築地本願寺カフェでランチ
先週の日曜日、中央区築地にある「築地本願寺」に行ってきました。目的は、初詣を兼ねて、「築地本願寺カフェ」のランチです。本当は、大人気の「18品の朝ごはん」を食べたかったのですが、午前10時30分までのメニューだったので、次回に持ち越しです。午前11時、「築地本願寺」に到着です。
ここで、「築地本願寺」について簡単にご紹介します。
築地本願寺は、京都の西本願寺の別院として元和3年(1617年)に浅草横山町に建設されますが、明暦の大火で焼失。その後、海を埋め立て、延宝7年(1679年)、現在の場所に再建されます。「築地」の地名は海を埋め立て築いた土地ということから付けられています。
10分ほどでカフェの席に案内されます。注文はテーブルに立てかけられた、このQRコードから選択します。
早速、スマホでQRコードを読み込んでメニューを開きます。スマホを持っていることが前提のサービスなんですね。進んでいますね。でも、お年寄りとかにはどうなのかしらと思ったりもします。下のメニューから定食を選びます。
私は、鳥の唐揚げ定食(1,200円)に、奥さんは和風ハンバーグ定食(1,300円)を選択。とても美味しかったですよ。
築地本願寺の境内に「土生玄碩墓」
築地本願寺の境内に「土生玄碩のお墓」があります。土生玄碩は吉村昭の記録小説「日本医家伝」でも題材にされているので知っていました。
玄碩は、家業を継いで眼科治療法について研究を続け、後に広島藩医となります。その後、徳川将軍家斉の謁見を受け、奥医師を拝命するまで上り詰めます。優秀で、真面目だったのでしょう。
文政9年、玄碩65歳の時、長崎のオランダ商館の医官シーボルトが商館長の随行として江戸にきていました。
玄碩はその席でシーボルトに瞳孔を開く薬の成分を聞くと、「貴方の持つ葵の紋服が欲しい」と交換条件を出されます。その紋服は将軍家拝領のもので、無論外人に渡すことは固く禁じられていた。が、玄碩は治療に役立つものを得たい一心で紋服を贈り、その薬の作製法を入手するのです。
しかし、三年後、シーボルト事件が起こり、その荷のなかに青いの紋服が発見されて、玄碩は捕らえらるのです。
息子の玄昌も職を奪われ、拝領地、住居地、私有地など家財のことごとくを没収され、深川の木場で淋しい蟄居生活を送ります。
漸く、玄碩が家族との交流を許されたのは82歳の時でしたが、掟にしたがつて医業に携わることは厳禁されていました。
土生玄碩が死亡したのは嘉永元年8月17日、行年87歳でした。そして、最期の地、深川に近いこの築地本願寺に埋葬されたのだそうです。
浅草かっぱ橋道具街
約1キロにわたって、調理道具のお店が並んでいます。問屋街なので、当たり前ですが
品数が豊富で目移りしてしまいます。外人観光客も結構いました。
奥さんは、この店で気に入った皿類をいくつか購入していました。
このお店は「刷毛」の専門店のようです。
食器類は手頃な値段なので、ついつい手が出ます。
私は、このお店で、突起がついているゴム手袋を買いました。ジャガイモや魚のウロコをゴシゴシして、剥けるという優れものらしいのです。
浅草に東本願寺がありました。
かっぱ橋道具街の近くに東本願寺があります。
先ほど、ランチをした築地本願寺や京都の東本願寺とどのような関係にあるのか、気になったのでインターネットで調べてみました。ウィキペディアなどによりますと、次のように書いてありました。
開創は慶安4年(1657年)に京都の東本願寺の別院として神田に建立されたのですが、明暦の大火で焼失し、浅草に移転し、「浅草本願寺」と称されるようになったそうです。その後、京都の東本願寺が本山の真宗大谷派から独立し、東本願寺派の本山となっているそうです。
明治元年(1868年)には、上野寛永寺に蟄居していた徳川慶喜を擁護するため、旧幕臣らによる「彰義隊」が結成されますが、その拠点になったそうです。本堂は、鉄筋コンクリート造り。
山門の横に建てられたスチールの案内板を読むと、江戸時代に友好国として対等な関係を持っていた朝鮮から「朝鮮通信使」が来ていましたが、浅草本願寺は朝鮮通信使が江戸に来訪した際の宿館だったと記されていました。
ここも奥さんのリクエストで、帰りがけに、浅草で有名らしい「永久堂」で「ソフトbateer」を購入しました。早速、運転席で食べてみましたが、なるほど美味しいお菓子でした。
こちらが「ソフトbutter」。