北条政子ゆかりの寺「安養院」を後に、北鎌倉方面に足を伸ばしてみました。途中、鶴岡八幡宮の二の鳥居から段葛を歩きます。
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鶴岡八幡宮にある平家池の桜も終わりですね。ちなみに、太鼓橋の右側が源氏池で左側が平家池です。あわせて源平池といわれています。源平池は1182年、源頼朝の命により、弦巻田という田を池にしたと伝えられています。
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3代将軍源実朝を暗殺した公暁が隠れていたという伝説から「隠れ銀杏」とも呼ばれていた樹齢一千年の大銀杏。平成22年3月10日未明、倒れてしまいました。今は2代目がすくすくと育ってきていますね。
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鶴ヶ丘八幡宮を出て、21号線を建長寺方向に少し歩くと、「里のうどん鎌倉店」があります。その角を左折し、しばらく坂を上って行くと「巨福呂切通し」の標識が見えてきます。(ブッシュで隠れて見えないかも)
左に何だか使用禁止のトンネルのようなものが目に入りました。後で正体がわかります。
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道端に置かれた道祖神に、鎌倉七口の一つ「巨福呂坂切通し」(国指定史跡)の面影を感じます。しかし、他の鎌倉七口と違い、巨福呂坂切通しは途中で行き止まりになっているので、注意してください。当時は、建長寺の辺りまでつながっていたと思われます。
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切通しの途中に「青梅聖天社」があります。ほぼ垂直に伸びる階段を上がると神殿がひっそりと建っています。「新編鎌倉志」によれば、病気になった将軍が季節外れの「青梅を食べたい」というので、家臣が社で祈願すると梅の木に実がつき、それを食べた将軍は快癒し、以来、青梅聖天と呼ばれるようになったと書かれています。病になった将軍とは三代将軍 源実朝と伝えられています。
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再び、21号線に戻り、建長寺方向に坂を上っていきます。道路脇に巨福呂坂切通しについて書かれているようですが、汚れていて判読できませんでした。
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案内板の先に大きなトンネルが現れます。「巨福呂坂洞門」と名付けられています。
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崖崩れの防護シェルターの役割があり、「巨福呂坂」の景観に配慮して吹き抜けを設けているようです。
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トンネルを上がりきったところです。写真では確認できませんが、右側に先ほど切通しのところで見かけた使用禁止のトンネルのようなものがありました。
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上から伸びた草木で覆われているその施設は「巨福呂坂送水管路ずい道」(横須賀市水道局)でした。この施設は、明治後期から大正期にかけて作られた送水菅路の跡です。日露戦争で勝利し、海軍力の増強のため、横須賀海軍工廠の拡張のため用水の補給が必要となったため、53キロ離れた相模川支流の愛川村から横須賀まで配水するために整備された戦争遺跡だったのです。今はその機能はありません。
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金網越しに「ずい道」の内部を覗いて見ました。すると、配水管のような金属管が見えるではありませんか。でも見た感じでは新しそう。
その先に漏れている光は、なんと「巨福呂坂切通し」で見たトンネルだったのです。約200メートルほどあるでしょうか。
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この後、北鎌倉方向に歩いていきました。(続く)
今回のルートはこちらです。