東京の街角に、様々な花が咲き始めました。

 週末に街を歩いていると、沈丁花の匂いが漂ってきました。私にとってもっとも鮮明に春を意識させる匂いです。沈丁花はその存在を匂いで強烈にアピールしますが、視覚的には何処にあるかも分からないほどに控えめです。

 一方椿は、その大輪が華やかですが、葉の間に咲く咲き方や、どこかいつも崩れかけているような風貌や、沈丁花のような匂いのアピールがないために、静かな謙虚さを感じます。この頃、辛夷(こぶし)も咲き始めます。若い沈丁花や穏やかな椿に比べて、辛夷は貴婦人のような澄ました感じ、或いはキリッとしたものを感じます。

 そして昨日、霞ヶ関界隈を通った時に、外務省の角の桜が咲いているのを見ました。桜田通り沿い、外務省東南にあるあの桜は、毎年他の桜よりも2週間ほど早く咲きます。新年度は、東京中の桜の開花と共に迎えられそうです。東京にも確実に春がやって来ています。

 今頃咲き乱れるこれらの花の中で、私は沈丁花に最も心を動かされます。あの匂いを嗅ぐと、何かを思い出す訳ではないのですが、気持ちは小学生の頃にフラッシュ・バックします。毎年々々、沈丁花の匂いを探し、嗅いだ瞬間に決まって心が過去に飛躍し、そしてまた現在に戻ります。毎年々々、全く同じ経験を繰り返します。
 
 「人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける」(古今集春歌上 紀貫之)

 昔の匂いとして認識することの中に、変わっているようで実は変わらない人の心を感じます。人は変わるものなのか変わらないものなのか。沈丁花の匂いは、私にとって永遠のテーマのひとつです。