前回ご紹介した「大森貝墟」の向かいには、「大森不動尊圓能寺」と「日枝神社」があります。
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日枝神社の社殿の隣には、神社の旧称の「山王権現」があります。
この辺りの「山王」という地名の由来となっています。
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「山王口」の交差点を過ぎると、「大森駅」前です。その向かいに、こんもりとした山が見えます。
階段の先には「天祖神社」があります。当時、「八景坂」と呼ばれていたくらいですから、見晴らしの良い場所だったに違いありません。
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境内には、奥州に向かう源頼家が鎧を掛けたという大きな松がありましたが、明治時代に枯れてしまいました。
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社殿近くの鳥居をくぐると、緩やかな階段がありました。階段に沿って、神社の壁づたいに「馬込文士村」に集った文学者たちのレリーフが飾られています。
この馬込文士村とは、大正から昭和にかけて、尾崎士郎、川端康成ら多数の文学者たちが、この西の馬込村一帯に住んでいたことから名付けられたものです。
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池上通りを下って行くと、右手に「闇坂」(くらやみざか)という標識があります。
明治期に、坂の上につくられた八景園という遊園地に続く坂道で、木々が鬱蒼としていて昼間でも暗かったところから名付けられたようです。
かつては、坂の上から遠く房総まで一望できました。
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さらに、池上通りを進むと、右手に山門があります。
鎌倉時代の創建の「善慶寺」です。ここには、先の領主で旗本の木原氏の厳しい年貢の取り立てに抵抗し、1677年(延宝5年)、村代表六人が幕府に直訴を試みますが、木原氏に捕まり斬首された6人が「新井宿義民六人衆」として葬られています。「新井宿」とは、江戸時代のこの辺りの村の地名です。
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本堂の奥に「新井宿義民六人衆」の墓があります。
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「新井宿義民六人衆」の墓は、東京都の文化財に指定されています。

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暮石は、1679年(延宝7年)、六人衆の親類の間宮藤八郎と言う村人が建てたもので、当時は表立って供養ができなかったため、墓石の表面には藤八郎の父母の法名を、裏面には六人の法名が刻まれていました。
四方に花立てと水入れが掘られ、前に手向けた水が裏側にも回るように穴が開けてあり、人知れず供養できる仕掛けになっていたそうです。今は、義民の名前が正面に来るように置かれています。
詳しくは、善慶寺のホームページをご覧ください。
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境内の裏から丘の上に上ると「熊野神社」があります。この神社の本殿は、日光東照宮の造営を指揮した大工頭木原氏が、余った材木を譲り受けて建てたものだと言われています。
この辺りは、古代から住みやすかったようで、旧石器時代から、縄文、弥生、古墳時代と各時代の遺跡が見つかっています。
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(続) 今回ご紹介した場所はマップの通りです。