昨年の7月に「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼・造船・石炭産業」の構成資産の一つとして、韮山反射炉が世界文化遺産に登録されました。
この韮山反射炉は、韮山の江川太郎左衛門英龍らにより、安政元年(1854年)に着工、安政4年(1857年)に完成した西洋式の金属溶解炉です。
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反射炉は、17世紀から18世紀にかけてヨーロッパで発達した金属を溶かして大砲などを鋳造すめための溶解炉で、内部の天井がドーム状になった炉体部と煉瓦積みの高い煙突からなっています。
造られた時は、煙突部分はレンガに漆喰が塗られていました。しかし、北伊豆大地震の折に上部の一部が崩れたため、耐震用に鉄製の骨組みで覆うようになりました。
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天保11年(1840年)のアヘン戦争を契機に、日本では列強諸国に対抗するための軍事力の強化が大きな課題となっていました。当時、幕府は「異国打ち払い令」により、沿岸から粗末な大砲で追い払うことを対策としていたましたが、開明的な幕臣や蘭学者たちは、こうした鎖国強化に対して危機感を持ち始めていました。その代表的な人物が、渡辺崋山、高野長英、川路聖謨であり、韮山代官の江川英龍でした。
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江川英龍は、西洋砲術の導入、鉄製大砲の生産、江戸湾岸の台場の設置、海軍の創設、農兵制度の導入など、一連の海防政策を幕府に進言し、当時の老中水野忠邦に認められ、鉄製大砲の生産に向け反射炉をつくりました。また、品川沖に台場を設置しました。お〈御)台場の「御」は幕府の命によるものであることから、敬意を払った言い方が現在に引き継がれています。また、西洋式の農兵制度を導入した際に、江川英龍は「前にならえ」「右向け右」という号令を取り入れています。今も学校の朝礼や体育の時間に号令として生きています。
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嘉永6年(1853年)、ペリー艦隊が来航して幕府に対し開国要求を突き付けました。これに脅威を感じ、幕府は海防の建議書を出していた韮山代官の江川英龍に西洋式の海上砲台を建設させました。石垣は「伊豆石」を運んで使用し、埋め立ての土は高輪の八ツ山や御殿山を切り崩して調達しました。計画では、11基を計画していましたが、工事は困難に見舞われ、安政元年11月までに第一、第二、第三、第五、第六、御殿山下台場の完成をみました。各台場には、80ポンドの大型カノン砲が配備されました。この時期に韮山反射炉の築造が間に合わず、佐賀藩の反射炉で鋳造された大砲が設置されています。現在、東京湾には、地続きとなっている第三台場と立ち入りできない第六台場が残されています。
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韮山反射炉の近くには、北条早雲の居城「韮山城址」があります。その裏手には、源頼朝が流された蛭ケ小島の遺跡があります。
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ランチは修善寺の山の上にある手打ち蕎麦屋の「やまびこ」に行きました。
建物は山小屋のような造りです。山の上のお蕎麦屋さんの眼下には、豊かな伊豆の田畑が広がっています。
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続く