オイラの辛気臭いネタをご覧いただき、ありがとうございます。

 

さて、ここしばらく「 とても辛気臭いネタ 」が続きます。

数回に分けます。

 

ところで、「 Disinformation( ディスインフォメーション ) 」という言葉があります。

 

disinformationとは

 

〔真実を隠すため・人を欺くため・人を混乱させるためなどに故意に発信される〕偽情報、虚報、がせネタ、デマ]

 

平たく言うと、「 謀略 」的な意味ってことです。

特に「 混乱時 」にDisinformationは有効です。

今回取り上げるのは、「 ヤの付く自由業の方々の抗争 」です。

 

この抗争から、後に大混乱になり、一般市民が多数巻き添えになる「 山口組・一和会抗争 」に繋がります。

 

大阪戦争

 

大阪戦争(おおさかせんそう)は、1975年7月26日から1978年11月1日に掛けて大阪府周辺で起きた三代目山口組と二代目松田組との抗争事件。

 

ジュテーム事件

1950年代後半以降、小松島抗争、明友会事件、夜桜銀次事件等の抗争を通して神戸から日本全国に侵攻した山口組を支えていた組織力と経済力は、警察の「第一次頂上作戦」によって大きな打撃を受けていた。

1975年7月26日深夜、豊中市の喫茶店「ジュテーム」において松田組系溝口組の集団が、先にいた溝口組幹部と面談中の山口組系佐々木組(組長・佐々木道雄)の組員3人を射殺、1人に重傷を負わせた。この背景には佐々木組内徳本組の構成員が大阪キタにある溝口組の賭場で起こしたトラブル(嫌がらせ)があったとされる。

この佐々木組と溝口組の衝突は、一旦は和解しかけるも決裂。同年8月23日に松田組幹部の自宅に銃弾が打ち込まれた直後、佐々木組の本家である神戸の山口組本部に銃撃が行われたことで大阪周辺の山口組勢力も参戦する結果となった。この後、翌9月3日には大阪市南区(後の中央区)の山口組系中西組(組長・中西一男)の組員が松田組系村田組の大日本正義団組員に射殺されている。

この混乱に山口組の組長・田岡一雄は傘下の組織に自重するよう厳命したとされる。

 

日本橋事件

抗争は一時沈静化していたが、翌年の1976年10月3日に大阪日本橋筋商店街で大日本正義団の会長・吉田芳弘(当時36歳)が、待たせていた車のドアを開けようとしたところ、近寄ってきた佐々木組組員2人組が拳銃を3発発射、全て胸に着弾して吉田は15分後に死亡した。また、逃亡する犯人を大日本正義団組員が追跡して発砲、こちらは命中せずに組員は警察に逮捕された。白昼の繁華街の発砲事件は、社会に大きな反響をもたらした[1]。

佐々木組から前年3名の死者を出していることへの報復だった。すぐに松田組側から報復が行われると警戒されたが、そのまま何事もなく1年以上の時が過ぎた。

こうして山口組と松田組の対立が深まり、冷戦状態になる中で、突如起こったのがベラミ事件である。

 

ベラミ事件

日本橋事件から1年9ヶ月後の1978年7月11日、山口組組長の田岡一雄は、京都市太秦の東映撮影所を訪れた帰りに京阪三条駅前のクラブ「ベラミ」を訪れた。この時、田岡が「ベラミ」を時々訪れる情報を事前に掴み1ヶ月ほど前から通いつめて待ち伏せていた大日本正義団幹部・鳴海清によって田岡は狙撃された。凶弾は田岡の首に命中したが、奇跡的に一命を取り留めた。

この狙撃は、当時すでに巨大組織となっていた山口組のトップが命の危険に晒されたという意味で大きな衝撃を与えた。

 

山口組の報復と抗争終結

このベラミ事件は山口組若頭・山本健一の怒りに火をつけた。鳴海を追跡する一方で、山本は容赦のない攻撃指令を出した。報復は山本率いる山健組を中心に、宅見組(組長・宅見勝)などが参加した。

同年8月17日から10月24日にかけて公衆浴場や松田組幹部自宅、路上といった場所でも無差別に松田組組員を次々と射殺した。田岡を狙撃した鳴海は9月17日に六甲山の山中で、激しい暴行を加えられたことが明らかな状態の他殺体となって発見されたが、真犯人の判らぬまま1993年に時効となった。

松田組との手打ちさえ望まない山本健一は、11月1日に報道陣を神戸の田岡邸に招いて一方的に抗争終結を宣言。松田組も終結宣言を大阪府警に提出し、大阪戦争は終結した。

 

「 ふとしたきっかけで火花が散って、大抗争になった事件 」です。
 

 

