6月1日    <中国語>
昨晩ディナー上での会話で大変興味深いことを知りました。中国語には時制がないというのです。主要な言語の中では恐らく中国語だけでしょう。言葉は考えるための主要な道具ですから、当然そのような大きな特徴は思想にも影響を与える筈だと私は思います。そこでふと思ったのですが、儒教においては常に歴史の目を強く意識しますが、あれはこの言葉の特徴のせいでしょうか?常に時制がないとなると、昔の人間の行動も常に現在の行動と同じように表現しますから、逆に自分の今の行動も、将来において常に同時代の出来事のように語られると想像したのではないでしょうか?日本の文化も、どこかに日本語(膠着語)の特徴に根ざしたところがあるのでしょうか?


6月2日    <記念日>
毎日つぶやきを書くのも、実はなかなか大変なものです。「今日は何の日」というサイトがあり、密かにネタ探しでチェックしたりもします。聞いた話によると(昨晩テレビで話題になっていたそうですが)、1年に記念日は200以上あり6月は一番記念日が多い月なのだそです(祝日は1日もないのですが)。日本では特定の日にちをそのまま祝日にするのが通常ですが(最たる例が春分・秋分の日です。これらは本来の天文学的な春分・秋分の日に合わせて毎年移動します)、アメリカなどでは常に第何月曜日になっており常に連休になるようにしてあります(ご存じのように日本でもこの方式を導入し始めました)。日本は休みが少ないと批判されたりしますが、実は国民の祝日の数で見ると世界的にもかなり多い方です。祝日、記念日だけを見ても国民性は現れるようですね。


6月5日       <くらげ>
くらげは海月とも水母とも書きます。あの白く寒天のようにプカプカ浮く姿は、何とも言えない雰囲気があります。古事記にも、国がまだ幼くて頼りなさそうにある姿を、「海月なす漂へる時」と記述しており、古代より日本人には馴染みのある生き物だったのでしょう。また、ものによっては時代の流れとともにその捉え方は変わることもあるものですが、やはりくらげに関しては昔も今も「頼りない」というのが一貫したイメージだったようです。季語は夏で、やはり葛切りのような冷たい感覚があるのでしょうか。さてこのくらげですが、先日駒形橋の袂でいっぱいプカプカしているのを見ました。しかしあれは海の生き物ですよね?勿論泳ぐことも出来そうにないし。隅田川の水は、駒形周辺までも海水が上がってくるのでしょうか?


6月6日     <マーケット>
先日、青学講堂で開かれたビット・バレー・アソシエーション主催のフォーラムで、伊藤穣一さん、作家の田中康夫さんとパネル・ディスカッションをしました。その時の議論の一つにNPO的な形の、例えば寄付という形の出資的行為の是非がありました。現状のベンチャー・キャピタルによる出資行為が、対象となるネット・ベンチャーのビジネス・プランや意義とかを必ずしも解さない、あくまでも金銭的リターンを狙っての行動になりがちであり、そうであれば却って寄付的な出資行為の方がより良い方向にベンチャー・ビジネス群を導くのではないかという議論です。私はこの点については違う立場をとっています。一個人、もしくは一団体による寄付的行為は(それが仮に例えば国によるものであっても)、一見美しい調和を創り出すようで、然しながらある一個(人・団体)は常に正しくはあり続けられず、やはりマーケットという仕組みの中でこそ恣意を排除して予定調和に到達できるのではないかと私は思います。今の日本のマーケットが、正常、健全、効率的に機能しているかという議論と、マーケットという仕組みの是非の議論は違う問題だと思います。マーケットの仕組みを尊重しながら、マーケット自体の運営や参加者の意識を改善することなどにより、マーケットの機能を良くして行くことが大切だと思います。


