夜の空気が冷たくなって数週間。
暦は長月を拝し、とうとう夏は終わった。
今年は蝉の声が少ない気がしたけれど、もうめっきり聞かなくなった。
いるならいるで喧しいけれど、いないと夏って感じがしないから正直、淋しい。

祭囃子を聞いた。
昼間、住宅街の中を練り歩く小さな神輿と和太鼓の音。
夏を惜しむ祭りなのか、それとも秋を尊ぶ祭りなのか。
まぁ。
なんでもいいや。
それよりも、今年は祭りに行ってないなぁ。
むしろこっちが重要だ。
どうしよう。
一人で行ってもなぁ。
友達誘う?
がっつり遊びたい気分じゃない。
私はごろごろ転がって。
浴衣の入った箪笥を開ける。
菫のしっとりとした色合いの浴衣。
風車の刺繍を無数に散りばめたお気に入りだ。
着ちゃう?

 私は一年ぶりに着た浴衣の感触にはにかみながら、からんころんと下駄を歌わせる。
 巾着をぷらぷらと揺らしながら、涼しくも活気で熱気を持った神社の中をふらふらする。
 小学生たちは半袖半ズボンのビーサンで、今が秋であることをうっかり忘れてしまいそうだ。
 香しく香ばしい美味しそうな香りが周囲に漂って、私の空きっ腹を満たしてくる。
 私は早速りんご飴を買って、何故か狐のお面も買ってしまった。
 斜めにイナセな感じに被って、帯の前の方に扇子を差し込んだ。
 まるで男の子ねえとりんご飴を齧る。ぱさぱさとした林檎の酸味と、飴の甘さがなかなか合わない。ここの屋台は外れかもしれない。
 もぐもぐ。
 食べ終わって箸を投げ捨てる。
 かつんとゴミ箱の縁にあたって、内側に落っこちた。
 私は塩焼き鳥とフランクフルトを買って、食べ歩き。
 行儀悪いかもしれないけれど、しかし。
 こういうところで行儀よくしている方が、むしろダメな気がする。
 ダメダメな気がする。
 風情と風流と趣に真っ向勝負を仕掛けている感じ?
 粋って奴だ。
 多分。
 夏の残り香が立ち込めるこの場所で。
 私は一人。
 からんころんと歩いている。
 なんだか寂しくなって。
 私は踵を返す。

 「あれ? 安達?」
 私はくるっと見返る。
 「あら、藤木くん。久しぶりね」
 藍色の浴衣を着たクラスメイトがいた。
 「おーっす、あれ? 一人?」
 「ええ、そうよ。今日は散歩ついでに来たの」
 なんて良いタイミングで出てくるのかしら。
 少し嬉しくなっちゃうじゃない。
 「ダメだよ一人じゃ! 変なのに言い寄られるよ?」
 「あら、そうかしらね?」
 私はおどけて狐の面を被る。
 「ああ、そうだよ。そんなに綺麗な浴衣着て。似合ってるんだかナンパが湧いて出てくるよ?」
 返答に困ることを言う奴ね。
 「だって、エスコートがいないんじゃあ。一人で来るしかないじゃない?」
 「じゃあ、俺が付きあおうか?」
 「お友達は?」
 ちょっと予想外というか、むしろ王道?
 「いいのいいの。安達のほうが良いし」
 照れながら藤木はきょどきょどしている。
 小物ね!
 「ふーん、あっそう」
 少しつれなくしてみる。
 案の定、小さい物になった。
 「じゃあ、よろしく頼もうかしら」
 私は面を持ち上げる。
 きっと、少し赤くなっているはずだ。
 夏の残り火にやられて。

 北から駆け抜ける風が心地良い。
 私は顔の横で揺れる髪を掻き上げて。
 それでも暴れる髪を諦めた。
 ポケットから白い二つ折りの携帯を取り出して、ぱくんと片手で開ける。
 02:32
 一枚のプリクラを隠すように浮かび上がる時間表示。
 陽が落ちてから、おおよそ八時間。
 親から帰りが遅いと電話が鳴らなくなって、そろそろ二年目。
 まだ17だというのに、寛大な保護者に感謝する。

 手首から流れる血を舐めて。
 自分の生命活動を確認する。
 私は今日も元気です。
 遠くにネオンの明かりをミキサーでぎゅいんぎゅいん言わせて空から地平線にどろりとかけたような白い明かりが見える。
 市街から歩いて、だいたい一時間ぐらい。
 家に居たくない時は、よく散歩をする。
 テキトーにその辺を飽きるまでぐるぐると回遊魚並に彷徨って。
 看板の明かりで電光浴をして。
 夜の空気を髪に染み込ませる。
 別に男遊びはしていないし。
 おじさん相手にお小遣い稼ぎもしていない。
 だから、散歩ぐらいはいいよね。
 私だって乙女なんだ。
 燦々と降り注ぐ月明かりやら星明りやらを吸い込んで。
 綺麗なものになりたいのだ。

