2週間ほど前、徒歩で江ノ島から北鎌倉まで海岸沿いを歩きました。その折に、「元使五人塚の常立寺と江ノ島」と「源義経の腰越状が残る満福寺」を訪ね、ブログで紹介させていただきました。
今回から新田義貞が鎌倉幕府を滅亡させた道程を巡りながら、鎌倉の旧跡をご紹介させていただきます。第1回目は、州崎の戦いです。
この写真は、甲州街道を歩いていた時に撮った、分倍河原駅前に建つ新田義貞の像です。新田義貞と北条泰家の軍勢が鎌倉幕府の興亡をかけて火花を散らした分倍河原合戦を題材に製作されています。(製作者 富永直樹氏)
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元弘3年(1333年)5月8日、新田義貞は、上野国新田庄の生品(いくしな)明神(群馬県新田郡新田町市野井)の社前で後醍醐天皇から命により倒幕の旗を挙げます。
そして、わずか150余騎で出陣でしたが、関東の武士団が次第に義貞の軍に集まり、5月9日の日暮れ時には20万7千余騎の大軍になっていったと言われています。
小手指原の合戦、久米川の合戦、分倍河原の合戦を経て、鎌倉を目指し南下していきます。
鎌倉では幕府との壮絶な戦いが繰り広げられます。代表的な場所を地図に落としてみました。
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第1回目の「州崎の戦い」の場所へは、東海道本線の大船駅で下車し、湘南モノレールにのりかえ、湘南町屋駅で降ります。
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湘南町屋駅から、湘南モノレールに沿って江ノ島方向に歩いていきます。
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道路脇の斜面地にひっそりと「州崎古戦場」の石碑が建てられています。周りには、早咲きの朱色のツツジが咲いていました。
武将の堀口貞満(さだみつ)と大島守之(もりゆき)が州崎口より攻め込んでいきました。一方鎌倉方は、赤崎守時(もりとき)を武将として迎え撃ちましたが、60回以上の合戦のすえ、6万騎あった幕府軍は、新田軍の猛攻に会い、300騎ほどになってしまいます。その後、新田軍は、極楽寺坂切通しと化粧坂切通しに分かれ、鎌倉になだれ込んでいきます。
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この辺りは見渡す限りに平坦地が広がっています。
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次回は、化粧坂切通しと巨福呂坂切通しをご紹介いたします。続く。