9月3日         <ATMネットワーク>
先週の火曜日から大阪心斎橋のマネックスATMと全国のクレディ・セゾンのCD・ATM機で、マネックスの証券総合口座から現金が引き出せるようになりました(10月1日からは郵貯のATMも接続されて、そこでは入金もできるようになります)。マネックス《セゾン》カードは「ダブル・ストライプ」といって、クレジットカードであると同時にキャッシュ・カードでもあります。私も早速先日、関西のとある都市のセゾンATMで試してみました。画面表示はまだ切り替わってない所が多く「銀行取引」のボタンで行なうのですが、あたかも銀行預金を引き出すかの如く、簡単に現金を手にできました。全国どこからでもインターネットを通してマネックスのサーバに接続できて取引ができることには勿論全く違和感を感じないのですが、街に置いてあるATMがマネックスのサーバに接続されてしかも現金がそこから出てくるとなると感無量のものがあります。ネットワークは到る所に張り巡らされていて、本当にどこからでもどこにあるサーバでも簡単に接続できるようになってきた訳です。いずれユビキタス・コンピュータが実用化されると、サングラス(みたいなコンピュータ)を掛けながら、視線で追うだけでいろいろな情報が取れたり決済ができたりするようになるのでしょうか。まるでスタートレックのボーグ集合体のようで気持ち悪くもありますが、何か面白そうですね。


9月4日        <月>
出張でアメリカにいます。昨日の晩に日本を発ち、本日(と言ってもこちらの時間では既に昨日ですが)夕刻にニューアーク空港(ニュージャージー州。ニューヨークのすぐ脇です。)に着きました。空港の構内から景色は違います。人の姿も違うし、空港の駐車場に止めてある車のデザインや雰囲気も違います。車で飛行場を出ると、車内でかかっている音楽もやはり日本のタクシーとは違いますし、車窓に映る景色も勿論また違います。気がつくと日は暮れてしまい、ふと窓の外を見上げると月が出ていました。それも度々つぶやきで書いてきた赤い満月が。色も、大きさも、東京で見るのと同じです。当然のことですが表面の模様も一緒です。こんなに周りのもの全てが違うのに、月はやはり同じ月である、しかも見え方も全く一緒であるということに改めて感動しました。見えるものが同じなのにどうしてこんなに違う文化を作ってきたのだろう。いや月ほど遠い物だからこそ、これだけ場所や環境が違っていても同じに見えるのだろう。違う文化の人と対話する時には遠く、高く視点を添えて、昇華した次元で話せるといい。と、そう思いました。


9月5日        <雷>
今日はフィラデルフィアでの仕事を無事終え、夕方からロサンジェルスに移動しました。フィラデルフィア空港を発つ時にひどい雷雨となり、1時間半ほど出発が遅れました。ようやく離陸し上昇して雨雲を突き抜けると、当然綺麗な青空が拡がるのですが、ふと気付くと窓の左の方に大きな大きなマフィンのような積乱雲が雨雲の上にくっついていました。そしてその積乱雲の中でバチバチと凄まじい明るさと規模で雷が光っていました。線状ではなく、大きな雲の内側の4分の1ぐらいの部分がまるで爆発するかのように光るのです。生まれて初めて雷の発生現場を見ましたが、あれは恐い。どう見ても誰か(雷神様かマグマ大使に出て来る悪役か)が中にいて、怒りのために暴れ狂っているという感じです。ところが不思議なことに私の知識では、雷はあまり「神様」扱いされていません。ギリシャ神話などの西洋物でも古事記などでも、あまり強大な雷の神様の話は聞いた覚えがありません。古今集などでも、
天の原ふみとゞろかしなる神も 思ふ中をばさくる物かは (読み人知らず)
というような、恋愛の小道具的には詠まれているのですが、「畏怖」の念を持ったような歌は見当たりません。何故でしょう?あまりにも鋭く激しいので、かえって神様的でないのでしょうか。


