最近読んだ本、
「なぜ私たちは過去へ行けないのか
ほんとうの哲学入門」加地大介著
「ターミネーター2」という
タイムトラベル映画に潜む数々の謎、
鏡像が示す左右反転の謎という
身近なテーマで語られます
知らないうちに
「時間とは何か」「空間とは何か」
という超〜深いテーマに
切り込んでいってる
というものです
私がこの本を読もうと思ったのは
特に2つめの「鏡の話」。
南アフリカに住んでいるときに
わかったことがあります
南半球の月は
満ち欠けが日本と逆
なんだよ〜
それは新月の後、
月が左側から満ちるということです!
南アに住んで気づいたときは
重大な発見!!と驚きました
日本では新月から右側が光っている
半月=上弦の月が見られると思いますが、
南アフリカでは左側が光ります
ということは、
日本で嫌われる「北枕」は
「南枕」になるんでしょうかね?w
そこで、少し気になったので、
そこで、少し気になったので、
なぜこの現象が起こるのか?
当時、調べてみたんだよね。
一説によれば、この不思議のキモは、
一説によれば、この不思議のキモは、
"左右"という概念にあるそうです。
プラトンの昔から、
プラトンの昔から、
鏡に映る像はどうして左右逆なのか
(上下は逆ではないのか)
(上下は逆ではないのか)
という問題がありました。
『ティマイオス』で論じられている
といいますが(私は読んだことないw)、
いまだ最終的には解けていない問題だとか。
鏡で左右が逆になるのは、
いまだ最終的には解けていない問題だとか。
鏡で左右が逆になるのは、
次の3点がポイントです
"左右"はある人の主観に基づく相対的な方向概念である(それに対して、たとえば"東西"はある世界の中=地球上では絶対的な方向)
人は鏡に映る像に自分の感覚を反映させてしまう
人は見た目が左右対称にできている
この問題が、この本では
人は見た目が左右対称にできている
この問題が、この本では
もっと詳しく述べてあります
たとえば〜、、、
たとえば〜、、、
北側の壁に貼ってある姿見の鏡を前にして
北向きに立ち、右手を上げると、
鏡の中では左手を上げているように見える。
でも、東西南北という絶対的方位で考えると、
自分は東側の手をあげて、
鏡の中の自分も東側の手をあげています。
鏡の中の自分も東側の手をあげています。
逆転していません。
つまり、
鏡の中の自分が左手を上げているように
感じるのは、 自分が前を向いたときの
左右という相対的方向概念と、
鏡に映る像の観点に立ってしまう錯覚と
鏡に映る像の観点に立ってしまう錯覚と
(鏡の中の自分はこちら側=ほんとの
自分とは反対方向が"前"になっている)、
人間の体が左右対称であるための錯覚が
組み合わさっての認識の結果だといえる、と。
月の満ち欠けの左右逆転で、
月の満ち欠けの左右逆転で、
これも、 東西南北という地球上での
絶対方位で考えると、
北半球でも南半球でも逆転はしないはず。
北半球でも、新月のあと、
北半球でも、新月のあと、
右側、つまり西側から光りだし
上弦の月となります。
南半球でも同じく、
西側から光りだすと思われます。
ただし、南半球では
太陽や月は北にのぼるので、
北に向かって西側、
つまり左側から光りだす
ということになります。
絶対的方向で考えると同じ方向なのに、
絶対的方向で考えると同じ方向なのに、
自分が向いている「前」の方向が
北と南で異なるために、
北と南で異なるために、
相対的方向概念である"左右"が
逆に感じてしまうということ。
一応、納得した
、、、、とか読み進めていくと!
また!
いやいや、
そうは言うけどさ??
って新たな疑問点というか、
矛盾点?みたいなのを突いて
著者の加地さんが
どんどん議論を進めてくんだよね。
そのたびに、
おー、な、なるほどー
もう、だんだんと
わけがわからなくなってくる
私これ、賢くなってるのか
バカになってるのか
や、正確にはバカだということに
気づかされてるのか←
右ってどっちだったっけー…←
人間の認識やその認識を表す概念の曖昧さ、
といったところを突っ込んでいくことから
哲学が始まるんだろうなぁ、なんて
思いましたよね
やー、数学って偉いんだなー。
賢いなー。
(公式の世界という本、
買ってしまった。
それはまた別の記事で)
ちなみに、
月といえば夏目漱石の逸話が
けっこう好きです
留学後、講師として生徒たちに
英文学を説いていたとき。
「 I love you 」の一文を生徒が
「我君を愛す」と訳したのを聞いて
「日本人ならば、月が綺麗ですね、
としてはどうだろうか」と言った説。
きゃーーーーーーーーー
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