6月7日     <買うか売るか>
大体のものは、作るなり買うなりして、まず手元に持っていないと売ることも出来ませんが、金融商品(マーケット)は持っていなくともいきなり売ることが出来ます。勿論これは誰でも出来るわけではありませんが、プロのトレーダーに至っては売りから入らずにはいられない癖を持った人までいます。一般にこのような行為を「ショートする」と言います。ショートする方法はいくつかありますが、借りてきて売ったり、先物という商品を売ったり、あるいはプット・オプションを買うという方法もあります。プロなら格別、私は個人資産運用には「ショート」は必ずしも必要ではないと思うのですが、「マーケットを売れる」手段にはそれなりの価値があります。皆さんはどう思われますか?
是非ショートしたい  mailto:ans1@monex.co.jp
あまり興味ない    mailto:ans2@monex.co.jp
(御回答されても、人数のカウントだけをしますので、メールの内容は残念ながら読めません。御了承下さい。)


6月8日    <寿司ネタ>
何度かつぶやきで書いているように、私は寿司が大好きですが、やはり寿司は初夏から秋にかけてがもっとも楽しい時期だと思います。稚魚がだんだん成長してくるので、小さい魚が次から次へと変わりばんこに登場してきて舌を喜ばせてくれます。基本的に寿司は冷たい食べ物なので、その食感もやはりどちらかというと夏に合っているのでしょう。新子が出てきて、コハダに変わり、最後に9月から10月にかけて本当においしいイクラがほんの一瞬出てきて、寿司のハイ・シーズンは終わるというのが私の感覚です。あぁ、本当に楽しいですね。
(昨日の<買うか売るか>については大勢の方から御投票を頂きました。ありがとうございました。結果は「是非ショートしたい」方が65%、「あまり興味ない」方が35%でした。但し、回答率が購読総数の1%未満であったことを勘案すると、思ったよりショートに対する需要は低いというのが私の感想です。また何かつぶやきを通して質問させて頂くことがあるかも知れませんが、宜しくお願い致します。)


6月9日       <3年後>
いろいろなメディアから取材を受けますが、受ける質問の中には答えが分かるもの、分からないものなどいろいろあります。その中で答えがないことが明らかであるという質問が一つあります。それは「マネックスの3年後は?」というものです。今はとても流動的な時代であり、加えてインターネットとか、金融とか、日本において今もっとも流れの速い分野の一つにマネックスはいますので、さすがに3年後のことは分かりません。分かることは、3年後にもしマネックスが今のマネックスとまるっきり同じことをしていたら、もはや私たちの存在価値は極めて低くなっているだろうと言うことです。時間軸が短縮されている状況をよく「ドッグ・イヤー」と言いますが、日本におけるこの分野はむしろ「キャット・イヤー」あるいは更に短縮されて「マウス・イヤー」かも知れませんね。


6月12日    <秋葉原>
週末にまた秋葉原を彷徨しておりました。OSを1つ買い、他にソフトをいろいろと物色しました。取り敢えず驚きの発見はなくて、残念なようで実は一安心。次にPCを見ました。いつもノートブックばかり見ているのですが、久しぶりにデスクトップも覗いてみるとなかなか新鮮な驚きがありました。思ったよりもPCと家電の融合が(例えばテレビとの)、取って付けたような形だけではなく、よりしっかりとした形で進んでいるようでした。この試みは随分前からありますが(インターネットテレビとか)、ようやく形になるかも知れないなと思いました。それからレコード屋さん。比較的古い店で、だだっ広い売り場(最近よくある何階にも分かれている形式ではなく、たったの1階だけです。但し広い)に全てのジャンルの膨大な量のCDが所狭しと詰めて並べてあります。私は音楽は雑食なので、歌謡曲、懐メロ、クラシック、ジャズと廻っては戻り、そしてまた廻り、最後にポップスのセクションでいくつか知らない新譜を買って仕上げました。そのうちのひとつはエリック・クラプトンがB.B.キングと共演しているもので、黒のフェンダーとレスポールのジャケット。2人のスタイルを堅持しながら認め合うような、大人のアルバムです。いやぁ、秋葉原って本当に楽しいですね。


