オイラの辛気臭いネタをご覧いただき、ありがとうございます。

 

さて、もう2年ですか。

 

 

現在の総理は、「 岸田のオッサン 」です。

 

 

残念ながら、力量不足であります。

この手の「 お公家さん系 」は、世の中が平和の時だったらいいのですが、現在はそうじゃないんですわw

 

アメリカ大統領選は、おそらくトランプ再選でしょう。

トランプは、ウクライナとロシアの取り扱い以外、そう悪くないのですが、もし安倍ちゃんが生きていたら、その「 ウクライナとロシア 」の地政学的説明をして、トランプは方針を変えるのは間違いなかった。

 

しかし、現在のトランプの考えを変える人間は、世界を探しても、もう誰もいないのです。

 

ところで、小さい頃の安倍少年、祖父である岸信介の家で「 安保闘争 」を見ていたそうです。

 

 

安保闘争(あんぽとうそう)は、1959年(昭和34年)から1960年(昭和35年)、1970年(昭和45年)の2度にわたり日本で行われた日米新安全保障条約(安保改定)締結に反対する国会議員、労働者や学生、市民及び批准そのものに反対する左翼や新左翼の運動家が参加した反政府、反米運動とそれに伴う大規模デモ運動である。自由民主党など政権側からは「安保騒動」[1]とも呼ばれる。

60年安保闘争では安保条約は国会で与党のみ賛成する強行採決で可決された。岸内閣は混乱の責任をとって内閣総辞職を余儀なくされたものの、同年の第29回衆議院議員総選挙で自民党は単独過半数を上回る大勝利をした[2]。70年安保闘争時には、参加していた左翼の分裂や暴力的な闘争・抗争の激化によって、運動は大衆や知識人の支持を失うこととなる。 

 

 

これは、「 ソビエトが仕掛けた日本国内における情報工作 」です。

当時は、東西冷戦が続いていました。

まずは、アメリカの手下である日本国内を混乱させ、「 ソビエト側に引き寄せる 」魂胆でした。

 

現在から過去を見ると、「 んなアホなことをw 」って思いますが、当時はインターネットもSNSもありません。

 

メディアは4マス( テレビ・ラジオ・新聞・雑誌 )であり、特に左のアサヒ、岩波が力を持ってました。

ソビエト連邦の目的は、「 冷戦の防波堤 」である日本内部で「 後方攪乱 」を行い、情報工作でアメリカの足を引っ張ることです。

 

当時のソビエト連邦は「 鉄のカーテン 」で、「 その正確な実態 」が知られておりませんでした。

1991年以降のソ連崩壊を見ている側としては、ソ連崩壊以前に「 ソビエト連邦の事実 」を知っていれば、あんな馬鹿なことをしなかったと思います。

 

アサヒなどは、

 

 

朝日新聞朝刊 1959年12月25日  「ばく進する馬」北朝鮮

 

よくはたらく人々 飛行場変じてアパート
 
 「チョンリマ」という言葉を北朝鮮では盛んにきかされる。「千里の馬」の意味だ。朝鮮 の古い伝説にある千里をかける馬はいま北朝鮮の経済建設の合い言葉である。農村で使うトラクターに千里馬号というのがあるかと思うと、マッチまで馬の絵を 描いた千里馬マッチ、おそらく北朝鮮で金日成首相の肖像の次に多いのは千里の馬が勇しくかける絵であろう。
 
北朝鮮の経済建設のテンポはものすごい。朝鮮戦争で徹底的に破壊を受けながら昭和二十九年からの復興三力年計画で再建が始まり、続いて社会主義の第一次五 カ年計画と取り組んだ。三十六年までかかるはずの五カ年計画を二年も短縮して今年中に超過達成してしまおうという勢い。その結果、鉄、電力、セメント、化 学肥料や穀物の人口一人当たりの生産高は日本をしのぐと北朝鮮政府はいっている。数字を示されただけでは私たちにはわからないが、千里の馬がばく進する姿 はありありと感じられる。
 
 戦争中、五十三万発、人口一人当たり一発以上の爆弾を受けた首都平壌はすっかり新しく 再建され五階建て、六階建て、長さ百メートルは楽にこすようなすばらしく大きい労働者用アパートが林立している。三百世帯くらいが一つのアパートに住む が、そういうアパートが何百とあってちょっと数え切れぬ。いくらあるかと新聞記者にきいたら、それはわからぬ、どんどんふえるからという。平壌飛行場を全 部アパート住宅の敷地にして飛行場はよそに作るという。大きなアパートはみな四十日くらいで出来上る。まずブロックを作ってクレーンで積み重ねどんどん溶 接してゆくやり方だ。
 