9月6日      <カリフォルニア>
(まず昨日のつぶやきについてですが、雷が神様として扱われないというのは必ずしも正しくないようです。ゼウスにおいても菅原道真においても道具や武器として雷は多々使われているようです。しかし雷自体の神格化はやはりあまりないようです。)
今日はカリフォルニア州南部で投資家巡りをしました。夕方の便でサンフランシスコに来ています。明日から当地でサンフランシスコ講和条約50周年記念式典があり、投資家巡りをしつつ式典における様々な会議に参加します。カリフォルニア州はその長さにおいて日本と同じくらいと記憶しています。幅は確か日本より広く、面積はカリフォルニアの方が広かったと思います。一方日本においては、居住可能地域はその僅か20%であり、人口密度は遥かに日本の方が高いのです。同時に日本においては労働可能人口が減少しておりますが、世界経済の文脈においてはGDPを減少させる訳にはいかず、これは中々難しい命題となっています。移民を多く受け入れることは、人口密度などの問題からも難しいでしょうから、労働可能人口における実労働人口を増やすしか処方箋はないように思えます(GDPの60-70%は個人消費ですから)。そうすると、やはり女性や健康な高齢者がもっと働くことになると思います。そうすることによって人口が減りつつも労働人口を維持できるからです。すると日中家にいて、銀行や郵便局に行って金融取引をできる人口が減り、いつでもどこからでもできるオンライン金融への需要が高まります。これがマネックスのビジネスモデルの重要な仮定の一つです。


9月7日       <構造改革の目標>
(まず初めに、雷の神格化についてですが、実際多くの例があると大勢の方からメールを頂きました。どうやら無知のため間違えたようです。失礼致しました。)
アメリカにおいて、小泉内閣による構造改革の蓋然性についてよく聞かれます。しかし私が一番気になるのは構造改革自体の蓋然性よりも、どのような目標で改革を行なうかです。銀行の不良債権問題を処理しても、何故不良債権が発生したかについて同時に考慮し対応しなければ、結局元の木阿弥になり兼ねません。特殊法人に対する予算の付け替えをしても、また将来になると既に必要のないセクターに予算が多く付き過ぎていることになり兼ねません。経済は常にダイナミックに変化して行きますし、人の判断力には限界があります。ですから日本においても市場経済原理をきちんと導入して、様々なリソースの配分の問題をマーケットに委ねるような仕組みを作って行くことが重要だと私は思います。そのような目的意識が今の内閣には若干欠けているように私には思えてなりません。


9月10日      <サンフランシスコ>
サンフランシスコの気候は一風変わっています。海流や霧のせいで8月の末頃が9月、10月よりも寒くなると言います。マークトゥエインは「もっとも寒い冬はサンフランシスコの夏だった」と言ったそうですが、流石うまく言い当てていると思います。この当地で大がかりな講和条約50周年記念式典が開かれました。50年前の9月8日に講和条約がそして安保条約が締結されました。日本は主権を回復し、国際社会に復帰することが許され、敵国は同盟国として扱われ、平和を維持するための仕組みが置かれました。この極めて重要な歴史を大切に回顧する、意義ある式典だったと思います。過去の恨みや痛みを忘れることはいいことだと思います。それは限りある命を持つ「ヒト」に与えられた極めて重要な力だと思います。しかし一方で過去の過ちから学習し、教訓を忘れないことは更に重要なことだ思います。50年前の史実の回顧が、日本よりもアメリカにおいてしっかり行われたのではないかと、一抹の不安を覚えました。
(先程台風の雲を突っ切って無事成田に着陸致しました)


9月11日       <銀行の融資>
今朝の日経新聞一面のコラムによると、日本の銀行は未だに大企業向けの融資残高を減らさないようにあの手この手で努力をしているようです。株の持合い、銀行がビジネスを企業に発注する見返りに融資を維持するという「取引の持合い」、市場金利を下回る金利、等など。一方で銀行の借入を無担保で受けられない中小企業が全国に溢れています。このような「集中」はリスクを増大し、成長を阻害します。先日サンフランシスコのコンフェランスで隣りに座ったバンク・オブ・アメリカの幹部に聞いた所、銀行全体の資産残高は維持しているものの、企業向ローン残高はここ5年ぐらいで大幅に減らし、個人向けローンや様々な形での証券向け投資などを増やし、リスクの分散を大きく進めてきたそうです。そもそも「集中」といったものが我が国の金融の大きな根本的な問題だと考えているのですが、そのことについてはまた説明したいと思います。


9月12日     <無題 1日目>
本日のマネックスメールは、つぶやきも含めて一切の主観的な文章を差し控えさせて頂くべきと一旦は考えたのですが、やはり敢えてコメントすることに致しました。

