいなぁって思います。同世代の方であり、自分が見てきたものや考察とも似ているので、共感!ただ、なぁんで私はこういう頭のよさげな、研究者っぽい文章が賭けなくなっちゃったのか・・・とがっかりする部分もある。モンゴル人家庭によくあるプライベートないざこざなども研究者の目で語られると、こうも観察的になるのか・・・とすごいなぁって思う。

でも、実際に自分がいざこざの中心にいたり、家畜の群が他のと混ざって困ったりって、いうビビッドな喜怒哀楽を経験しているっていう意味で、自分は結構貴重な経験をしておるなぁ、とも思いました。

まぁ、その辺が「趣味」と「研究職」との境目なんだろうな・・・
映画、本編終わったら席立つ?エンドロールまでいる? ブログネタ:映画、本編終わったら席立つ?エンドロールまでいる? 参加中

私はエンドロールまでいる派!

映画を映画館で見ることの楽しみであり、醍醐味は、エンドロールでこまごまとどんな人が「この作品に関わったのか?」、つまり、どんな機材やどんなスタントマン、スタッフが関わったのか、とか衣装や小道具のメーカー・ブランドがどこだったのか、などをチェックできることです。
1994年から自分が1999年までの間、自分も映画やテレビ、ビデオなどの制作にフリーな立場で関わっていたため、自分の名前や友達、お世話になった方の名前がエンドロールに出てるというのを確かめるのが楽しみで、自分が最後まで座ってる観客一人、となったとしても独りで最後まで見届けてました。
今もその癖は抜けてません。
それに、エンドロールになったとたんにがやがやと出て行く人が多くて、トイレとか出口とか込んでるんだもん。
だから、最後までじっくり堪能してくれる人出ないと一緒に映画を見に行くことはできません。

映画のよいところって、ほんのちょっと関わっただけでも、ちゃんとエンドロールのクレジットに載せてくれるところ。これって全世界的にそうなんだと思う。

テレビもスタッフロールが出ることはありますが、大抵は、制作会社が制作していても制作・著作では放映したTV局のみ、とかよくても制作会社がちょろって出るだけ、だったりする。アシスタントの分際だと、演出部も撮影部も、録音部も載せてもらえないことがほとんどです。
だから、テレビ制作会社に勤めていたときは、自分の名前がスタッフロールで載せてくれるかどうか、って結構、気にしてた・・・幸い、自分が企画を出した作品については、大抵ディレクターさんもプロデューサーさんも局側のプロデューサーさんも理解してくれてて、名前載せていただけいました。こういうのって、かなり嬉しい。

とはいえ、テレビよりも映画のほうが好き。何度も、何度でも、、、って感じで、見ることができるから。
作家・椎名誠さんが、映画会社を作って映画監督としても活躍していた絶頂期(なのかな?まあ、初めての黒字作品だから絶頂でしょう。)モンゴルとの合作映画「白い馬」のときに初めて、映画製作に関わるようになりました。
企画のときから「ほんとに実現したら、声かけるからね」とプロデューサーさんには言っていただけてたけれど、開高健先生のモンゴル番組ロケの通訳・コーディネーターでもあった私の大好きなモンゴル関係の先生・鯉渕信一先生にモンゴルまで国際電話をかけていただいて「だるまちゃんに映画の通訳してもらうことにしたからね。上手で気立てがいい人、何人かそろえておいてね」って言われたときは、心が震えました。
1991年に話が具体的に進み始めてから、結構時間もたっていたのに、椎名さんもプロデューサーさんもちゃんと約束を覚えていてくれたのか!!!と。。。
実際は、それもあったけど、鯉渕先生が推薦してくれた、ってところもあったみたい。
映画の撮影中はいろんな大変なこともあったけれど、この映画撮影によって、私にとって「運命の人」との出会いがあったのです。人生の師匠であり、私をモンゴルの世界へと引きずり込んだ「高橋昇」先生の姿を直接見たときは、もう涙が出そうになりました。いつもふざけた感じなのに、ほんとよく見てるなぁ・・・っていう人間観察や状況判断、そして、どんな困難な状況でも冷静さと笑いを忘れず、一瞬の感動をがっちりつかむ。

