今回の中原街道の旅は、赤羽橋から五反田です。
今回のルートはこちらです。

東京タワーを背にして、慶應大学の三田キャンパスの方向に歩いていきます。大学の東門の手前にこの「春日神社」があります。学問、平和の守護神として知られ、地元では「春日さま」と親しまれています。
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三田キャンパスを通り過ぎ、三田三丁目の交差点を斜め右に入ります。緩やかな長い坂は、「聖坂」と呼ばれています。
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聖坂を登りきったところに「済海寺」があります。
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安政5年(1858年)に日仏修好通商条約が締結され、済海寺に最初のフランス公使宿館が置かれました。
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済海寺の隣に「亀塚公園」があります。
立地、形状などから古墳である可能性が高いとされています。さらに、亀塚周辺を含め、高輪二本榎に向かう道に面して、古代の集落が点々と発見されています。このことから、三田の台地に古代の官道が通じていたと思われます。
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右側にある坂道は「幽霊坂」と名付けられています。これは、坂の両側に寺が並び、薄暗く、物寂しい雰囲気があったことが由縁のようです。
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幽霊坂を下りていきます。左側には、立派な山門を構えた玉鳳寺(ぎょくほうじ)があります。この山門は、高橋是清により寄進されたものです。
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山門の左側に「御化粧延命地蔵尊」の祠が建っています。
美肌にご利益があるとされ、多くの女性がお参りに見えるそうです。美容のお守りも備えているとのことですよ。パワースポットです!。
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幽霊坂と言われるだけあって、周囲にはたくさんのお寺があります。
幽霊坂を下りきると国道1号線に繋がっています。左折すると国指定文化財の「荻生徂徠の墓」が置かれた「長松寺」があります。
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荻生徂徠は、江戸時代中期の儒学者で、8代将軍徳川吉宗の政治的助言者でもありました。赤穂事件では、赤穂浪士の処分裁定論議の中で、儒学者の林鳳岡らが賛美助命論を唱えたのに対し、荻生徂徠は、義士切腹論を主張したことでも知られています。
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魚藍坂下の交差点を左折し、「魚藍坂」を上がります。ずっと前から、変わった名称の魚藍坂の由来を知りたいと思っていました。
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左手に「魚籃寺」が見えてきます。魚籃寺の本尊「魚藍観音」は、右手に魚を入れた竹籠を持っています。この竹籠の「びく」のことを「藍」というのだそうです。仏様が乙女となり、魚を売りながら、仏法を広めたと言い伝えられています。
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魚藍坂を上り切ると、海側に下る「伊皿子坂(いさらござか)」の交差点があります。交差点を右折し、再び、もとの街道に戻ります。
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その先にある高輪一丁目アパートの一角に「大石良雄等自刃跡碑」があります。
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承教寺の門前には、ユーモラスな狛犬が置かれています。
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イメージ 5昭和8年に建てられた二本榎出張所(旧高輪消防署)は、そのレトロな外観から、地域のシンボル的な存在となっています。
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消防署の交差点から海側の坂を下って行くと、赤穂浪士の墓が置かれている泉岳寺があります。
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近くには、最初のイギリス公使宿館跡の「東禅寺」があります。
文久元年(1861年)、水戸藩脱藩の攘夷派浪士がオールコック公使らを襲撃しています。翌年には、警護に当たっていた松本藩士がイギリス公使ら2人を斬殺しています。
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境内には、美しい三重塔が建っています。
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高輪三丁目の交差点で街道は右に折れ、国道1号線に再び合流します。
鎌倉街道(古道)は、この中原街道に沿ったルートと、大井町、大森を経由する池上道に繋がる東回りルートがあったと言われています。
国道1号線に面した「雉子(きじ)神社」は、徳川家光の鷹狩りの折に白雉(しろきじ)が境内に飛び入ったことから名付けられています。
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緩やかな長い坂を下ると、五反田駅が見えてきます。そして、目黒川を渡ります。
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国道1号線の中原口の交差点を「丸子橋」方向に右側に折れます。
ここから旧道に入っていきます。
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(続く)