今日は、戸塚宿から平塚宿をめざします。戸塚駅から歩いて10分くらいの場所に明治天皇行幸の碑と並んで澤邊本陣跡の碑が建っています。

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八坂神社にはお札まきの風習が残されています。江戸時代には多くの土地にありましたが、現在ではこの神社のみと言われています。

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戸塚の地名の由来になっている富塚八幡宮。本殿の裏には古墳があります。

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大阪と呼ばれている戸塚の長い坂の途中に石造物が静かに並んでいます。彫られた年号から江戸時代のものであることがわかります。
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漸く、大阪を登り切り、国道1号線と合流したところにお軽勘平の碑が建てられています。
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国道に面した鳥居をくぐり、山道を上がると静かにたたずむ浅間神社が現れます。鳥居前の石像から江戸時代の年号が見えます。

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戸塚宿影取のあたりに東海道に面して「鉄砲宿」の解説板が建っています。影取の地名と大蛇にまつわる昔ばなしが記されています。地名には当時の人々の生活ぶりや地域を伝える大事な役割があることがわかります。あらためて、地名を残すことの意味を考えさせられました。

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藤沢宿は遊行寺の門前町でした。江ノ島や大山詣でに賑わっていたそうです。明治天皇やお付きの西郷隆盛らが何度かご休憩に立ち寄られたと伝えられています。

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遊行寺で最も古い門。菊の御紋が中央に見られます。幾多の戦火や地震にも耐えた貴重な生き証人です。

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境内には、660年前から時代の移り変りを見てきた大きな銀杏があります。元々、銀杏は中国原産であり1300年頃に日本にもたらされたそうです。

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遊行寺の近くに源義経首洗い井戸跡があります。「吾妻鏡」という鎌倉幕府の記録によりますと、兄頼朝に追われた義経は奥州(東北)でなくなり、文治五年(1189)に藤原秀衡から義経の首が鎌倉に送られ、義経の首は首実検ののち片瀬の浜に捨てられたと謂われています。それが潮に乗って境川をさかのぼりこの辺に漂着したのを里人がすくいあげ、洗い清めた井戸として遺されています。
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大山道は大山を中心に放射状に広がり、関東地方の四方八方の道がほぼ全て大山に通じていました。この碑も藤沢から大山への道標だと思われます。

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松並み木が当時の街道の面影を今に伝えています。

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茅ヶ崎の街道沿いに偶然見つけた讃岐うどんの店「うどんあおい」。昼食に「シラスぶっこみ冷やしうどん」をいただきました。

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東海道で富士山が左手に見られるのは、茅ケ崎の南湖と静岡の吉原の2箇所だけだそうです。広重の東海道53次の浮世絵にも描かれています。

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関東大震災の折、忽然と水田に7本の木柱が出現しました。発掘調査の結果、鎌倉時代の旧相模川橋脚であることが考証されました。この橋は、源頼朝の家来、稲毛重成の妻(北条政子の妹)の供養のために作ったものと伝わっています。

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馬入橋を渡ると、東海道馬入一里塚碑があります。平塚宿の入口です。真正面に富士山、大山、高麗山が見えます。
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約5時間歩き、漸く平塚宿に到着しました。   (続く)
戸塚宿~平塚宿  2013年6月1日

27キロ    34668歩    284分