映画というのは、一瞬というのが、まぁ、一こまなわけですが、これがまた、素晴らしいのです。

ビデオ撮影だと1秒が30コマなんだけど、フィルム映画は1秒が24コマ。
1秒=24コマっていう感覚に慣れていた私には、テレビ業界は最初、あわただしく、編集の感覚もちょっとずれてたー。

でも1/24の感覚を持ってる自分っていうのが結構好きだったりもする。

椎名誠さんは、人間関係を特に大事にするし、たくさんの友達やファンのサポートがある人なのですが、映画のエンドロールにも、他の邦画ではないようなスタッフも登場させていました。実際、ロケ現場まで来てくださった雑誌や担当編集者さんや食事係の人たちなども皆さん登場。

だから、私にとっては、「白い馬」というのはかけがえのない留学生活の輝かしい日々が凝縮した作品でタイムカプセルみたいなものです。

ついでに「馬追い旅日記」という椎名さんのエッセイもまた、私は演出部であり制作部であり、椎名さんの原稿を日本へファックスするっていう大変な任務などを担当していたため、監督との密着度が強く、監督の一日は、私の一日でもあったりするので便利です。

高橋昇師匠の晩年に続々と発表した作品の中にも、私にとっても師匠にとっても「大師匠」である開高健先生がらみでのモンゴルの思い出をつづった著書の1ページに私のことを載せてくれています。「白い馬」の撮影中の束の間の休息で、師匠と私だけの秘密だったエピソードと一緒に・・・あぁ・・・

ほんの数秒のシーンにも何日もタイミングを待ち、何時間もかけてセッティングし、大勢の人が集中して関わっている。
その積み重ねが映画です。

だからこそ、エンドロールまで見て欲しいんですね。
自分も見るけど、見てくださる方なら、皆さん、エンドロールまで注目して欲しい。

ハリウッド映画とかでもね、最近は日本人や日系の方が活躍しています。
で、そういうほんの数秒でも彼らの名前をエンドロールで発見すると、「よかったねー」とか「がんばってますねー」って敬意とエールを送りたくなるのです。

日本の映画人ってクレイジーなくらいに映画が大好きです。
だって、休日の過ごし方をたずねれば、スタッフのほとんどの人が「映画館で映画鑑賞のはしご」って答えてましたモン。

本編を見ている間は、映画が描く架空の世界に没頭しています。
で、エンドロールをみながら、少しずつ、少しずつ、現実の世界に自分を戻していくんです。

せっかく映画館で映画鑑賞するのだから、最後の最後まで気を抜かず、フィルムの隅々まで堪能、満喫したい。
それが欲張りで映画が大好きな元映画製作スタッフである私のこだわりです。









映画、本編終わったら席立つ?エンドロールまでいる??
  • 本編終わったら席立つ
  • エンドロールまでいる

気になる投票結果は!?

白い馬(字幕) [VHS]/バーサンフー,ダシビルジェ,サラントゥヤー

¥3,990
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あらー、VHSしかないのねー。。。椎名さんの原作を脚本化し、さらにモンゴル人のナランツェツェグ先生に翻訳してもらった脚本をベースに撮影し、内モンゴル人のフフバートルさんが字幕のための翻訳を手伝ってくれている、という結構壮大にモンゴル人がコミットしている作品です。ナーダムの少年競馬シーンはほとんど100%ドキュメンタリー。鞭を落としたのも、馬主が鞭を拾ってサイドカーでおっかけて手渡したのも、全部ホントの話です。

ホネ・フィルム式 活動寫眞全記録 [DVD]/野田知佑,ガク,余貴美子

¥22,050
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ちょっと高いけど、DVDになった「白い馬」を見ることができます」いい作品ですよー。

