

ブログネタ:
今、一つだけ願いが叶うなら?
参加中
本文はここから
「親父、そろそろ行こうぜ」
「ああ、先に車出しといてくれ」
すぐに行くから、そういいながら。
不格好にネクタイを締めている。
相変わらず、不器用な人だ。
お袋が締めないといつも時間がかかるんだ。
エンジンが高音で唸る。
窓ガラスのすぐ脇を、日が隠れるほど大きいトラックがすり抜けていった。車体が少し揺れる。
ハンドルを握った手はかじかんだように痺れ、僅かに汗が滲む。
これだから。
高速は嫌なんだ。
俺は胸ポケットから煙草とライターを取り出して、口にくわえる。
前を見ながらだから上手く火を点けられなくて、掻痒感に似た重みのある水泡のようなものが、胸の奥でぶくぶくと膨らむ。
ようやく点いた。
深く吸い込む。
水泡は紫煙に溶かされて、口から一緒に出て行った。
窓を開ける。
鼻につく煙草の煙は窓に吸われるように飲まれてゆく。
車内は無言だ。
親父と俺。互いに口を開こうとはしない。
クーラーの音とエンジンの音と、窓から入る空気の音だけが飛び交う。
それが堪らなく重苦しくて、俺はカーステのスイッチを入れた。
「今日の天気は快晴です。晴れ渡った空から降り注ぐ日差しが少し強いかもしれませんが、とっても行楽日和の一日となるでしょう」
ああ。
確かにそうだな。
眩しいくらいだ。
バックミラーを覗き込む。
親父は右手の山から瞳を外さず、一点ばかりを見つめている。
あと、だいたい30分くらいの距離か。
家を出てから二時間。
ずっと変わらない表情だ。
何を考えているのか、よくわかる。
諦めたのか、ネクタイは相も変わらず不格好だ。
「よう、お袋。元気かい?」
山を登って数十分。
お袋の眠る墓前に立った。
短くなった煙草を吸い殻入れに入れて、新しいのに火を点ける。
無作法かもしれないけれど、それを供えた。
「禁煙は順調かい?」
親父は住職のところに挨拶に行った。
だから。
二人っきりで内緒話だ。
「親父さ、辛そうだぜ。なんとかしてやってくれよ」
お袋に触れるように、石に触れる。全く微塵にも似ていない感触だ。
とても、冷たい。
まだ蝉が鳴いているのに、冷たい。
俺は自分の分の煙草に火を点けて、肺に巡らす。紫煙がないと呼吸が上手く出来ない。
息が詰まって喘いでしまう。
じゃりじゃりと、頼りがいのない足音が聞こえた。
「待たせたな。掃除しようか」
「ああ、そうだね」
俺はお袋から煙草を取り上げる。
禁煙頑張ってくれ。
ジャケットを脱いでワイシャツの袖を捲る。
やはりまだ少し暑い。
長袖が平気な温度になってきたけれど、運動すれば汗が滲んでくる。
墓石をごしごしと擦って、流して。雑草をいくらか引っこ抜いて花を生けて。最後に線香を灯す。火は口で吹いてはいけないらしい。
「久しぶりだねえ、母さん」
親父は相変わらずの声で語りかける。
今にも泣いてしまいそうな震えた声。
それが聞くに堪えなくて、目蓋を強く閉じる。
なぁ、母さん。
こいつを見てくれよ。母さんの真似をして煙草を吸うようになったんだ。少し控えるように言ってくれないか?
お前は俺の最期を看取るんだって。
先には逝かないようにって。
そうそう、こいつは誰かに習った訳でもないのに、ネクタイを結ぶのが得意なんだ。母さんに似たのかな?
料理も最近母さんに似た味になってきたんだ。どうせなら、母さんの味に似たお嫁さんを貰ってくれると嬉しいんだがね。いや、母さんに似た美人の嫁さんの方が良いか。
ああ、それからね
「おい、親父!いい加減にしてくれよ!」
「え?」
「なんて顔して、なんて声して話しかけてんだよ!」
母さんは!もう20年も前に死んだんだぞ!
俺は堪らず、そう叫んでいた。
「え?」
「いい加減、現実を見てくれよ」
俺は地面に付けていた右膝を伸ばして立ち上がる。ポケットから煙草を取り出して、火を点ける。
「母さんは!俺がまだまだガキの頃に、肺癌で死んだんだ!俺が制服を脱いで、背広を不格好に着て!ネクタイを締めるのが日課になる歳になるくらい、母さんは眠っているんだ!この石の下で!」
母さんはもうとっくの昔に死んだんだ!
そう、俺は泣きながら叫んでいた。
親父は、ことあるごとに。
お袋が死んで間もないように振る舞っていた。
それは故意なのか、はたまた無意識なのか。
俺にはわからない。
ただ。
現実を受け入れられず、妄想に目を向けて、夢からも目を背けている。そう感じられた。
お袋が死んだという夢も見たくなくて。
眠りの中までも受け入れられなくて。
「頼むからやめてくれ。俺だって辛いんだ。弱った親父も見たくないし、弱っていく親父を見るのも辛い」
煙草の煙が目に染みる。涙で洗い流そうと、涙腺が開いた。
さめざめと涙が溢れ出て。
じくじくと胸が痛んだ。
止め処なく流れる涙を止めようと、俺は顔を手で覆う。
すると自分の手の温もりで、涙の奔流が増した。
ああ、思い出した。
母の手の温もりを思い出した。
石のように冷たい感触ではなく。
日向のように温かい手だった。
熱いくらいに温かい手だった。
俺は久しく忘れていた感触に、涙と嗚咽を止めることが出来なくて。
膝をついて。
両手で顔を覆って。
祈るように泣いた。
天を見上げて泣いた。
もう一度母に会いたいと。
口にくわえていた煙草は、いつの間に落としていた。
「ごめんな、俺が悪かった。だからそんなに泣かないでくれ」
「いいんだ、父さん」
久しぶりに、父を隣に感じた。
子供みたいに背中を擦られて、安心しきって。
だくだくと涙と思いを吐き出しきっていた。
「煙草、やめようかな」
ああ、それが良い。そう言って父は俺を優しく抱いた。
「母さんも、煙草やめようと頑張って、やめたんだけどな。遅かったんだ」
そっかと、俺は呟いて。箱を潰した。
「もう一度、母さんにネクタイ結んでほしいなぁ」
親父はそう言って、歪んだネクタイを締める。
「いいんじゃないかな、それでも。奇麗に結べるのは母さんだけってことで」
「ああ、そういう考え方もあるのか」
「俺は、もう一度母さんに頭撫でてほしいな」
「まだ、反抗期だったもんな、お前」
親父は憶えていたようだ。
「さて、帰ろうか」
「ああ、そうだな」
じゃあな、母さん。
また来るからね。
少しくたびれた背広と、ネクタイを整えて、俺と父は歩き出した。