下作延の「ねもじり坂」は、荷物を運ぶのに後ろから押してもらわないと登ることができないほど当時急坂だったことから別名「腹減り坂」とも呼ばれていました。
大山街道沿いにある子育て地蔵は、西国巡礼から戻った夫婦に子が授かったことから、御礼として建てたものです。今日まで、地域で講をつくり守ってきました。今でも、子授け地蔵にお参りに来る人が絶えないそうです。
梶ヶ谷から、国道246号線下りを見下ろします。関東地方では、昨日、昨年より3日早く梅雨入りとなりました。大山方面には、厚い雲が立ち込めています。
宮前平駅前を抜け、鷺沼に着きました。
大山街道の特徴に、坂が多いことがあげられます。起点の赤坂御門から大山までの間に坂が80ヶ所あるとされています。現在は、宅地化されたので、緩やか坂が多いのですが、江戸時代は、随分と旅人を苦しめたことでしょう。
ランチは、鷺沼駅前にあるフランスパンのビゴの店でと思っていましたが、あいにくお休みでした。
そこで、入ったのが、麺平蔵さん。極ちゃんぽんが名物のようです。幾つか定食もありましたが、前回の渋谷道玄坂と同様にちゃんぽんをいただきました。
道玄坂「はしばやん」のちゃんぽん麺に比べると、スープはあっさりとしていました。麺や野菜の量が多く、かなり食べごたえがありました。
鷺沼駅前から八幡坂を下った所に阿弥陀堂があります。石仏が2体あり、地蔵には、「元禄元年十二月」と刻まれています。当時、悪病から多くの子供が亡くなり、その供養と子育てを願い、建てられたそうです。
再び、国道246号線を越え、長い上り坂が続きます。途中に馬頭観音があります。荷を運んだ馬の供養のための石塔です。石塔には、「右王禅寺道、左大山道 文化二年」と記されていて、道標の役割もあったようです。隣りの石碑には、馬頭観音の謂れがぎっしりと刻まれています。文末に「持田春吉しるす」とあります。地域の方が大切にされてきたことが伺えます。
長い急坂を登りきると、展望が広がります。当時は、馬の休憩所を兼ねた立場があったそうです。今は、造園の皆川園さんのお庭となっていて、つげの樹林は見応えがあります。
ここから、急な下り坂になります。地図には、血流れ坂と記されています。「新編武蔵風土記稿」には、罪人の処刑場があったと記されていますが、実際には、関東ローム層から浸み出した酸化鉄の錆による赤色の水だったのが真相のようです。坂を下りきると滝不動尊があります。下には、霊験あらたかな霊泉の滝があります。
早渕川には、たくさんの鯉が泳いでいました。
この庚申塔は、寛政五年(1793年)に、旅人の安全を祈願するためにつくられました。
荏田宿は、江戸から七里あり、最初の宿泊地となっていたところです。当時は、旅籠屋などが建ち並び賑わいがありました。渡辺崋山は、下宿の枡屋に宿泊したといわれています。しかし、江戸、明治の2度の大火により昔の面影はありません。
荏田宿の案内板の裏側には、当時の街並みが紹介されています。溝口以来、初めて大山街道を歩いている実感が得られます。郷土の歴史を大切にしている気持ちが嬉しいですね。
続く

大山街道沿いにある子育て地蔵は、西国巡礼から戻った夫婦に子が授かったことから、御礼として建てたものです。今日まで、地域で講をつくり守ってきました。今でも、子授け地蔵にお参りに来る人が絶えないそうです。

梶ヶ谷から、国道246号線下りを見下ろします。関東地方では、昨日、昨年より3日早く梅雨入りとなりました。大山方面には、厚い雲が立ち込めています。

宮前平駅前を抜け、鷺沼に着きました。
大山街道の特徴に、坂が多いことがあげられます。起点の赤坂御門から大山までの間に坂が80ヶ所あるとされています。現在は、宅地化されたので、緩やか坂が多いのですが、江戸時代は、随分と旅人を苦しめたことでしょう。
ランチは、鷺沼駅前にあるフランスパンのビゴの店でと思っていましたが、あいにくお休みでした。

そこで、入ったのが、麺平蔵さん。極ちゃんぽんが名物のようです。幾つか定食もありましたが、前回の渋谷道玄坂と同様にちゃんぽんをいただきました。

道玄坂「はしばやん」のちゃんぽん麺に比べると、スープはあっさりとしていました。麺や野菜の量が多く、かなり食べごたえがありました。

鷺沼駅前から八幡坂を下った所に阿弥陀堂があります。石仏が2体あり、地蔵には、「元禄元年十二月」と刻まれています。当時、悪病から多くの子供が亡くなり、その供養と子育てを願い、建てられたそうです。

再び、国道246号線を越え、長い上り坂が続きます。途中に馬頭観音があります。荷を運んだ馬の供養のための石塔です。石塔には、「右王禅寺道、左大山道 文化二年」と記されていて、道標の役割もあったようです。隣りの石碑には、馬頭観音の謂れがぎっしりと刻まれています。文末に「持田春吉しるす」とあります。地域の方が大切にされてきたことが伺えます。

長い急坂を登りきると、展望が広がります。当時は、馬の休憩所を兼ねた立場があったそうです。今は、造園の皆川園さんのお庭となっていて、つげの樹林は見応えがあります。

ここから、急な下り坂になります。地図には、血流れ坂と記されています。「新編武蔵風土記稿」には、罪人の処刑場があったと記されていますが、実際には、関東ローム層から浸み出した酸化鉄の錆による赤色の水だったのが真相のようです。坂を下りきると滝不動尊があります。下には、霊験あらたかな霊泉の滝があります。

早渕川には、たくさんの鯉が泳いでいました。

この庚申塔は、寛政五年(1793年)に、旅人の安全を祈願するためにつくられました。

荏田宿は、江戸から七里あり、最初の宿泊地となっていたところです。当時は、旅籠屋などが建ち並び賑わいがありました。渡辺崋山は、下宿の枡屋に宿泊したといわれています。しかし、江戸、明治の2度の大火により昔の面影はありません。

荏田宿の案内板の裏側には、当時の街並みが紹介されています。溝口以来、初めて大山街道を歩いている実感が得られます。郷土の歴史を大切にしている気持ちが嬉しいですね。



続く