今日は、平塚宿から小田原宿をめざします。平塚駅北口を出てすぐの紅谷町の公園の一角に、怪談番町皿屋敷のお菊の墓標があります。お菊は平塚宿役人、真壁源右衛門の娘で江戸に奉公中、家宝の皿を割った門で手打ちにされたと伝えられていますが、諸説あるそうです。
平塚宿江戸見附跡は平塚市民センターの隣にあります。
国道から分かれ、脇道を進みます。旧東海道は、消防所建物の白壁が東海道のモチーフとなっていて、旧街道の目印になっています。
平塚の地名の起こりとなる塚の碑が建っています。地域のお年寄りが清掃活動をされていました。誠に有難いことです。
再び国道と合流したところに、上方見附があります。平塚宿はここまでです。
歌川広重の東海道五十三次にも描かれた高麗山。
花水川を渡ると、国道に面して茅葺の古民家があります。東海道の雰囲気を一段と感じさせてくれます。
高麗山の麓に高来神社があります。この地域は、668年、唐と新羅の連合軍に攻め込まれた高句麗の豪族が日本に逃げ延び、その一族の若光が大磯に着き、開拓した地であると伝えられています。高来神社は元々は高麗(こうらい)神社だったのですが、明治政府が高麗(こうらい)を高来(たかく)と読み替えた由来があります。今は、高来(たかく)神社とされています。
旧道は、国道をはずれ、緩やかな化粧坂を登ります。しばらくすると、虎御前が化粧のために汲んでいたという化粧井戸跡碑があります。
かつて別荘地だった面影が残っているように、静けさが漂うたたずまいであります。緩やかな坂が続きます。
小島家本陣跡は、大磯の商店街の中心に位置しています。残念ながら、建物は残っていません。
「國よし」は吉田茂が足繁く通った鰻屋さん。隣には老舗旅館の大内館があります。
大磯は明治18年、日本最初に海水浴場が開かれたところだそうです。
明治か大正の頃の建物なのでしょうか。矍鑠とした雰囲気が感じられる饅頭屋の「杵新」。虎御前に由来しているのでしょう虎子饅頭がここの名物です。
新島襄先生終焉の地の碑。新島襄と言えば、NHKの大河ドラマになった新島八重の旦那ですね。新島襄は当時、京都に同志社大学を開設するための資金繰りに東西を奔走していました。ですが、無念にも病に伏せ、療養先の大磯の地で亡くなるのです。知らせを受けた八重も駆けつけています。
鴫立沢をくだると相模湾の湘南の海に出ます。今日はシロギス釣り大会でした。
大磯で最も有名な名所のひとつ、喧騒の中にあって静けさが漂う鴫立庵。松尾芭蕉を初め、多くの歌人が句を詠み、碑として残されています。
門を入ると、沢を流れた清らかな清水が湘南の海に注がれます。そして、茅葺屋根の古民家がひっそりと建っています。
破戒など名著を世に送り出した明治の文豪、島崎藤村は晩年にあたる昭和17~18年を大磯で過ごしました。
藤村の建物は無料で公開されています。見学者用にトイレも利用でき、また、向いの空地には、見学者用の公園兼休憩所が整備されています。
東海道五十三次の代名詞の松並木。樹齢何百年の黒松は目を見張るほど見事です。大磯宿から二宮、国府津、鴨宮を巡って小田原宿へと向かいます。
黒松の並木は、夏の日差しを遮り、また、風や塩害などから沿道を護る役割もあったのでしょう。
元総理大臣の吉田茂の邸宅。隣には高級マンションの大磯プレイスが建っています。
初代総理大臣 伊藤博文の別荘跡地。最近まで開いていた高級中華レストランは閉鎖されたようです。石碑の当たりは、雑草が生い茂り、虚しさが漂っています。当時の栄華さが嘘のようですね。
JR二宮駅前に建つ「ガラスのうさぎ」の碑。空襲で焼け出され亡くなった方々が大勢いたそうです。小説「ガラスのうさぎ」は多くの人の心に残っています。
見た目にも威厳のある大山道の道標。酒匂川の手前の路地に建てられています。江戸時代に多くの参拝者が訪れた大山へは、この地からも繋がっていたのですね。
酒匂川です。小田原宿はもうすぐです。
酒匂川を渡ると山王神社があります。境内に林羅山の歌碑が遺されています。小田原攻めの際、着陣した家康が日毎、通ったと伝えられています。
山王神社は「新編相模風土記稿」に、1558年頃、村の鎮守として祀られていたと記されています。
江戸口見附跡が保存されています。これより、小田原宿に入ります。
小田原宿本陣近くの公園に明治天皇行幸の碑が遺されていました。
小田原宿の新しいシンボルの「なりわい館」という東海道五十三次の交流館。様々な情報紙が置かれています。中に入ると、畳敷きの休憩スペースもあり、くつろいでいる方も。建物は当時の豪商のものだったようでとても立派です。
城下町らしさがあちこちに遺されています。大手門もその一つ。小田原城から少し外れた所に遺されています。
紫陽花と花菖蒲とお城のコントラストが何とも美しい。これは、一見の価値ありです。
次は小田原宿から、遥かに見える箱根宿を目指します。

平塚宿~小田原宿2013年6月9日
8時30分に平塚駅を出発し、小田原宿を目指して歩き始めました。総距離35キロ 、32443歩 所用時間349分。小田原駅には14:30に着き、折角なので1時間程、町歩きをして帰宅。




















黒松の並木は、夏の日差しを遮り、また、風や塩害などから沿道を護る役割もあったのでしょう。













いつ見ても、感動させられる小田原城。
小田原城は、15世紀末、北条早雲が小田原に進出してから北条5代約100年にわたって関東での勢力を拡大していきました。その拠点の城として威厳を放っています。秀吉の来攻に備え、城下を囲む総がまえは9キロに及んでいました。
小田原城は、15世紀末、北条早雲が小田原に進出してから北条5代約100年にわたって関東での勢力を拡大していきました。その拠点の城として威厳を放っています。秀吉の来攻に備え、城下を囲む総がまえは9キロに及んでいました。


平塚宿~小田原宿2013年6月9日
8時30分に平塚駅を出発し、小田原宿を目指して歩き始めました。総距離35キロ 、32443歩 所用時間349分。小田原駅には14:30に着き、折角なので1時間程、町歩きをして帰宅。