まず始めに、テロの犠牲になられた方々と被害に遭われた全ての方々に対して心からのお悔やみとお見舞いを申し上げます。ほとんど言葉を失っておりますが、アメリカ、民主主義国家群に限らず、広く世界全体においてこれ以上悲劇が拡がらないことを祈るばかりです。現アメリカ政権は最近若干一方的・一国的な論理の展開をして来た部分もあるかも知れませんが、テロの暴挙は決して許されるべきものではなく、あまりにも強い悲しみと怒りを感じます。

経済や市場に対する影響ですが、現状における被害が世界経済全体からみれば限定的であり、また戦争は起こらないと仮定すると(そう信じます)、テロに対する不安から来る信用や企業価値倍率の縮小と、当然打たれるであろう各国中央銀行による大幅な流動性の供給(恐らく量的緩和という手法が取られると思いますが)を軸とする信用の創造とが綱引きをするのではないでしょうか。


9月13日    <無題 2日目>
本日のマネックスメールも昨日に引き続き一部内容を変更させて頂きます。

私はウォールストリートの会社での勤めが長く、世界貿易センタービルのすぐ近く(直線距離で150m程度でしょうか)にも都合一年間以上住んでいたことがあります。知り合いも多く、とても馴染みのある場所なので正視に耐えません。しかしこのような悲しみの大きさは、そのような「関係」の多寡によって左右されるものではないでしょう。一日でも早く世界中に(経済・市場も含めて)穏やかさが取り戻されることを祈ります。

以上を本日のつぶやきの替わりとさせて頂き、
 ・相場コメント(個別銘柄部分)
 ・松本大のつぶやき
 ・編集長の独り言
 ・ブリッジレポート
のコーナーはお休みとさせて頂きます。


9月14日    <無題 3日目>
本日もマネックスメールは一部内容を変更させて頂きます。

混乱していた頭と心とが、ようやく、徐々に、不完全ではありますが回復を始めました。市場の動きも同様です。これからも行ったり来たりを繰り返しながらいずれあるべき場所に行き着くことでしょう。

以上を本日のつぶやきの替わりとさせて頂き、
xxxxxxx
のコーナーはお休みとさせて頂きます。来週月曜日から通常通りの形に戻す予定です。


9月17日       <対話と信頼>
3日間つぶやきはお休みしました(マネックスメールの冒頭部分に簡単な文章だけつぶやきの替わりに添えましたが)。今日から再開です。暫くはどうしてもあの事件の話題が出てきてしまうと思うのですが、なるべく今まで通り広い範囲にわたって書いて行きたいと思います。その為にも今日は一旦まとめて事件について述べておこうと思います。
しかしながら事件についての一般的な解説や、善悪の評価などについては敢えて申し上げません。その代わりに2つの点についてだけ述べておこうと思います。コミュニケーションとコンフィデンスです。対話と信頼とでも言いましょうか。
まずコミュニケーションについて。今回の事件で思うのは、とかく世の中はロジカルでないことが多いということです。○という主張があればXという考えがある。世の中は不完全であり、全てのことを完全にコントロールすることは不可能です。であるからこそコミュニケーションは大切です。解決できなくてもいい。例えば議論が解決の兆しがあれば対話を続けますが、平行線になった場合に5分で対話を打ち切るのか、3日間でも或いは何年間でも「平行線の対話」を続けるのかは、ロジカルには前者の方が効率が良さそうですが、実際の世の中はそうでもないのではないでしょうか。何日間も平行線の話をして、「やっぱり平行線だな。また話そう。」と言って別れるのも立派なコミュニケーションだと思います。不完全であるが微妙なバランスというものがあり、それを維持するのは弛まぬコミュニケーションに対する努力ではないでしょうか。我々が皆同一ではなく互いに異な存在であり、また、であるからこそ全ての経済活動・社会活動が存在し得るということ、そしてその基盤を守れるのはコミュニケーション以外にないということを再確認すべきだと思います。
もう1つはコンフィデンスについて。先述したように、物事を完全にコントロールすることは不可能です。毎日の車の運転だって、対向車が突っ込んで来ると思ったら中央寄りの車線なんて運転できなくなります。おしなべて経済活動は信義則の上に成り立っています。企業価値がPER(株価収益率)、即ち利益の何年分かで計算されることが一般的であるのも将来にわたって何年間か企業活動が続けられるというコンフィデンス(この場合は期待と言った方がいいでしょうか)に拠っています。現代における経済は、実際の手元の財の動きなどよりも、このような信頼や期待によって形成されている部分の方が遥かに大きいと思います。例えば日経平均がこの1年ちょっとの間に半分までに売られましたが、日本の経済規模が半分になった筈がありません。ポジティブな期待からネガティブな期待への変化が株価をここまで下げた訳です。事件によって失われた物質や財は、経済全体から見たら(不謹慎な表現で大変恐縮ですが)限定的です。しかしここでコンフィデンスを失うと、その影響は計り知れないと思います。それは株価に限ったことではありません。他を信頼すること、他に期待すること。そういったことが失われないように、皆で細心の注意を払って、そして建設的に対応して行かなければいけないと思います。そういった意味で今世界のリーダーシップ達に求められていること、対応の内容は極めて重要だと思います。正しい対応をすると信じたいと思います。


