「水神社」を後に、「池上通り」に戻ります。左に「来迎院」(らいごういん)が見えてきます。



「池上通り」に面して、「品川歴史館」があります。観覧料は大人100円です。

この歴史館の場所は、安田財閥一族の安田善助氏(以前、鶴見線の旅「安善駅」で紹介した「安田善次郎氏」の甥にあたります)の邸宅跡で、今でも「茶室の松滴庵」などが残されています。


この建物が茶室松滴庵です。

青紅葉が綺麗です。

池上通り沿いに歩いて行くと、「鹿島神社」が見えてきます。

鹿島神社は、平安時代の創建と言われ、旧大井村の総鎮守です。

鹿嶋神社の先に「大森貝塚遺跡跡庭園」があります。

不思議な光景が現れました。
下から湧き上がるミストで暑さを一瞬凌げます。

大森貝塚を発見したモース博士の銅像があります。

庭園を出て、しばらく池上通りを進むと、「大森貝墟(おおもりかいきょ)」の石碑があります。モースが貝塚の遺跡を発見した際、詳細な場所の記録がありませんでした。しばらく品川区か、大田区か分かりませんでしたが、現在では「品川区」とされています。

ビルの脇の階段を降りて行くと、線路沿いに「大森貝墟」の石碑があります。

「大森貝墟」の石碑の前を京浜東北線が通り過ぎていきます。

明治9年に大森駅が完成し、翌年の明治10年にモースは大森貝塚を発見します。

再び、池上通りに出ると、植込みに「土地由来」という案内板がありました。

概要は次の通りです。
明治九年に「大森駅」が設けられると、翌、十年には貝塚が発見・発掘され、農地が宅地に造成され始め、華族や高級軍人・政商等の別荘が建ちはじめた。この一郭(旧大井村鹿島谷二九五〇~五一番地)に、児島惟謙が広大な屋敷を建てたのは、明治三十六年ころのことである。児島(1837~1908)は大津事件のときの大審院院長として名をあげる。大津事件とは、明治24年、当時の「ロシヤ」皇太子ニコライ二世が日本を訪問された際、五月十一日滋賀県大津で大津の巡査津田三蔵に切りつけられた。時の松方首相や西郷従道内相らは、皇室に対する犯罪と同質であり極刑に処することを主張したが、児島は司法権の独立と裁判の神聖のため、あくまでも法律の明文によるべきであると主張し、その結果、津田は謀殺未遂罪として、無期刑に処せられた。以上が「大津事件」の概要である。

児島はその後、大審院長を退任、貴族院議員などを歴任、退官後大井村鹿島谷に居を定め、地元との交流につとめ、大森倶楽部の創立にさいしては、発起人三十九人の首班として努め、これが実現するや初代委員長として、在住名士・財界人等と親交を深めた。明治四十一年七十二歳で亡くなるまで、ここに居を構えていたのである。因みに電話番号は「大森局 壱番」であった。
地史研究家 後藤浅次郎 記
東海道を歩いていた時に「大津事件跡碑」を見たのを思い出しました。
今回、歩いた池上道の史跡マップです。