今朝の某国営放送のニュースで頑張っている一人のお父ちゃんを観ました
子供たちが幼い頃に離婚してから、男で一つで娘さん二人を育ててこられたのです
そんな中、高校生の二女ちゃんのお弁当を作るだけでなく、お品書きとお手紙を毎日も添えてきました
高校三年間一度も休むことなく書いたお手紙は分厚い百科事典位に溜まり、それを二女ちゃんは大切に保管してきたのです
そして先日とうとう最後のお弁当を作り、お手紙を書くお父ちゃんの目からは大粒の涙がこぼれ落ちていました
親子三人辛いことも山ほどありましたが、
『思い通りにならない日は明日頑張ろう』という歌詞を胸に三人で乗り越えてきたそうです
娘さんたちはお父ちゃんがお弁当を作り、お手紙を書いてくれたことを生涯忘れないことでしょう
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突然ですが、徒然草 第十二段『同じ心ならん人と』は対談の楽しみに関する話です
対談の相手として好ましい真の友は、なかなか得難いものだと嘆いています
作家の佐藤春夫氏は以下のように口語訳していますので、よろしければちょっとご覧ください
気が進んだらで結構ですよ〜
同じ心を持った人としんみり話をして、おもしろいことや、世のなかの無常なことなどを隔てなく語り慰めあってこそうれしいわけであるが、同じ心の人などあろうはずもないから、少しも意見の相違がないように対話をしていたならば、一人でいるような退屈な心もちがあるであろう。
双方言いたいだけをなるほどと思って聞いてこそ、かいもあるものであるから、すこしばかりは違ったところのある人であってこそ、自分はそう思われないと反対したり、こういうわけだからこうだなどと述べあったりしたなら、退屈も紛れそうに思うのに、事実としてはすこしく意見の相違した人とは、つまらぬ雑談でもしている間はともかく、本気に心の友としてみるとたいへん考え方が違っているところが出てくるのは情けないことである。
双方言いたいだけをなるほどと思って聞いてこそ、かいもあるものであるから、すこしばかりは違ったところのある人であってこそ、自分はそう思われないと反対したり、こういうわけだからこうだなどと述べあったりしたなら、退屈も紛れそうに思うのに、事実としてはすこしく意見の相違した人とは、つまらぬ雑談でもしている間はともかく、本気に心の友としてみるとたいへん考え方が違っているところが出てくるのは情けないことである。
気心の合う人は、話していて本当に楽しく、深い話も出来ますが、そのような真の友なんてそうそういるものではありませんよね
表面上は会話が弾んでいても、内心は特別面白くもなかったりすることもあります
兼好法師さんは真の友がいたのでしょうか
皆さんは何人いますか?
私は友達が少ないので、真の友も少ないかもしれません
『かも』というのは、こちらは真の友だと思っていても相手はそうは思っていないことがあるからです
そしてもし、
「あなたは私の真の友ですか?」と尋ねられたら
「いいえ」とはなかなか言いづらいのが人情でしょうしね
太宰治の『走れメロス』のメロスとセリヌンティウスといえば真の友の代表格です
二人はお互いの為に命を捧げることを厭いませんでした
真の友とは辛い時、苦境に陥っている時に、助けてくれる人なのでしょうか
私もたとえ助けることが出来なくても、その心情を汲み、寄り添えたらと思います
私は実際数名の友人にそのようにして頂きました
その中にはもう二度と逢うこともない人もいますが、
私の中では掛け替えのない大切な真の友なのです
今となっては友の為に何も出来ないのが辛いですね
もう一度 君に逢うこと叶ったら
時を忘れて 語らうだろう