9月18日      <当事者意識>
世界的に著名な投資家であるウォーレン・バフェットは日曜日のテレビ番組の中で、「経済的に一週間前の米国と今の米国は違う国ではない。所有株は一切売らない(これが月曜日はという意味か、当面という意味かは私が調べた限りでは不明瞭なのですが)。大きく売られれば買うチャンスもある。」と言ったそうです。個人投資家の間にも「ここで売ったらテロリストの思う壷だ。みんなで売らずに、アメリカの会社の株を一株買おう。」といった気運も一部で上がっているそうです。昨日の米国株式市場は、S&P500種で5%弱の下落、売買高はNYSEにおいて過去の記録を13%上回る史上最高高だったようです。下落幅は他国(特に日本)における幅や事前の懸念に比べると大したこともなく、「売り注文が殺到」などと(特に日本のメディアが)書かれますが、売り買いが均衡しなければ売買は成立しない訳であり、「買い注文も殺到」していたとも言えます。評論家にならずに当事者としての意識を強く持ち、自らの経済、資本市場を守ろうとする意志が垣間見えます。勿論マーケットは行くべき所にしか行き着きません。しかし昨日もつぶやいたように期待や信頼はマーケットの重要な、そして恐らく最大の部分です。このような当事者意識をいろいろな面で我が国ももっと持つべきではないでしょうか。


9月19日      <男か女か>
今日は久し振りに柔らかい話をしましょう。タレントのカルーセル麻紀さんがマリファナとコカインを所持していた為に逮捕されました。御存知のようにカルーセル麻紀容疑者は性転換手術を受けた元・男、今・女です。その彼、もしくは彼女、は男性用の独房に拘留されたそうです。一方数ヶ月前に地中海のキプロス島では、「女みたいな男」が詐欺罪で逮捕されたのですが、男性房に入れるべきか女性房に入れるべきか迷った挙句、どちらにも決め兼ねた警察が釈放してしまったそうです。なんだかややこしいですね。しかし恐らくややこしさは古の時代から何も変わっていない訳で、分類のマス目を細かくすればするほどややこしく見えますから、もっとマス目を拡げて見るという考え方もあると思います。自然科学の根本理論だって何十年、何百年に一回は根底から覆されることもある訳で、そういったファジーなアプローチもたまにはいいでしょう。


9月20日     <ウイルス>
ニムダと呼ばれるコンピュータ・ウイルスが猛威をふるっています。ネットワーク上で伝播し、各コンピュータ内でデータを破壊したりするプログラムのことを「ウイルス」、このウイルスが伝播することを「感染する」、ウイルスに対する防御プログラムを「ワクチン」と呼んだりします。これらの名称に最初は違和感があったのですが、今ではうまく考えた名称だなと思います。ネットワークとコンピュータの関係は、社会と人間の関係に似ていて、朱に交わると赤くなったり、インフルエンザのウイルスの構造は年々その感染力を強めて行き、毎年新しいヴァージョンに対応するワクチンが開発されたりします。風邪を引かないには予防が一番で、ばい菌のある所には行かないようにし、「来たな」と思ったらすぐうがいをすることです。知らない人からのメールとかにはくれぐれも注意しましょう。


9月21日      <集中>
日本の金融の問題を作ったもっとも重大な理由は「集中」ではないかと考えています。1400兆円と言われる個人金融資産のうち、郵便貯金だけに250兆円、簡保には120兆円もあります。郵貯、簡保も含めた大手金融機関を上から順番に10社も数えると恐らく1400兆円の半分ぐらいがあるのではないでしょうか。そしてそのお金の投資先の判断を下している人達は、似たような教育を受け、似たような背景を持った、数十人の人達ではないでしょうか。全国民のお金の50%と、全国民の0.01%に満たない人達。それでは流石に投資先が偏ります。人は必ず間違いを(少なくともいつかは)起こすものです。一度は正しい判断をしても、常に正しいとは限りません。戦後の規格大量生産を進める時代にはそのような資金配分方法は効率的だったかも知れません。しかし現代のような、常にダイナミックに状況が変化し、かつ多様化が進んでいる時代には、今までのような集中型の金融の仕組みではリソースの最適配分が出来なくなってきているのでしょう。それが経済を閉塞させ、不良債権を作り続けている一大原因だと、私は考えています。