6月13日   <デジタル・デバイド>
電話ベンチャーという言葉がないように、ネットベンチャーという言葉もいずれ使われなくなるだろうというつぶやきを以前にしたことがありますが、近頃よく聞くデジタル・デバイドという言葉も早晩聞かなくなるでしょう。日本においては人口の約30%を超えてあるものが使われるようになると、それは日常化するというのが私の持論です。携帯電話も1000万人が使っている時と、5000万人以上が使っている今とではその捉えられ方も、利用方法も大きく違います。お父さんだけではなく、今はおじいちゃんも、おばあちゃんも、お母さんも、場合によっては子供まで使う時代です。ケータイ・デバイドなんて言葉ないですよね。インターネットもそうなるでしょう。政府調査で2700万人、インターネット白書によると2000万人が既にインターネットを使っています。ネットやデジタルが日常化するのは時間の問題だと信じています。


6月14日    <中吊り広告>
私の好きなものの一つに中吊り広告があります。それも雑誌などの広告が一番です。いろいろと工夫されていて、狭い場所に多くの情報が、それぞれの強調したい度合い、遠近感を伴って、てんこ盛りになっています。前から好きだったのですが、最近特にその傾向が強まっています。ネット上で情報摂取することが増えているせいでしょうか?ネットの上では情報はあまり遠近感を持って表現されませんから。ネットの上でも、「Web現代」(http://kodansha.cplaza.ne.jp/)のように立体感のあるページもあります。ネット・インフラが良くなると、このようなページももっと増えてくるのでしょうか。


6月15日      <全米1位>
1963年の今日、坂本九の「上を向いて歩こう」はスキヤキ・ソングとして全米1位に輝きました。前にも後にもただ1つの日本製全米1位が、アメリカ市場用に作られたものではなくて、そのまま日本語で歌われていたというのは興味深いことです。旋律も、言葉もそのまま。以後、アメリカ用に作られた歌はいくつもありますが、アメリカの人々の心や唇を動かすことはありませんでした。これはどういうことでしょう?単なる偶然でしょうか?迎合しようとしても、母国語でない言葉で大勢の人に訴えることは難しいでしょう。マライア・キャリーの「キニシナイ」よりも、意味が分からなくても英語の熱唱の方がいいですよね。純和製が全米1位を取るのは、次はいつのことでしょうか。


6月16日     <ザ・ファンド>
昨日「ザ・ファンド@マネックス」の記者発表会で、ある記者の方が風変わりな質問をされました。「『ザ』の付いた投信って今までありましたか?」 THEは定冠詞です。THE SUN とか、THE SEA とか、本来世の中に1つしかないものに付ける冠詞です。興味深いのは町を歩いているとこの定冠詞の付いた名前の店(レストランなどの、個人営業による飲食店)が多いことです。これは日本だけの現象でもないようですし、英語に限らずフランス語などでも良く見受けます(ラ・ヴィーとか、ラ・テールとか)。どうしてでしょう?ただ1つとか、1番、という強い思いや願いが込められる時に、思わず定冠詞の付いた名前を連想してしまうのでしょうか。


6月19日   <ル・マン>
あの有名な24時間耐久レースが今年もフランスで行われました。優勝はアウディ。しかも参戦2年目で、かつ1位から3位まで独占です。何か不思議ですね。自動車レースは大好きなのですが、今年は忙しくてニュースを追いかけていませんでした。そのため経緯は良く知りませんが、BMW、メルセデスなどの強豪が参戦していなかったようです。ポルシェもワークスは出ていなかったのでしょうか?アウディが本当に強かったのか、ライバルがいないから勝ってしまったのか、検証のしようもありません。ただ競争ごとは、やはり強いのがみんな参加して初めて面白くなりますよね。ではマーケット(市場)はどうでしょうか?MかNかとか・・。バラバラ分かれないで1つの方がいいでしょうか?私はそれはあまり重要ではないと思っています。そもそもマーケットは競争ではないし、特に現代のようにオンラインでウェブ上で簡単にトレードできる時代には、市場の違いというのは投資家(少なくとも個人投資家)はあまり意識しないのではないでしょうか。それより銘柄ですよね。


