「江戸高輪にある薩摩藩下屋敷の生い茂った樹木から、蝉の声がしきりであった。」の書き出しから始まる吉村昭の小説『生麦事件』
その事件は、文久2(1862)年9月14日、横浜郊外の生麦村で起こりました。薩摩藩、島津久光の大名行列に騎馬のイギリス人4人が遭遇し、このうち1名を薩摩藩士が斬殺したもので、この事件により、薩英戦争が勃発し、倒幕へと大きく時代が変わることとなるのです。
今回は、薩摩藩下屋敷から発駕した久光の大名行列が生麦事件と遭遇した場面を中心にゆかりの地を巡ってみました。

 

 

 

 

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「屋敷の南側は東海道で、松並木をへだてて袖ヶ浦の海がひろがり・・・」薩摩藩下屋敷は、現在のJR田町駅周辺でした。当時の面影はありませんが、日本電気本社ビルの植込みに「薩摩屋敷跡」の石碑があります。

 

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正面に見えるのが、日本電気本社ビルです。ちなみにこの道は、「芝さつまの道」と名付けられています。

 

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セレスティンホテルと三井住友信託銀行芝ビルとの間に薩摩藩下屋敷跡の象徴展示があります。

 

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展示には、安政4年の江戸切絵図があり、薩摩藩邸の位置と広さがわかります。

 

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芝さつまの道を歩いていると、一角に薩摩藩の家紋「丸に十の字」を描いた御影石の腰掛けがありました。

 

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生麦事件の前年の文久元(1861)年5月には、水戸浪士等がイギリス公使の品川東漸寺を襲撃する事件が起きるなど、攘夷による外国人との不測の事態が生じる恐れがあり、不穏な空気が立ち込めていました。

 

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「久光の乗物は品川大仏前の釜屋半右衛門の茶屋の前でとまり、おろされた。」東海道最初の宿場  品川
宿の品川寺境内に今も大仏は鎮座しています。
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「宿場を出ると、行列は短い橋を渡り、刑場のある鈴ヶ森を過ぎ、再び橋を渡って大森村に入った・・・」
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「その宿場で昼食を兼ねた休息をとる予定になっていて、久光の乗物は本陣の田中兵庫の家の前でおろされた。・・・」
田中兵庫本陣跡の近くに、東海道川崎宿交流館が建てられています。
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「川崎宿に入った。高輪藩邸からニ里三十二町で、その宿場から一里東南方に参詣客でにぎわう川崎大師平間寺がある。」多摩川の岸に置かれていた大師河原への道標は、現在、川崎大師平間寺の境内に遺されています。
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後に斬殺されるイギリス人一行は、この頃、参拝者で賑わいのある川崎大師平間寺を見物するため、横浜村にある居留地を発っていました。当時、外国人に許される江戸方向への遊歩区域は六郷川までとされていました。
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JR鶴見線の国道駅ホームから横浜方面を眺めます。この通り一帯が旧東海道の生麦界隈です。左側には、鶴見川が流れています。
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生麦村は江戸時代、幕府に魚を献上する御菜8か村の一つとして賑わっていました。約400メートルの魚河岸通りは、今も新鮮な魚介類を求める人たちで賑わっています。(写真は土曜日の午前10時頃の様子です)
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しばらく旧東海道を歩くと、右側に「生麦事件発生現場」という案内板が目にとまります。
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「マーシャルたちは、前方に道いっぱいにひろがって進んでくる集団に気づき、顔色を変えた・・・マーシャル達は、馬をとめた・・・引き返そうとマーシャルが声をかけた・・・切迫した気配に落ち着きを失っていたリチャードソンの馬が列の中に踏み込んだ・・・奈良原は、長い刀を抜くと同時にリチャードソンの脇腹を深く斬り上げ、刀を返し爪先を立てて左肩から斬り下げた。」
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「リチャードソンの傷口からはみ出した臓腑が、路上に落ちた・・・」現在は、キリンビール工場が隣接しています。
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「馬の動きがにぶくなり、やがてとまった。その衝撃でリチャードソンの身体がゆらぎ、馬から落ちた。・・・海江田は脇差を抜き、楽にしてやると言って、心臓の部分に深々と刃先を突き立てた・・・リチャードソンは、そのまま路上に放置された」
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生麦事件碑
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生麦事件碑
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生麦事件碑
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館内に貴重な資料が展示されている生麦事件参考館は、しばらくの間、休館となっています。
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重傷を負ったマーシャルとクラークは、神奈川宿にあるアメリカ領事館(本覚寺)で医師ヘボンの手で外科治療を受けた。唯一女性のマーガレットは、横浜村の居留地に戻った。
 
生麦事件に係る場所はここ。
 
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本覚寺本堂
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予定では、その日の泊りは一里前方の神奈川宿で、先触れによって久光は本陣の石井源右衛門宅で過ごすことに定まっていた。しかし、神奈川宿は海を隔てて横浜村と至近距離にあり、そこで宿泊すれば外国の将兵がボートで乗りつけ攻めてくることが予想される。神奈川宿で泊まることを避け、行列を速めて神奈川宿から一里九町先の次の宿場である程ヶ谷宿にまで行くべきだ、という結論に達した。・・・宿場役人の案内で久光の乗物は本陣の苅部清兵衛宅の前で止まった。・・・かれらの攻撃目標は本陣で、そこにいる久光の命をねらう。「それで万一を考え、和泉様(久光)を御本陣より他へお移し申し上げた方がよいのではないか、と思うが・・・」と、小松は言った。下の写真は、本来泊まる予定だった本陣の苅部清兵衛宅跡です。現在は門が保存されています。実際には、小松の意見により、小松が泊まった旅籠金子屋の近くの旅籠沢瀉屋治郎兵衛宅で泊まることになりました。
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下の写真は、側役の小松帯刀が泊まった旅籠金子屋です。
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横浜山手にある外国人墓地には、生麦事件犠牲者が眠っています。
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おしまい