9月25日       <秋の音>
古今集の話は度々書いてきましたが、春や夏の到来は「匂い」で気付き、秋の到来は「音」で気付くケースが多いようです。
五月待つ花たちばなの香をかげば昔の人の袖の香ぞする(読み人知らず)
秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる(藤原敏行)
これらは古今集の中でももっとも有名な二首ですが、一首目は夏の巻とは言え季節的には春から初夏にかけてでしょう。
今年の東京は天候が不順で、7月はやたら暑かったかと思うと8月は割と涼しく、9月に入ると珍しく台風が直撃して気温が上下にぶれて、季節感が若干混乱しています。鈴虫などの虫の声が既に徐々に静かになりかけているのに、未だにツクツクホウシやヒグラシの鳴き声も聞こえたりします。やがてこれらの音が全てなくなり静かになると、完全に夏の名残りは消え、冬がすぐ近くに迫ります。このように音が徐々に「減って行く」(diminish)ところが秋の季節感の骨格でしょうか。


9月26日        <経済と金融>
経済と金融は似て非なるものです。しかしわが国の政治においてはこの二つの差は認識されないでごちゃまぜにされているように見えます。当然経済政策の策定に必要な経験・能力と、金融政策の策定に必要なそれとはやはり似ていても違うものです。日本の政治において金融は果たしてどれだけ理解されているのでしょうか?さらに興味深いのは経済・金融政策に於ける日米のスタンスの違いです。アメリカに於いては経済全般は基本的に民間に委ねられるべきと考えているのか、一般に金融政策の方に力点が置かれており、金融の分野で諸策を迅速かつ大胆に取ることにより経済活動全般を効率的、間接的にサポート、或いはコントロールしようとしているように見えます。一方日本に於いては経済政策の方が金融政策より上位にあるようですが、電機・カメラ・自動車のように政府が保護政策などを取らなかった業種ほど国際競争力があるのを見ると、やはりアメリカのように経済は民間に任しておいて、まず金融政策を的確に打って欲しいと私は思います。


9月27日       <赤い月 その3>
たまに見える大きくて赤い月については今までに何度か書きました(2000年7月19日号、2001年4月27日号)。地上の建物の近くに見えるので、錯覚により大きく“見える”だけである、というのが最後の説だったのですが、昨晩またその説が覆されてしまいました。真夜中にタクシーを降りる時に大きくて赤い月(普通は満月ですが、昨晩はその時間ですから上弦の月でした)が西の空に見えました。そのまま歩いていると建物の陰に隠れて見えなくなったのですが、思い直して随分歩いて元の場所に戻って前からやりたかった実験をしてみました。股の間から覗いてみたのです。前回の説によると、そうすると大空の中に月が浮かぶように見えるので錯覚が取れ、月はずっと小さく、普段に近い大きさに見える筈なのですが、残念ながらやはり大きい月でした。また歩き始めると、今度は反対側の建物の上の方の窓に月だけが反射していました。それが赤くて大きかったのです。これはどう考えても錯覚だけでは説明できません。やはり最初に立てた仮説(水蒸気の影響などで実際に大きく見えている)の方が正しかったのでしょうか?
バックナンバーはこちら:http://www2.monex.co.jp/j/monexmail/backno/backno.html


9月28日      <成功と失敗>
失敗しないと人は学ばないとよく言います。成功よりも失敗の方が為になるとも言います。本当でしょうか?実は失敗体験の中にも成功体験の中にも、為になる情報は同量含まれているのではないでしょうか。しかし人は失敗すると真剣に分析し、その理由を失敗体験の中に探そうと努力しますが、成功した場合にはそのような行為を怠ってしまうのでしょう。いい時も悪い時も、情報はほぼ同量溢れています。常に弛まず回りの情報に耳を傾け分析・消化しようとする姿勢を持ち続けられる人は大きく成長して行くでしょう。会社も私自身もそういった存在でありたいと思います。