分岐点は「 二つ 」あります。

元々「 ヤの付く自由業 」の方々なので、理屈は通用しません。

 

それでも、出来ればどちらも「 穏便に 」済ませたいと思うわけです。

特にその頃、暴力団追放運動( 第一次頂上作戦 )の影響が大きかった頃です。

 

当時の田岡組長も、WIKIによれば「 自重するよう厳命 」したそうです。

しかし、「 田岡邸に銃撃 」されたこと、そして極めつけは「 べラミ事件 」です。

 


 

これ、当時のニュースでもトップニュースでした。

おぼろげながら覚えています。

 

なんと、「 ヤクザの組長が狙撃された事件 」が、お茶の間テレビのトップニュースだったのですw

 

まぁ、時代は下って1997年の「 宅見若頭射殺事件 」もトップニュースではありましたが、これも鮮烈に覚えています。

しかも、無関係な一般人が巻き添えを食って亡くなっております。

 

で、「 田岡組長を直接狙った 」ことで、「 田岡組長の若い衆 」が、もう引っ込みがつかなくなってしまったわけです。

「 べラミ事件 」の場合、「 ドンを狙った鳴海 」というヒト、↑の「 日本橋事件 」で殺害された方の子分だったのです。

 

これも「 引っ込みがつかなくなったケース 」です。

オイラ考えるに、この一連の抗争では、「 謀略 」の匂いは感じません。

ただ、明らかな「 分岐点 」はあったのです。

 

もし、目端が利く人間がどちらかにいたら、「 流れを変えること 」も可能だったでしょう。

松田組であれば、田岡組長本人は狙ってはいけないとか、山口組であれば、末端の組織の小競り合いを封じ込めるとか。

 

しかし、そうはなりませんでした。

 

例えば、「 山口組 」、いや、山口組傘下の3次団体とかの人間であれば、「 暴れる場所 」が増えれば、出世の可能性が高まります。

野望を持っている人間は、「 混乱 」はウェルカムであります。

 

話は飛んで、「 戦国時代@関ヶ原の戦い 」が終わり、徳川方の勝利が確定しました。

その後、徳川方は、「 大坂冬の陣・夏の陣 」で豊臣家を滅ぼします。その時大阪城内には、たくさんの浪人が集結しました。

 

彼らは、「 戦国時代よもう一度 」と願って参加したのです。

このまま身分が確定すると、「 お先真っ暗 」だからです。

 

徳川の世になっても、徳川家直属の「 旗本 」と呼ばれる武士は、不満たらたらだったそうです。

なぜならば、「 もう将来は確定してしまった 」から。

世は、「 イケイケ拡大型 」から「 縮小均衡型 」へシフトしていきます。

 

豊臣秀吉のように「 百姓の倅から太閤へ 」大成功ロードは、どう考えても出来なくなりました。

徳川家康・秀忠親子が亡くなり、その後の徳川家光の時代に「 由井正雪の乱 」が起きます。

 

由井正雪の乱

 

あっという間に鎮圧されてしまいますが、これが大きくなれば、「 俺も俺も 」と参加した人間は多かったはずです。

平時に重要視されるのは、石田三成のような「 文官 」であり、加藤清正みたいな「 生粋の兵士 」に活躍の場はありません。

 

もし、山口組の中に「 下剋上 」な人間がいれば、「 田岡邸 」に松田組を装い、けが人が出ないよう田岡邸に発砲したり、「 鳴海清 」に情報と小遣いを与えて「 鉄砲玉 」にすることを企むかもしれません。

尻つぼみで終わってしまうより、自分の都合がいいように「 焚きつける 」可能性もあるのです。

 

ただ、流れを見る限り、これは彼らがその当時、必死に考えて行ったことであり、「 その通り 」だったんだろうなと。

 

WIKIにも書いてありますが、鳴海清は六甲山の山中で、腐乱死体となって発見されます。

その手掛かりが、背中に彫ってあった刺青で、当時最先端であった赤外線による解析で本人と確認されたそうです。

 

この犯人は捕まってませんが、これはどうも「 山口組の報復 」ではなく、「 匿った側が、山口組に対するけじめ 」として行ったという説があるようです。

 

抗争するのであれば迷惑なので、お互い無人島でも行ってやってくれと思いますが、以前はこんな事件がありました。

 

こういう事件は、話が大きくなると、「 元々のきっかけ 」は、誰も気にしなくなります。

どんどんエスカレートしていくので、えてして「 ターニングポイント 」は見逃されてしまうモノです。

 

ただ、その「 ターニングポイント 」を、誰かにコントロールされてしまうと、取り返しのつかないことになるのです。

 

また書きます。