小塚原回向院は、南千住駅のすぐそばにあります。この辺り一帯は、江戸時代には、品川の鈴ヶ森とともに、罪人を処刑した仕置場(刑場)跡でした。明治初期までに約20万人が処刑されたといわれています。



回向院に入ると右手の壁に青銅板の観臓記念碑があります。明和8年(1771)、中津藩医前野良沢、小浜藩医杉田玄白、中川淳庵らは、小塚原の刑場で刑死者の腑分け(解剖)を見て解剖書「ターヘルアナトミア」の翻訳を決意し、4年を費やして「解体新書」を完成させました。

青銅板の観臓記念碑を拡大しました。

回向院の墓地に入ると、右手側が小塚原の刑場跡の案内があり、主な方の墓石が示されています。

史跡エリアと矢印が指しています。

正面奥に安政の大獄で処刑された橋本左内の墓と顕彰碑があります。

橋本左内の顕彰碑

墓地中央には、同じく安政の大獄で処刑された長州藩士の吉田松陰の墓があります。遺体は、松陰神社に葬られています。

入口から奥に向かって桜田門外ノ変で井伊直弼を殺害した水戸浪士の関鉄之介、金子孫ニ郎、薩摩藩士の有村次左衛門ら桜田烈士の墓や供養碑があります。



そして、驚いたことに関鉄之介の妾だった瀧本いのの墓がありました。
吉村昭の歴史小説「桜田門外ノ変」(上)に、大老井伊直弼の行列襲撃の現場指揮者であった水戸藩浪士・関鉄之介と新吉原の遊女・瀧本とのなれそめを記した部分があります。要約しますと、・・・以前、いのは、新吉原の谷本楼で瀧本という名で遊女をしていました。鉄之介は、江戸へ出た折に藩の者と谷本楼に登楼し、瀧本を知ることになります。やがて、彼は、いののために身元保証人として北槙町中橋に家を借りてやり、そこにいのを住まわせることになります。「桜田門外ノ変」の後、関鉄之介ら逃亡した浪士を追跡する幕吏の探索の網に引っかかり、瀧本は隠れ家を提供したかどで捕らえられ、伝馬町の牢獄送りとなるのです。この話はドラマのようですが、実話なんです。大老襲撃計画を知っていたはずだと、厳しい詮議(拷問)を受け、瀧本は獄死してしまいます。伝馬町で果てた瀧本は小塚原に運ばれ、捨てられてしまいます。瀧本は短い23歳の人生を終えています。墓石には、「関鉄之介妾伊能遺墳」と刻まれています。

志士供養碑の他に、内縁の夫を殺害して明治9年に最後の斬首刑になった高橋お伝、歌舞伎の「直侍」のモデルとなった片岡直次郎、天保2年(1831)に処刑された鼠小僧次郎吉の墓がならんでいます。

日比谷線の高架脇に延命寺があります。もともと小塚原回向院別院でしたが、昭和57年(1982)に分離独立しました。境内の延命地蔵は、江戸時代には、首切り地蔵と呼ばれ、死刑者の供養のため、寛保元年(1741)に建てられました。



南千住駅の跨線橋から撮りました。操車場は以前と変わらないのでしょうが、駅周辺には、超高層マンションが建ち並んでいます。

この後、日本堤の方に向かいました。正面には、スカイツリーが見えます。

目的は、あしたのジョーに会うのと、吉田類の酒場放浪記で紹介された遠州屋本店高尾でランチすることだったのですが・・・泪橋を越えると、あしたのジョーの街に来た感じがしてきます。

街には、若い外国人が多いのです。日雇い労働者向けの宿泊施設が目的なのでしょう。

残念ながら、お休みでした。

気をとり直して、いろは会に入ると、裸で寝ている人がチラホラと。

いました、あしたのジョー。

近くの寿司屋金太楼でランチ寿司をいただきました。グラスビールは、少しフライングぎみでしたね。すいません。

この後、南千住駅近くにある円通寺に行きます。紹介は、また明日。

