横浜市内にも、台場があったことをご存知ですか。
元旦にブラタモリ横浜編の再放送でも触れていましたが、安政6年(1859年)、諸外国は、安政の5カ国条約文の通り、当初から「神奈川」を開港場とするよう主張していましたが、幕府は東海道に近いことからトラブルを恐れ、「横浜」を開港場にしました。と同時に「神奈川」に開港場の防御のための台場を建設しました。

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幕府は、伊予松山藩に工事を依頼しました。設計は、勝海舟に、台場の現場総指揮 は平野弥十郎(中川翔子の先祖)が請負ました。完成は、1860年でした。

マンション建設に伴い、平成20年に発掘調査を行った結果、台場の遺構全体が判明しました。

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明治時代の海岸線と石垣が露出している場所は次のABCです。行って見ることにしました。

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A地点の石垣。奥に見える高層マンションの建設に伴い、台場全体の遺構が判明したようです。

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台場の石垣の様子(お借りしました)

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B地点の遺構は、神奈川台場公園として整備されています。この場所は、品川など他の台場には見られない船溜りのあった場所です。

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台場公園の石碑は、石垣と同様の安山岩が使用されています。

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公園全体の様子です。
バックには、みなとみらいの超高層ビル群が見えます。

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公園奥には、神奈川台場の説明板が設置されています。

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ここは、C地点の星野町公園です。高層マンションの建設に併せて整備された公園に記念の石碑と露出した石垣を見ることができます。

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細長い石垣が公園に沿って整備されています。

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マンションの一角に良く見える場所があります。

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上部の石には、掘り起こした際の爪跡が残っています。石垣の採掘場所は、真鶴半島の海岸で、土丹(どたん)は、台場近くの観音山を削って運んでいます。

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現在、神奈川台場の遺構の上は東高島駅になっています。面積は、横浜スタジアムとほぼ同じ広さです。

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隣接した場所には運河があり、当時の海岸線の雰囲気を感じさせています。

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神奈川台場には、砲台が備えられていましたが、結局、攻撃のための使用はありませんでした。外国の貴賓が来た際に祝砲として使用されたということです。

おしまい。