馬追い旅日記 (集英社文庫)/椎名 誠

¥580
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撮影中のみならず、留学が終わってから大学院に入学するまで、映画会社・ホネフィルムでお世話になってました。モンゴルでの「白い馬」上映会をしたときの挨拶の通訳に借り出されちゃったりして・・・今はなき「アルド映画館」の客席が満杯になって熱気むんむんだった真冬のことを思い出します。

馬追い旅日記/椎名 誠

¥1,223
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開高健 夢駆ける草原/高橋 昇

¥2,100
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私をモンゴルにひきずり込んだ張本人である開高先生と高橋昇師匠と同じ空間に並べてくれたことに、師匠の限りない愛情とメッセージを感じます。力強い師匠のサインと私の名前が記されたこの本をかかえてモンゴルで暮らしています。生活も仕事も「生きるか死ぬかの瀬戸際」で一人ぼっちで闘っていた私を支えてくれました。私がズタボロになった時でも、モンゴルで絶望しないで済んだのは、生きる希望を失わなかったのは、すべてこの本に載っている方々のおかげです。モンゴルのすべてがこの本に凝縮してる、といってもよい名著です。モンゴルにいらっしゃる方はぜひ、一冊お買い求めいただきたい。
五感のどこが優れてる? ブログネタ:五感のどこが優れてる? 参加中
五感のどれが優れているか?といわれれば、聴覚、と答えるでしょう。一応、音楽家一族の長女に生まれ、母親の胎内にいる頃から音楽を聴いていたわけで、、、この辺はありがたや、です。言語学の中でも特に音韻論とか音声学とかやってる人のこだわりとはちょっと違ったところで、聴覚のよさ、というのは言語発達の役に立っている、気がする。
うちの一族には作曲家や指揮者、管楽器、弦楽器、声楽、音楽教育、打楽器、ピアノと、つまりは交響楽でもオペラでも一族だけでなりたつくらい、バラエティーに富んで、いろんな音楽を生業にしている人で成り立っております。
だから、誰かのお葬式とかは、賛美歌がそれはそれは素晴らしい混声合唱にアカペラで、そしてアドリブでなるのです。たぶん、我が一族の葬式、楽しみにしている人たち、、、いたのではないだろうか?いかんせん、皆さん長生きなので、数十年に1度、葬式があるか、ないかって感じのレアさ。音楽を愛する人は長寿、そして健康的にハッピーに人生を全うできる、というのを、自分の身内で実感できるってちょっぴり幸せです。
そのわりに、私は子供の頃から「8小節の女」といわれるほどの根性なしで、対して音楽的才能は伸びなかったんだけど。音楽の才能を開花させるには、絶対的に「日々のたゆまぬ努力」というスペックが搭載されてないとダメだ。「ひらめき」とか「感性」とか「知識」、「技術」だけじゃダメなのねー。

はい。

で、まあ、そんなわけで音楽の芸術分野に進出はまったく問題外であったモンゴルだるまですが、聴覚が優れているのはありがたい。

まず、聞いたら、大体、再現できる。
外国語でも日本語の方言でも「お、ちょっとそれっぽい」ってなるポイントって、個々の発音というよりは、全体のイントネーション。つまりは響きではなかろうか、と思うのです。で、これは絶対音感があると、再現しやすい。

さらに、オーケストラでの演奏を長い間聞いているとね、重なっている音、それぞれを同時に聞き分け、記憶できるのです。

ソルフェージュとか調音というトレーニングも役に立っています。
聞いた旋律を楽譜として記譜するとか、ばーんとピアノで出された和音を聞き分けるっていう訓練ですね。
まぁ、これは訓練次第なんだと思う。