6月20日   <ニュー・エコノミー>
最近ニュー・エコノミーという言葉をよく聞きます。ネットベンチャーなどを軸とする新しい企業群や経済を表現する言葉です。先日受けたニュー・エコノミー絡みの取材の中で、5年後の日本はやはりニュー・エコノミーによって塗り替えられているでしょうかという質問がありました。私はこの見解には懐疑的です。ネット上で展開するビジネスは、やはり市場としては基本的に日本に限定されると思います。市場としての日本は、もちろん極めて大きいものですが、今までの日本の経済成長の経緯を見ると、やはり自動車とか電気製品とかが日本発で世界中に浸透して行ったことによる部分が大きいと思います。ある意味でeコマースには国籍がありますが技術には国籍がありません。日本の経済成長を本当に牽引できるのはやはり世界に通用する技術や製品だと思います。またそうでなければいけないと思います。


6月21日    <夏至>
今日は夏至です。太陽が一番高く、昼が一番長い日です。英語では First Day of Summer と言います。確かにこれから夏って言う雰囲気ですよね。東京では朝顔市、七夕、ほおずき市と言った夏の風物詩がそろそろ始まる季節です。ところが日本語で立夏というと5月の頭です。ちょっとぴんと来ませんね。立春、立夏、立秋、立冬とある中で、どうも立夏だけは季節的に納得行かない気がします。梅雨のせいでしょうか?夏はやはり四季の中でもっとも強烈な性格な季節なので、ちゃんとそれらしくならないと、文章上のこととは言え、夏が始まったと感じられないのでしょうか?東京だけの感覚、或いは私だけの感覚でしょうか?


6月22日    <つぶやき大作>
毎日つぶやくのも中々大変です。今日だけ若干端折らせて頂いて、私の本について紹介させて下さい。実は2月頃に、週末を使って丸々2日間、TBSの経済部長の武田信二さんという方を前につぶやかせて頂きました。恥ずかしながら私がウォール・ストリートの出店で働いていた時に学んだこと、マネックスの誕生に至るまでの経緯、マネックスの理念。そういったものをまとめて書いて貰いました。ソニーとの間の秘話も出てくる、ちょっと面白い内容です。ワック出版という所から「マネックス証券 松本大が語る 『eに挑む』」と言う形で出版されました。宣伝のようで大変恐縮ですが、御興味のあられる方は立ち読みでもしてみて下さい。(注:私には印税は入りません)


6月23日     <文化>
文化は余剰の部分に育つものでしょうか、それとも基本的な部分に棲んでいるものでしょうか?これはいろいろなアスペクトで論じることができます。貴族の食べ物と庶民の食べ物、どちらがよりその国の文化を現しているか?高級な日本画と漫画、どちらがより日本的か?窮地に立った時の性格と、普段の余裕のある時の性格が、どちらがよりその人の性格を現しているかということとも、もしかしたら共通した論点なのかも知れません。私はやはり、より多くの人が好んでいるもの、より多い時間に亘って発現しているものの方が、より本質を現しているのではないかと思います。それはやはりそのようなものの方が、変化させることが難しいからです。慣性モーメントが大きいとでも言いましょうか。この慣性を変えていくものが何なのかということを考えると面白いのですが、また次回にしたいと思います。