 主な工場も八時間労働で昼夜三交代、機械は二十四時間フルに動いている。どこを見ても みんな実によく働いている。第二次帰還船が帰還者を乗せて清津に入港したとき、港に近い製鉄所から溶鉱炉の赤い火が高く上っていた。日本が経営していたこ ろの二倍半の生産高という数字をきいたが、あのほのおは帰還者歓迎のタイマツですと出迎えの若い学生はいった。
 
 日本に追いつく五カ年計画を千里の馬にのせて北朝鮮中がわき目もふらずに働いている。 こんなに働いてみんな不満はないのかときくと、ある人はこういった。――「冗談じゃない。働けば働くほど生活が目に見えてよくなる。ボロボロの家から近代 的アパートに移れた。家賃はタダみたいに安い。米もタダみたいだ。目に見えて生活がよくなって行くのでうれしくてみんな働きたくなる」
 
 千里の馬をはしらせるもう一つのものを私は別の所で感じた。それは第一次帰還者を迎え て平壌体育館で開かれた歓迎大会だ。三千人が出演する舞踊劇があるというので、なあにたくさんで合唱するんだろうくらいに思っていたが実のところ驚いた。 えんえん三時間にわたる民族叙事詩である。日本にいた舞踊家崔承喜さんたちが構成した朝鮮の過去と現在を物語る一大絵巻であった。アリランの哀歌の伴奏で 祖国朝鮮を離れ、赤ん坊と荷物を持ってさすらう姿、そして解放朝鮮戦争。それまでの歴史がすべて朝鮮風の音楽と踊りでステージいっぱいにくり広げられる。 圧巻はフィナーレの朝鮮の希望をたたえるくだり。全国の農地のカンガイ運動を象徴して、水色の服を着た娘たちが水の形、波の形に踊る。工業の場面では銑鉄 の流れを象徴して真っ赤な朝鮮服の大群が歓喜の踊り。スケールの大きいこの舞踊をみているとはじめて祖国を持った朝鮮人の喜びがよくわかる。
 
 戦争の荒廃と貧乏のどん底から立ち上がって前途に希望を持った喜びが感じられる。衣食住がどうにか安定し、働けば食えるようになった朝鮮に、他国で苦労している同胞をひきとっていっしょに働こうという気持ちが今度の帰還問題の底に流れている。
 
 もう一つ、千里の馬のけん引者はもちろん金日成首相。三日前、帰還者代表百五十人と向 かいあった金首相はちっとも飾りけがなく、親切な町会長が隣近所の人と笑いながら世間話をしているようだった。首相はざっくばらんにこういう意味のことを いった。「われわれは以前はどれいだったが、解放で貧農程度になった。もっと早くみなさんを迎えたかったが、ああ貧乏ではどうにもならない。しかしみんな よく働いていまやっと中農までこぎつけた。だが富んだ中農ではない。ぜいたくはできない、が、心配するな。住むこと、食うこと、着ることは大丈夫だ。力を 合わせてやろう。もっともっとよくなる」と微笑して話しかける。この調子で工場や農業協同組合にも出かけ何日もいっしょにアパートに泊ってくるそうだ。
 
 「金将軍はわれわれの偉大なダムだ。遅れ、落ちぶれた民族を組織してたくましい民族エネルギーをたくわえてくれたダムだ」とある人はこういった。
 深夜の町で酔っぱらいなど一人もみることができない。真夜中雪の道を行くのは交代の労働者だ。寒さしのぎに「金日成の歌」を歌いながら工場へ歩いていく。(入江特派員)
 
 
こんな「 嘘 」「 北朝鮮のプロパガンダ 」を堂々と流していて、都合の悪い事実は「 知らせない権利 」を行使したわけですw
 
 
 
21世紀の現在でも「 ソ連仕込みの情報戦 」は有効であり、これだけ情報が溢れているのにも関わらず「 ロシアの一方的な主張を丸呑み 」して「 ロシアの使い捨ての駒 」になっている日本人を多く見かけます。
 
彼らは昭和の頃の「 自称@インテリ 」に似ています。
現在で言うと「 意識高い系 」というか、上から目線で「 ウリは真実を知っているニダ!!!!! 」とw
 
ソ連の「 Disinformation 」は、事実と虚偽、情報操作を巧みに組み合わせます。
日本だけではなく、中東でもヨーロッパでも「 とても上手に 」行っていました。
 
安倍ちゃんだったら、そのことを含めてトランプに直接「 地政学 」を説明出来たのに。
 
現在の「 岸田のオッサン@増税クソメガネ 」は、世界の荒波に耐える事が出来ません。
とても「 いいヒト 」だと思いますが、「 いいヒト 」だと手玉に取られてしまうのです。
現在の「 チョーセン 」に、いいようにやられているのが、その証拠であります。
 
まずは、日本の憲法改正、その後「 スパイ防止法 」の施行が急務になります。
 
どうも、今も昔も「 外圧 」しか日本を動かす手段はないようです。
悲しいですが、これも日本の現実であります。