で、私の父は、ファゴット、コントラバスーンという管楽器では低音パートの、目立つようで出番が少ない、でもこのパートの上手下手でオーケストラのよしあしが決まっちゃう、的役割を担っていたのですが、子供なので、いかに素晴らしいオーケストラの演奏があっても、やっぱり「パパが一番!」って集中して聞くことになり、結果的に、主旋律を聴きつつも、超マイナーな部分にも注目する、っていう癖があり、同時にいろんな人が話していたとしても、それぞれの話題をチェックしながら、自分がくいつくべき話題をチョイスできる。

そのため、会議通訳とか宴会通訳なども得意です。
混乱した議論の中でも、それぞれ記憶フォルダを振り分けて聞いている。
他の人の演奏を聴きながら、自分のパート、自分の演奏にも集中する、というブラバン時代の経験も生かされております。

ついでにいうと、第六感ですね。
人がいわんとすること、大体わかってる。
子供の頃とか、油断していると、ついつい他人の話題、とっちゃったり、先に誰かのせりふとっちゃったりという顰蹙者でしたが、通訳っていう意味では大事です。

会議通訳、講演会などは一応、同時通訳の場合は原稿をいただけるので、翻訳的な能力でカバーができるような気もするんだけど、モンゴル人って結構、興に乗ると原稿無視とか原稿の途中をはしょったり、継ぎ足したりすることもあるのです。だから、ありものの原稿ではなく、しゃべってる人だけに集中してる。相手が何を言うかってほんの一呼吸前に予測できるかどうかで、通訳としての聴覚が使えるかどうかって結構勝負どころになるのです。

このことは自分だけの経験で通訳しているときは気がつかなかったんだけど、英語の同時通訳さんなどと一緒にお仕事させていただくことがあったり、「モンゴル語通訳」、「日本語通訳」って言って仕事している人の仕事ぶりと自分との意識やテクニックの違いなど、比較できるようになって気がついたことです。

単語レベルでの知識ではなく、相手の思考回路や概念、いわんとするところをひっくるめて受け取ることでこそ、正確で流れをそのリズムや感覚をせき止めることなく、別の言語に変換伝達することができているのです。

よく「なんで、私が考えていること、わかるの!?ヽ((◎д◎ ))ゝ

ってびびられるけど、それは、第六感がうっかりもれちゃったときで、いつもは「封じてる」はず。

KYって言われるくらいがちょうどいい。
相手の考えとか空気ばっかり読んでると疲れちゃうから。

語学で大事なのは口よりも耳。目よりも手だと思います。
しゃべれるのが上手っていうよりは、相手の言うことを正確に聞き取ることのほうがよっぽど大事。最初のうちは。
所詮は外国語は「他人の言語」なので、それをネイティブとして使いこなしている人のすべてをいつも集中して聞いています。こうやって、使う、使わないは別として、耳を通して「ほんもの」を記憶しておくことで、ほんとに自分が必要としたときに、自然と出てくるようになるみたいです。

私はおしゃべりで、よく酔っ払うと、「どんなキーワードでも自分の話題にできちゃう」という変な引き出しの多さで、やばいことになる。ほんとは、宴会の席では、人の話を聞くほうが好きなんだけど、酔っ払うと、ついついタガが外れる、というか、どっかのカギが壊れてオープンになってしまうようなのです。

だから、自分がしゃべりたい!っていう人が多そうな集まりでは、どんなに勧められても、酒は飲まない。
よっぱらっちゃう、、、というのは、実際、気持ち悪くなっちゃうってこともあるんだけど、それ以上に、「制御不能なおしゃべり機能」が発動するのが「やばい」と思っているからなの。

気兼ねなくいられる仲間うちの飲み会とかなら、実際問題として、私、結構、飲んでると思う・・・。

酔っ払うと、さらに耳、悪くなりません?
口が饒舌になる分、どうも私は宴会中は耳がふさがる感じがします。
耳が聞こえないってほどじゃないんだけど、鼓膜に蓋ができる感じになる。なんだろね?

ここぞとばかりに「休憩!」ってなってるのかもしれません。

優れている、って思う部分こそ、時々、休憩させてあげることが大事、そんな気がする宴会シーズンです。