箱根から三島宿に向かう途中にある山中城址は、北条氏が小田原城の防御のために築いた城で、見晴台からは、駿河湾や富士山の裾野が一望でき、流石に要所に適した位置にあります。写真は、山中城祉犬走堀。
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山中城は、永禄年間(1558年 - 1570年)に北条氏康により築城されました。北条氏政の代に豊臣秀吉との関係が悪化すると、山中城は改修し防備を固めることになるのですが、結局間に合わず未完成のまま豊臣軍を迎えることになり、 1590年(天正18年)、小田原征伐で豊臣秀次率いる7万の軍勢が山中城を攻撃、半日で落城しました。
1930年(昭和5年)に国の史跡に指定され、1973年(昭和48年)から三島市が公園として整備をはじめ、合わせて学術的な調査もなされています。2006年(平成18年)日本100名城(40番)に選定され、全国規模の日本100名城となっています。
山中城祉障子堀の芝の緑が美しいですね。北条氏の独特な堀や土塁などの遺構が残されているのです。
毎年5月に山中城址祭りが行われており、ツツジが美しいですよ。
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山中新田は、東海道の制定の際に、立場として整備されたところで、茶店が立ち並んでいました。当時の様子がしのばれる建物。当時は、旅籠だった竹屋。今は鰻屋になっていますが
面影があります。
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山中城の一角、三の丸に設けられた宗閑寺。山中城の戦いで戦死した両軍の武士が眠っています。また、徳川家康の側室、お久の方の墓があります。亡くなった北条氏の武士、間宮康俊の娘であったお久の方が父を弔うために建てたと伝えられています。お久の方が両軍の武士を弔ったところに心を揺さぶられますね。また、幕末に苦難の末、間宮海峡を発見した間宮林蔵は、間宮康俊のDNAを受け継いでいます。
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この地で亡くなった巡礼者の遺言に従って建てられた芝切地蔵尊。
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司馬遼太郎が詠んだ詩が八里記念碑として建てられています。
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富士見平ドライブインの一角に芭蕉の句碑が建てられています。一部旧道が通行止めのため、県道を迂回した先に位置しています。迂回している間、アスファルトからの照り返しと降り注ぐ灼熱の陽射しが何とも眩しい限りです。
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笹原の一里塚南塚が現存しています。
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松雲寺は、寺本陣でもありました。境内を入ると明治天皇が座って富士山を眺めた御腰掛石があります。生麦事件の後、島津久光もこの寺で昼食をとった場所でもあります。同様に徳川家茂も休息をとられた場所。しばらく日影がなく、休める場所もないことや、この場所からの富士山の眺めが良いことから、多くの旅人は足を止める場所になっていたに違いないと思います。この日は、残念ながら富士山の姿は見えませんでした。
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臼が転がる程の坂と言われた臼転坂。実際はそれほどの急坂ではありません。
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箱根を下り切ったところに箱根路の碑が建っています。
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景観重要道路として美しく整備されている初音ケ原の松並み木。
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錦田の一里塚は、両側に榎塚が残っている。国の史跡にも指定されています。
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嘉永7年(1854)11月4日の東海地震で罹災し、その後再建された三島大社の社殿。時の神主、矢田部盛治の指揮のもと、全国にて再建のための勧進を行い、慶応2年(1866)9月9日、本殿・幣殿・拝殿の落成をみました。境内の主要建造物はこの時全て再建され、明治元年(1868)にかけて随時落成したそうです。
社殿彫刻は、当代の名工、小沢半兵衛・小沢希道親子とその門弟のほか、後藤芳冶良らによるもの。社殿彫刻としては高い完成度と美術的価値をもっていて国の重要文化財。

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富士山からの伏流水は、湧き水となって三島のいたるところに流れをつくり、まち全体を潤しています。
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箱根関所から三島宿 2013年8月4日
28.73km     291分    32170歩