今回は、東海道が整備される以前から、相模国と江戸を結んでいた道で、古代の官道が元になっている「中原街道」を歩きます。中原街道は、徳川家康が最初に江戸に入国した時に通ったと道とされています。
1日目は、中原街道の起点の虎ノ門からスタートして、多摩川の「丸子の渡し」まで歩きました。第1回目は、「虎ノ門」から「赤羽橋」までをご紹介いたします。

①文部科学省
今回のスタートは、ただいま「加計学園」問題で騒がれているところからです。
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②虎ノ門遺址の碑
東京メトロ銀座線「虎ノ門駅」8番出口を上がると虎ノ門交差点の一角に虎ノ門遺址の碑があります。
江戸城にあった36の門のうち、「寅」の方角にある門を虎ノ門と呼んでいました。
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③金刀毘羅宮
讃岐丸亀藩京極屋の上屋敷の金刀毘羅宮は、毎月10日に江戸町民にも参拝が許されていました。
現在の金刀毘羅宮は再開発により、「琴平タワー」というオフィスビルが併設され、斬新な神社となっています。
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④杉田玄白の墓(栄閑院)
桜田通りを進み、地下鉄神谷町駅の近くに、浄土宗栄閑院があります。
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栄閑院には、杉田玄白の墓があります。
杉田玄白は、前野良沢らとオランダ語の解剖学書「ターヘルアナトミア」を翻訳し、苦節4年をかけて「解体新書」を完成させました。
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⑤愛宕神社
栄閑院の裏側に愛宕神社があります。愛宕神社がある愛宕山は、標高25.7メートルあり、天然の山としては、23区内で一番の高さです。
江戸時代には、東京湾や房総半島を見渡すことができたと言われ、西郷隆盛と勝海舟がここから江戸の街を眺め、戦火で包むことは避けようと話し合ったとも言われています。
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頂上には、池があります。愛宕神社の謂れとしては、1603年(慶長8年)徳川家康の命により、防火の神様として祀られましたとされています。
当時の建物は、関東大震災や空襲で焼失しましたが、昭和33年に再建され現在に至っています。
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安政7年(1860年3月3日)水戸浪士一行は、東海道品川宿の旅籠を出発し、東海道に沿って進み、愛宕神社で待ち合わせます。
その後、一行は桜田門を目指します。桜田門外ノ変の直前に、水戸浪士一行が待ち合わせた場所として遺跡碑が残されています。
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愛宕神社に上がる急な階段は、「出世の石段」と呼ばれています。上から見下ろすと怖さが蘇ってきます。
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⑥東京タワー
国道1号線に戻り、飯倉の交差点まで進んだところで、東京タワーに寄ることにしました。
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東京タワーの下の谷戸には、「もみじ坂」があります。さぞかし、紅葉の時には素晴らしい景観が広がっているに違いありません。
都会の真ん中とは思えない場所の一つです。
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緩やかで、長い土器坂(かわらけざか)を下ると古川にかかる赤羽橋に着きます。
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⑦赤羽橋の碑
赤羽橋の袂には、常夜灯の碑が建っています。
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⑧赤羽接遇所跡 (飯倉公園)
赤羽橋の手前の路地を右に入ったところに飯倉公園があります。この場所は、安政6年(1859年)外国人のための宿泊所兼応接所があったところです。
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公園の一角に「公園附近沿革案内」があります。
アメリカとの修好通商条約調印を皮切りにロシア、オランダ、イギリス、フランスとも条約を締結する際の宿舎として使用されました。
また、文久元年(1861年)5月から10月まで江戸に滞在したシーホルト父子の宿泊所ともなっていました。
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当時の図面となっている「公園附近沿革案内」を拡大すると、「現在位置」の場所に「外国人宿所」という文字が読めます。
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⑨中の橋
また、幕府の要請から条約交渉の通訳としてかかわっていたアメリカ公使館書記官で、ハリスの秘書兼通訳を務めていたヒュースケンは、万延元年(1861年)、赤羽接遇所から善福寺(当時のアメリカ公使館)への帰途中、「中の橋」付近で尊皇攘夷派浪士の襲撃により殺害されるという事件が起きています。
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今回ご案内した場所はこちらです。
(つづく)