母との関係 その5 | スピリチュアルに生きる!

スピリチュアルに生きる!

吃音・社会(社交)不安障害、脇見恐怖症など心の病で長年悩んできました。
問題だと思っていた事は問題ではなかったと気づき、今、自分の生きたい人生を創っています♪(*^^*)
夢の中で遊びます♪だってここは夢の中なんだから♪(*^^*)

こんなに長くなるはずではなかったんですが、書いてたらいろいろ出てきて、


まぁこれはこれでよかったのかな、と思っています。


私が書きたかったのは、これからどうしていくか。


この前の勉強会でわかったことなどを書きたいと思っています。




母との関係をリーディングしたとき、現在の位置に出たカードは 『太陽』 でした。



スピリチュアルに生きる!


思った通りではないけども、私は幸せらしいのです。


え?私、幸せなの?とちょっとビックリしました。


でも、ちょっと考えて、あぁ確かにそうかもしれない、って思いました。




今、母との関係は良好なのです。


以前のように、言い争いをしたりということが全くありません。


母も以前のように、私に否定的な言葉を言ってくることがほぼなくなりました。


それどころか、私の気持ちをわかってくれるようになってきたのです。


息子のことも、初めはなかなか理解してくれませんでした。(発達障害のこと)


でも、最近は、テレビで発達障害のことをやっていたよ、見たよ、とか


新聞に発達障害の記事が載っていた、と切り取っておいてくれたり、


私が学校での愚痴を話すと、


「なんで学校の先生はわかってくれやんのやろねぇ。」


っていう言葉まで出るようになりました。




母が病気になり、通院するようになった時、時間的に余裕があったのが私なので、


私が車で連れて行くことが多かったんですが、私にとっては大事にしないといけないと思っているし、


そんなことするのは当たり前だったけど、母は、そのことがすごくありがたかったみたいで、


感謝している、っていうことまで言ってくれました。


何を水臭いこと言ってるの、って思ったけど、そう思ってくれてることはすごく嬉しかったです。




今のような状態になるまでに、いろんなことがあったし、どうしてこうなったのか、


一言で言えるような単純なものではないと思っています。


私は、母に私の事をわかってもらうのはあきらめました。


それは、それしか道がなかったからです。


母とうまくやっていく為には、こっちが折れるしかなかった。


うまくやらなくてもよかったのかもしれないけど、母を捨てることもできなかった。


自分を貫けば、母を否定することになる。


でも、私にとって、母は大事にしなきゃいけない存在で、守ってあげないといけないぐらい


可哀想な人だったから、それはできない。


私が選んだ道は、私が母を理解して、大人になることでした。




母もきっと、被害者なのかもしれない。きっとそうに違いない。


そう思うことで、母が私たちにやってきたことを正当化しました。


そして、本当は母もわかってほしかったんじゃないか、と思うようになりました。


だから、本当だったら私がやって欲しかったことを、私がしてあげようと思いました。


母が愚痴を言っていたら、そうやな~と聞きました。


そんなこと思わんでもええんちゃうの?とか、もっと考え方変えた方がええんちゃうの?


って思うことでも、そんなことは言いませんでした。


ただ、ひたすら、母の思っていることを否定せずに、母の感じていることに共感するようにしました。


私の意見を言う時でも、すごくやんわりと言い、母を否定することにならないように気をつけました。


被害者である母が救われたら、いつか私のこともわかってくれるかもしれない、


っていう思いもあるかもしれません。




そんな日々のおかげなのか、本当に今の関係は良好で、何も問題がないんです。


ただ、私が幸せを感じれない、人生を楽しんでない、ってことを除けば・・・。


母との関係は良好だけど、母が人生を楽しんでいるのかどうかは、疑問に感じています。




今、いい感じで来てるんだから、もう過去のことはええやんか、って思っている自分もいます。


それもリーディングに出ていました。


でも、結果は、まだ母の支配から逃れられないと出ていました。


アドバイスとして、私の母に対する思いと、母の私に対する思いを公平に見ていく。


不公平を感じていく、と出ていました。


どう考えても、私が母を思う気持ちの方が大きいんです。


私が心の病で悩んでいるのは、母のせいかもしれないのに、その母を大事にしようと思っている時点で


まったくつり合ってないと思います。


でも、そのおかげで、今の母との良好な関係を作ることができたんだ、と思います。




だけど、私はとても大事なことを忘れてきてしまったんだと思います。


物分かりのいい、いい子になりすぎたんじゃないか、と思います。


今の関係を作る為の代償に、自分の心を殺してきたんじゃないだろうか?


母にわかってもらうことをあきらめた時、私は心を凍らせてきたと思うし、


母を被害者にすることで、自分の思いを封印してきたんじゃないかと思います。




お仲間さんのブログを読んで、気づいたことがあります。



『ある意味被害者かもしれない。いやいや、そんな言葉で許さへんし。立派な加害者です。』



そうやん。確かにそうやん。


母は被害者かもしれない。


でもやってきたことは許されないと思う。


現に私がこんなに苦しんでいるんだから。


生き辛さを感じているんだから。





私は許しすぎたんじゃないかと思います。


母に対する憎悪を出さないことは、自己否定につながる、というのもお仲間さんが教えてくれたんですが、


本当にそうだなぁ、と思います。


物分かりがいいことは悪いことじゃないし、母も被害者なんだ、と思って許そうとする行為自体は


悪いことではないと思います。


でも、私は自分の心を置き去りにしてきてしまったんだ、と思います。


母を許すと同時に、自己肯定もしてこなきゃいけなかったのに、


自己否定のまま来てしまったんじゃないかと思います。





でも、今の私は母を責めようとは思わないし、憎悪を出そうと思ってもブレーキがかかってしまうんです。


それはきっと、母の事を可哀想な人だと思っていて守らないといけない、と決めてきた自分を


裏切ることにもなると思うのかもしれないし、憎悪を出したら殺してしまうかもしれない、と


思ったあの時に、憎悪を出したらあかん、と強く否定してしまったこととか、


いろんなことがブレーキになっているじゃないかと思いました。





守田さんは、「責めなくていいです。不公平さを感じていくこと。」と言ってくれました。


不公平さを感じていく中で、母を責めることもあるだろうけど、今の母を責めているわけではないし、


私が自分を肯定するために、それは必要なことなんだと思えば、できるんじゃないかと思いました。





親孝行しなきゃいけない、とか、親は大事にしなきゃいけない、とか、


生んで育ててくれた恩とか、感謝とか、そういうものはとりあえず、置いておいて、


私は不公平さを見つめていきたいと思っています。


親を大事にする前に、私は私を大事にしなきゃいけなかったんだと思います。





憎悪が出ない、って、一見いいことのように思うかもしれませんが、


憎悪が出せないくらい、自己否定をしているんだ、と考えて欲しいです。


幸せで出ないんなら、いいと思います。


でも、私は不幸せなのに、出ないんです。


憎悪を出している人の方が、健康的だと思います。


それだけのことをされてきたんだから、それが当たり前です。


私はどうして憎悪が出てこないんだろう?って不思議だったけど、


強い自己否定をしていたんだ、と気づきました。





とりあえず、これで母との関係は完結です(^-^;


と言うか、ここからですけどね。


自分を取り戻すために、不公平さを感じていきたいと思います。


『許す』 ことが大事、ってよく言いますが、それがもしかして自己否定につながっているかも


しれない、ってことを忘れちゃいけないんじゃないかな、って思います。


自分の心を殺してまでも、相手を許したって、幸せにはなれないんじゃないかと思います。





長々と読んでいただいて、ありがとうございました音譜