心が凍る過程 | スピリチュアルに生きる!

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吃音・社会(社交)不安障害、脇見恐怖症など心の病で長年悩んできました。
問題だと思っていた事は問題ではなかったと気づき、今、自分の生きたい人生を創っています♪(*^^*)
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守田さんの鑑定で、氷のカードが出た私ですが、私は辛い感情を感じないように


心を凍らせてきたらしいです。



スピリチュアルに生きる!


いつも読んでいるメルマガに、心が凍りつく過程が書いてあったので、


ちょっと書いてみようかなぁと思っています。


一部抜粋です。↓↓↓






怒りは感情の蓋であるというお話しは、私もよくカウンセリングでさせていただきます。

確かに怒りの下には、「わかってほしい」「愛してほしい」「助けてほしい」という気持ちが隠れていて、


それらの気持ちが表にでてこないように、怒りで蓋をするということがあります。


ですので、「わかってほしい」「愛してほしい」「助けてほしい」ということを、相手に伝えるまで、


そして満たしてもらうまで、怒りという感情が治まらないのです。




ですが、リクエストをいただいた方のように、怒りや恨みつらみはないけれど、ショックを受けてしまって、


相手との関係に距離を置きたくなることがあります。


ショックというのは、心が衝撃を受けたということです。


ショックを受けた結果、心が傷付き、その傷に触れると心が痛むので、怒りで蓋をすることもあります。

ですが、怒りで蓋をしない場合もあるのです。


あまりに、強い衝撃を受けたときなど、「心が凍りつく」などと表現したりすることがありますが、


まさに凍りついてしまうのです。


凍りつくのは、「悲しい」というような気持ちです。




時間などが経過して、ショックが和らいでくると、凍りついた心もとけ始めます。


そうすると、「悲しい」という気持ちがどんどん出てきて、悲しいと言う気持ちを感じたくない為に、


怒りで蓋をするということも起こってきます。


信頼していた友達に裏切られたのだとして、ショックを受けたときは、友達のことも好きだし、


何か事情があったのかもしれないと、友達の裏切りに対して、理解しようとします。

「あの人に限って、そんなひどいことをするはずはない」「きっと何か事情があったのだ」という感じです。


友達を信頼しようとする素晴らしい気持ちでもあります。


ですが、友達に裏切られたという「悲しみ」を感じることができません。

悲しみを感じてしまえば、友達が裏切ったということを認めてしまうことになってしまうからです。

ですから、悲しみを封印して、凍らせてしまうのです。




怒りではなく、悲しみを感じているわけですから、許しが必要というよりも、


自分自身が感じている悲しみを受け入れていくことが必要になってきます。


相手のことを憎んでいるわけではないけれど、自分自身が傷ついているのです。






↑↑↑


以上ですが、全文はこちらに載っています。↓


怒りとショックを受けることは違うのか?




怒りは感情のフタ。


感じたくない感情を怒りでフタしてしまう。


でも、怒りでフタをしない場合がある。


強いショックを受けた時などに、心が凍りついてしまう。


「悲しみ」を感じてしまうと、その事実を認めてしまうことになるから、


悲しみを封印して、凍らせてしまう。


怒りではなく、悲しみを感じているのだから、許しが必要というよりも


自分自身が感じている悲しみを受け入れていくことが必要になる。




っていうことなのかな、と思いました。


凍りついた心がとけ始めてくると、今度は怒りでフタをしようとする、と書いてあるので、


「怒る」ということは、氷がとけ始めている証拠なのかもしれません。


ちょっと前に、私はけっこう怒っていたんですが、もしかして氷がとけ始めている、ということなのかもしれません。




私は母を許そう、と頑張ってきたんですが、それは順番を通り越してやってしまったのかな、と思いました。


怒りに対しては、許しが必要になってくるのかもしれませんが、


私は母に怒りを持っているというよりは、ショックで心を凍らせている状態だったんだから、


まずはその悲しみを受け入れていく、ということが先で、その次に許しだったのかもしれません。


それなのに、悲しみを無視して、許すことばかりに頑張ってしまったから、


私の心は置き去り状態だったのかな、という気がしました。




守田さんも言われているように、氷で凍らせてしまった感情を感じていくこと。


悲しみを感じていくことなんだ、と思いました。


でも、その悲しみを感じる、ということは、その事実を認めなくちゃいけないから、辛いんだと思います。


悲しい出来事が本当にあったんだ、私をわかってくれなかった、私を認めてくれなかった、


私を大事にしてくれなかった、という事実も一緒に認めていくことになるから、


本来はそれが嫌で凍らせたのに、それを思い出して認めていくことも必要になるから、


なかなか進まないのかもしれないなぁ、と思いました。




許しよりも、まずは、悲しみを受け入れていこうと思います。


母親との間にも、悲しみはあったと思いますが、『吃音』に対する悲しみもすごくあったと思います。


『無力感』 『無価値感』 『孤独感』 『自己否定』 『劣等感』 などなど、


リアルに思い出せるのは、吃音の方かもしれません。


思い出せるということは、それだけ凍らせてない、ということなのかもしれませんが、


私の中でそれらの感情はほとんど癒されてないような気がします。


未だにとてもみじめで、劣等感を感じていると思います。




元々は、親との問題があって、吃音にもなったのかもしれませんが、


土台がグラグラな上に、吃音だったから輪をかけて、私という存在自体を否定してきてしまったのかもしれない、と思います。


吃音に関して、他人に腹が立ったことはほとんどないと思います。


ひたすら、自分を責めました。


ひたすら、みじめでした。


そして、生まれてきたことを悔やみました。


「私なんて生まれてこなければよかった」という思い、きっと未だに癒されてないような気がします。


この辺から、見つめていってもいいのかもしれないなぁ、と思っています。