「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?」 | 温室メロンの備忘録

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開館65周年を迎えるにあたり、国内の現代美術作家による展示会が開催されている。西洋美術館の存在意義を自問する、かなり踏み込んだ企画だ。

結論を先に書くと、議論の良し悪しは別として、個人的には色々とインスパイアされた興味深い展示会だった。普段の2倍ほど時間が掛かり、常設展をパスしてしまった。

議論自体は、西洋美術館の上から目線の問いかけに、参加した作家が批判を交えて応えるという構図で、ある意味予定調和的ではあったが、企画自体は称賛に値すると思う。

「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?」


我々はアーティストを生み出せてきたか?という発想が、そもそも西洋美術館らしい。触発された作家も、そうでない作家もいるだろう。しかしながら、あくまで作家が主体であり、美術館は客体に過ぎないはず。


ということなのだが、見学時はあまり考え過ぎず、自然体で鑑賞するようにした。以下、気になった作品を順に。


松浦寿夫「つかの間の永遠」2022


左側にドニの作品が並べて展示されている。


モーリス・ドニ「池のある屋敷」1895頃


一見しただけでは分からないが、間違いなくオマージュだ。なるほどこれは面白い。


松浦寿夫「キプロス」2022


こちらはセザンヌ「ポントワーズの橋と堰」のオマージュ、か?作家の意思に寄り添って鑑賞すべき作品だろう。


小沢剛「帰ってきたペインターF」2015


藤田嗣治の「坐る女」や「自画像」と共に展示されている。藤田画伯を西洋美術の文脈でのみ語る、西洋美術館に対するアンチテーゼ的な展示。制作当時の意図は不明だが、パロディタッチに描かれている。


確かにアーティゾンには戦争画が展示されている。だが果たして、画伯は自ら戦争画を描きたかったのだろうか?フランスに帰化し、レオナール・フジタと名乗るのが画伯の望んだ人生だとしたら。


いずれにせよ西洋だの日本だのという議論は、藤田画伯の思いや、作品の価値とは関係なさそうだ。


小田原のりか「五輪塔」


小田原氏によると、地・水・火・風・空を積み重ねた五輪塔は、台風や地震の多い日本で倒れるたびに何度も積み直されてきた。転倒を前提とした設計との考えらしい。


関東大震災で、ロダンの彫刻が被害を受けたことを題材に、日本に「西洋」美術館が存在することが「歪み」であることを想起させたいのだそう。


「考える人」の台座


「考える人」の表示板が付いた台座が、ポツリと展示されている。


ロダン「考える人」1981-82


部屋の隅には、転倒した「考える人」が。


西洋美術館がここまで思い切ったのかと驚き、同時に感心する。西洋美術館の存在が歪みかの議論よりも、内側を覗いてみたい好奇心が先に立つ。



もっと中身が詰まっているかと思っていたが、意外に薄い。あと固定のための臓物が縦横無尽に。中央大きめの3つの穴と、



台座の3つの穴を、ボルトで連結して固定しているようだ。これほど貴重な機会は二度とないかもしれない。


田中功起「補遺:保育士へのインタビュー」


田中功起「美術館へのプロポーザル」


子供の身長に合わせた掲示、多国語対応、保育所の併置、バリアフリーなど、提案文書の展示。当然ながら、低い目線に合わせ掲示されている。


提案の内容は、現代社会において、あらゆる施設に求められるごく一般的なもの。国立の施設なので率先垂範すべきかもしれない。ただ西洋美術館の存在意義とはあまり関係なさそうだ。


鷹野隆大


IKEA製品で作られた部屋に、写真にあるドニの「水浴」を始め、クールベ「眠れる裸婦」や、作家自身の腹の写真などが展示されている。裸体が普通に展示される美術館は、普段の生活とは隔離された閉鎖空間という主旨だろうか。


この後は一旦、反幕間劇ということで美術館側が主体となった企画展示となる。


「反幕間劇〜上野公園、この矛盾に充ちた場所:上野から山谷へ、山谷から上野へ」


こちらは山谷地区で、路上生活者の生活する様子を描いたもの。


国立西洋美術館は上野公園にありながら、路上生活者が多くいた現実に目を向けてこなかった、との自己認識を踏まえ、弓指寛治画伯に依頼し、何を見てこなかったのかを浮き彫りにするという企画。


訪問看護ステーション「コスモス」の人々



自省のためというより、自分たち美術館の見てこなかった現実が何であったのか、その事実確認をしたかったのだろう。個人的には、昔の上野公園を知らないので勉強になった。


そろそろ終盤戦だ。ようやく個人的に一番観たかった作品に到着。


竹村京「修復されたC.M.の1916年の睡蓮」2023-24


立ち止まる人は極めて少ない。確かに背景をご存知ない方には、興味ない作品かもしれない。


モネ「睡蓮、柳の反映」1916


普段は大抵、常設展のどこかに展示されているコレクション。



同じサイズで焼失部を再現しているので、距離を空けるとピッタリとは重ならないが、展示するにはこの形しかないだろう。




刺繍という技法で復元されているのが興味深い。満足して次に向かう。


ユアサエボシ「抽象画A, B, C」2023


隣にはサム・フランシスの作品が。


パープルーム


パープルームは複数の作家によるグループなのだそう。奥にはどこかで見たことのある絵が。




ラファエル・コラン「フロレアル(花月)」のコピーが、しっかりと折り目を付けられたうえで、額に収められている。


梅津庸一「フロレアルー汚い光に混じった大きな花粉」2012-14


その「フロレアル」をモチーフに描かれた自画像。東京藝術大学が上位となる日本の美術教育体制に対するアンチテーゼなのだそう。ポーラ美術館のラファエル・コラン「眠り」が美しかったことを思い出す。


最後のエリアへ。


梅津庸一「緑色の太陽とレンコン状の月」2022


坂本夏子「入口」2023


シニャック「サン=トロペの港」と並べて展示されている。


坂本夏子「階段」2016


こちらはルノワール「木かげ」と共に。


オマージュ作品としての展示ではなく、昔からある技法や構図を、画伯が使って描くとこんな空間を表現できるという、過去と現代のコントラストが楽しい。



画伯にとって、絵は「すでにあるイメージを表出するためのものではなく、未だない空間に触れるための方法」なのだそう。当然のようでいて、今の時代にこの主張は頼もしい。


その他の作品どれもが気になる。


坂本夏子「Tiles|Signals(Quantum Painting001)」2021


坂本夏子「Tiles」2006


坂本夏子「難破船1-6」2016


これらを見れば、今さら西洋画と日本画を分類する意味などないように感じる。美術館側の問いかけに対し、より大きな枠組みから回答されていて大人だなと。一方の西洋美術館に、それを受け止められる柔軟性があるかはまた別の話。


辰野登恵子「WORK 89-P-13」1989


モネの「睡蓮」と並べて展示する感性が素晴らしいと感じる。この作品も好きだな。


ということで言語化するのが難しかったが、なんとか書き終えた。冒頭にも書いた通り、とてもインスパイアされる展示会だった。