6月24日      <スタイル>
今日は久しぶりのマネックス・メール・スペシャルです。「何か特別なことを書かなくては」とずっと悩んでいたのですが、昨晩聴いたライブの感動があまりにも強すぎるので、今日はやはりそのことを書かせて下さい。昨日の晩、東大の伊藤元重先生と私の無二の親友など、数名の音楽好き仲間で東京・青山のブルー・ノートに行きました。演奏者はハイラム・ブロックとウィル・リー、プラス若手3人のクインテットでした。ハイラムを生で観るのは約15年ぶり。確か大学生の時に小雨降る田園コロシアムで聴いたのが最後でしょう。ウィルもやはり15年ぶりぐらいでしょうか。生まれて初めての海外旅行で、ニュー・ヨークの、今はもう潰れてしまった、セブンス・アヴェニュー・サウスというとても小さなライブ・ハウスで(と言うよりは殆ど喫茶店とかスナックと言った方がいいくらいの大きさの店でしたが)誰か他のバンドの演奏を聴いていたら、彼が乱入してきて階段の手摺りの上に乗って弾いたのを覚えています。当時のウィルはそれはもう売れっ子で、レコードでもライブ・ハウスでも、どこでも彼の名前を見ないことはないと言った感じでした。彼らは既に45歳あたりでしょうが、昨日の演奏はそれはもう元気で楽しくって、そして滅法うまくて、最高のものでした。15年前と同じようにハイラムは会場を歩き回って、ワイヤレスをつけてギターを弾きまくっていました(随分太りましたが、あとは一緒です)。ウィルも相変わらず高いところが好きなようで客席のテーブルの上に乗ってかっこよくベースを弾いていました。基本的な演奏のパターンは前と同じです。とても上手な技術をさらに磨いた上で、実際の演奏はあまり理論や型にこだわらないで、おいしく、かっこよくする。2人は歌もとても上手で、漫才のように掛け合いながら、そしてかっこよく歌う。ウィルが常にハイラムに対しての脇役としての立場を節度良く保っているのも印象的でしたし、若手のドラマーにソロをさせるときの、2人の優しそうな眼差しも素敵でした。圧巻はジョー・ウォルシュのロッキー・マウンテイン・ウェイの演奏です。ジャンルにこだわらずにあの滅茶苦茶アメリカ的な歌を、会場のお客さんを全員巻き込んで熱演したのでした。彼らの演奏に酔いしれながら、私は「スタイル」のことを考えていました。2人ともきちんとしたスタイルがあります。少しずつ、常に新しい試みを取り入れることも忘れませんが、彼らのスタイルというものはくっきりと鮮明で、そしてそれを堅持しています。彼らのスタイルは、しかし独りよがりではありません。お客さんとの間合いを常にとても神経質に測って、自らのスタイルが受け容れられるように細心の注意を払い、微調整しながら、スタイルを構築しているように見えます。それでも尚鮮明なイメージのスタイルを持ち、それを実行し続ける。人を動かすにはこの「スタイル」が必要なのではないでしょうか?しっかりとコミュニュケートして受け容れられるようにし、外部からの異物ではなく、内側からの力となること。同時にいろいろなベクトルに力を発散させないで、1つの方向(スタイル)に力を集中させ、かつ倦まず弛まずそれを実行すること。慣性にうち勝って、大きなものの方向を変えて行くことは容易ではありません。マネックスも日本の資本市場のあり方、個人金融サービスのあり方をいい方向に変えたいと願っています。そのためにはやはり皆様の声を聴いて独りよがりにならないようにしながらも、スタイルはきちんと持ってそれを実行し続けることが必要でしょう。演奏とお酒に酔いながらも、また決意を新たにした夜なのでした。


6月26日    <投票率>
昨日の総選挙の投票率は62.5%、投票時間の2時間の延長にも関わらず、戦後2番目に低い衆議院議員選挙でした。不在者投票の要件の緩和によって不在者投票数は大幅に増えたようですから、インターネットでも投票できるようにしたら(それも投票時間を大幅に延ばして)、恐らく投票率は飛躍的に伸びると思われます。3月に米国アリゾナで行われたネット選挙では、前回に比べて6倍の投票数を達成しました。しかし日本でネット選挙が導入されるのはいつのことでしょうか。政党の勝ち負けを気にするあまり、うっかり投票率が低い方がいいように思っているとも取れる発言を一国の首相がしてしまうほどですから、まだまだ道程は遠いと言えるでしょう。民主主義の基本概念からすれば、勿論敢えて投票をしないと決めた人は別として、できれば投票したいという人にはなるべく多くの参加の機会を与えるべきだと思います。さて、このことは国政選挙だけに言えることでしょうか?株式は会社の美人投票のようなものだと言ったのはかのケインズですが、株価は会社の価値を株数で割ったものに過ぎません。株数を増やせば、一株価は下がり、流動性は増します。ネットを使えば、更に便利ですね。


