大津市の自殺した中学二年生のいじめ問題に対する学校側と市教育委員会の対応について、憤懣やるかたない気持ちを抱かれた方も多いのではないかと思います。
学校の先生方、彼らは何故、他の生徒からのいじめの報告があっても、なすべき対応をしてこなかったのでしょうか。
当初は、いじめを目撃した他の生徒たちもこれはいけないことだと思い、先生に報告していましたが、報告をしても結局先生が一切対応してくれないので次第に見て見ぬふりをするような曖昧な雰囲気ができあがっていったようです。そして、執拗にいじめられ続けたその生徒は自殺という選択肢を選んでしまうことになります。
学校側や市教育委員会に対しては、事件後の対応のまずさも指摘されています。自分たちの責任を追求されそうな都合の悪い情報は隠蔽しようとしたことが明るみになり、結果として、さらなる社会的責任を厳しく追及されるような状況になっています。
先生方は何故こんなになるまでいじめを放っておいたのだろうか。さらには教師なのに責任逃れまでしようとして、こんな人達が子供たちを指導していいのだろうか。なんてひどい先生達と教育委員会だ、という気持ちにもなりました。向き合う姿勢があったのなら、子供のいじめとけんかを識別できなかったということは考えにくいですし。
もしかしたら、面倒なことに関わりたくなかったというのが本音かもわかりません。しかし、それでは教師としてあまりに無責任になってしまいます。
では、その学校の先生方や教育委員会の方々は私たちと比べて特別悪い人たちなのでしょうか。
仮に、私がその学校の先生だったとしたら・・・。臭いものには蓋をするように、上司を含め、大多数の先生が日常的にいじめのような扱いにくい問題に対してはなるべく関わらず、たとえ実際にいじめがあったとしても向き合うことなく見て見ぬふりをしている状況下であったとしたら・・・。
果たして私は本当に具体的解決のために立ち上がることができただろうか・・・。個人的に、とても考えさせられていました。
苦しんでいる人がいて解決すべき実際の問題に対し、その存在を知りつつも見て見ぬふりをするという不正に対して、組織の中で次第次第に慣らされていってしまうことの恐さを感じました。
当事者の少年が自殺をしなければ、教育現場における文化としての歪みがここまで鮮明に表面化しなかったかもしれません。そう思うとその少年の命は教育現場の歪んだ文化と不正を正すための尊い犠牲であったとも感じています。
極悪な親玉がいて、常日頃から先生や教育委員会に「生徒など大切にするな、不正があっても黙殺しなさい」などと命令しているわけでないのに、きちんと仕事をしているつもりの先生たちの中にさえ、次第次第に不正を許容する文化ができあがっていってしまうということは非常に考えさせられる問題です。
人間生きていれば、この学校の先生方のように複雑な境遇を様々経験しますが、些細な不正に対してもそれを許容し服従することが習慣化してしまうことは、人間にとって明らかな人生における損失なのではないかと私は思います。内的な人間性における損失ということです。
前回記事で触れたガンジーとキング牧師は、決して不正に服従することを選びませんでした。不正に対する不服従を命懸けで貫いて偉大な勝利を成し遂げました。何があろうとも、不正に屈することを選ばなかったことが彼らの魂を光り輝かせたのだと思います。
今回の痛ましい事件を機に、日本全体で教育分野に携わる方々がより愛のある教育現場の構築に対して再度、真剣に取り組んでいくことができるよう心から願っています。そして、神の国を創建する時代に生まれ合わせた御旨の担い手である子供たちが守られ立派に育っていくことができるように祈っています。
●7月21日の訓読会における御父様の御言(亨進様ツイッターより)
私達は私達が天の側であるかサタンの側であるかよく考えなければなりません。私達の体と心がサタンのみ旨を成す道具であったという事です。それでいつどこにいても私達がサタンと分立する事が出来なければなりません。
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