6月27日    <証券化>
証券化という言葉をよく聞きますが、要はこれから収益を生むもの(資産)を1つの箱に入れて、その資産と収益に対する権利を分割して、大勢の投資家が買えるように小さな額面の権利書のようなものにすることです。証券化される資産としては、銀行の貸出債権、クレジットカードの売掛債権、オフィスビルなど、いろいろあります。発行体の観点からは、資金を広く調達するとか、バランスシートから切り離すとか、種々の理由がありますが、投資家の観点からは、一投資家では投資できないような大きな資産のプールからの収益に参加できるというメリットがあります。今後日本でも証券化商品は徐々に増えてくると思われますが、中には個人投資家をターゲットとしたものとして、小・中規模の不動産物件からの収益を証券化した商品や、様々なコンテンツ(映像や、著作権など)を証券化したものがいずれ出てくるでしょう。これはあくまでも漠然とした話ですが、このような金融商品が個人で買えるようになってきた時に、皆さんは御興味がありますか?
不動産の証券化商品に限らず、コンテンツの証券化商品にも興味がある方。 mailto:ans1@monex.co.jp
あまり興味ない。せいぜい分かりやすいところで不動産の証券化商品ぐらいだという方。
mailto:ans2@monex.co.jp
是非皆さんのご意見をお聞かせ下さい。(投票のみ。申し訳ありませんが返事は致しません。)


6月28日     <漢字>
漢字は表意文字ですので、通常はその字を見るだけで意味が分かり、それを元にイメージを浮かべることができます。但し中にはその読み方によって意味が違ってくるものもあります。常々その最たる例だなと思っているのが「人間至る所青山あり」という漢詩です。
これは「ニンゲン至る所アオヤマあり」と読むと、みんながアオヤマのスーツを着ているみたいですが、正しくは「ジンカン至る所セイザンあり」と読みます。ジンカンは世間の意味。セイザンは古代にお墓として使ったちょっとこんもりとした丘というか林を言います。死に場所はどこにでもあると言った意味でしょうか。イメージできる映像が全然違いますね。視覚と聴覚と記憶の関係というのは、何とも複雑な気がします。


6月29日    <クローズド・ファンド>
一昨日証券化商品について皆さんのお考えを聞かせていただきました。コンテンツの証券化商品にも御興味があるか、或いは証券化商品にはあまり御興味はなく、あってもせいぜい不動産の証券化商品程度であるかというものです。結果は、前者が、後者の3倍を上回りました。新しい商品に対する御興味が高いことを、あらためて実感いたしました。さて、続けてもう一つだけ皆さんの御意見を聞きたいのですが、コンテンツを証券化する場合には、例えばこれから製作する映画やゲーム・ソフトの証券化のように、現状においてまだ成果物ができていなく、かつ実際に成果物が完成して収益を産み始めるまで、場合によっては2年間とか3年間とかその証券化商品を換金できない場合があり得ます。いわば2,3年間のクローズド・ファンドになることが考えられます。質問は、そのように換金性が低い場合でも、やはりコンテンツの証券化商品には御興味があるか否かです。
換金性が低くても興味がある  mailto:ans1@monex.co.jp
換金性が低いと興味がない   mailto:ans2@monex.co.jp
(例によって投票のみで、返事は出しませんので御了承下さい。)


6月30日     <講義>
日本では講義というと、先生がその研究成果などを学生に教えることだと解釈されています。先生と学生との関係というのは、他の国ではどうなのでしょうか?アメリカの大学などでは、少人数でお互いに議論するのが一般的だと思います。では西洋と東洋の違いかというと、「孔子」もある程度議論をしている中での産物のように見えます。ソクラテスの哲学講義などはどうだったのでしょう?但し、日本のある大学などでは、卒業証書を与える卒業式のことを伝達式と呼ぶのを鑑みると、やはり日本は特別なのでしょうか。