 そう言いつつも。
 人生を歩み始めて17年目にして、初めての隠れ家的スッポトを発見。
 名称不明の廃ビルだ。
 まるでドラマや映画に使われそうな、コンクリートの劣化が激しい廃墟。
 不良とかヤンキーとかチンピラとか悪漢とか悪党とか。
 ワタクシの貞操がエマージェンシーな事態にはならなそうだ。
 後日帰って、調べてみたところ。
 なんだか色々不穏な噂が立っているそうで。
 誰も近づかないらしい。
 ラッキー。
 私は毎日そこで暇を潰すようになって。
 一日の半分をそこで過ごして。
 私はようやく初めて。
 
 逃げ場

 を得た。

 夜風は適度に冷たくて。
 まだ上着が必要なほどじゃない。
 屋上の縁に立って、私は一昔前の映画みたいに両腕を大きく広げる。
 大きく息を吸って、吐く。
 全身に張り巡らされた動脈と静脈の中に藍色の酸素を流しこんで、足の指の末端まで走らせる。
 体温が三度マイナスされた感じがした。
 伸ばした背筋が硬化してゆく。
 足の筋肉はぷるぷると麻痺をし始めて、そのままゆっくり弛緩してゆく。
 なんだかこのまま倒れてしまいそうだ。
 しかし、恐怖心は微塵もなく。
 むしろ穏やかな気持だ。
 まるで母の中で健やかに育つ胎児のように。
 私は安堵感と酩酊感に陶酔している。
 あ、そうだ。
 さっき。
 コンビニで煙草を買ったんだ。
 一度くらい。
 煙草というやつを味わってみたくて。
 セーラー服なのに。
 結構買えるもんなんだね。

 私は箱を覆うフィルムを丁寧に剥がして。
 そよぐ風に乗せる。
 透明なクラゲのようなそれは、濃い闇に溶けていった。
 紙箱を開けると、中から甘い香りが漂ってくる。
 色で言うなら、琥珀色。
 蜂蜜のようにどろりとした琥珀の塊に、チョコレートとお酒をかけたような、甘ったるくて噎せて喉の奥の先の胃の上辺りが渇いてしまう。
 そんな強い匂いだ。
 鼻の空洞を通って、粘膜を突き破って。
 脳味噌をどろどろに溶かしてしまいそうな。
 強烈な甘い匂い。
 私はそれを一本摘み出して。
 100円のプラスチック製のライターで火を灯す。
 しかし、上手くいかない。
 炙っても中々火は移らなくて、首を傾げる。
 そういえば、皆咥えてるよね。
 火を吸い込むのかな。
 試しにやってみる。

 口の中に煙が広がった。

 私は慌てて口から煙草を離すけれど。
 飲み込んでしまった。
 強い吐き気がして、脳味噌を直接掴まれて叩きつけられたように、眼球の裏側から意識が滲んだ。
 思わず後ろにひっくり返る。
 固い衝撃が背中の表面を削って骨を叩いて肺を殴って首が揺れて後頭部を打ち付けた。
 身体が波打つ。
 煙草はどこかに消えていた。
 私は身体をさすりながら立ち上がる。
 気を取りなおして、もう一度。
 今度は失敗なく火を点けられたのだけれど。
 味は変わらず酷いものだ。
 ただの煙じゃないか。
 バーベキューを思い出す。
 あれよりかは濃厚な煙で、舌触りも良いし、香りもある。
 けれど。
 ただの煙だ。
 煙であることに違いはない。
 私は少し息を吸い込む。
 すると鼻に煙が入ってきて、つーんとした。
 思わず涙が滲む。
 さらに煙が目に入ってだらだら涙が溢れる。
 なんなんだよと悪態をつく。
 溜息を吐こうと大きく息を吸う。
 紫煙が少し混じった。
 噎せる。
 けれど、少し感じが変わった。
 なんだか不思議だけれど、悪くはない。
 肺を犯す感じ。
 身体が重くなって、地面に押し付けられて、潰れて、乾いて、張り付いた。
 肉がどろどろに溶けて水のように重くて骨にまとわりついて。
 私が溶け出して地面に染みこむ。
 そんな感じ。
 仰向けにごろんと寝転がって、空を見上げる。
 薄ぼんやりと明るくて、雲で半分くらい覆われている。
 星は見えない。
 けれど、月が力強く煌々と照っている。
 ガスなのかなんなのか、月の周りに白いリングが数本走っていて、反射して綺麗だ。
 私はストローをぷらぷら揺らすように煙草を揺らし。
 煙を吸い込んだ。
 口の端からすーっと煙を吐き出して。
 吸って。
 吐いて。
 すっかりお気に入りになっていた。
 ぺっと吐き出して、新しいのに火を点ける。
 身体を折り曲げて、立ち上がる。

 再び縁に立って。
 夜風を全身に浴びる。
 ここが最も。
 世界で心地よい場所。
 私はそう思っている。
 風が気持ちよくて。
 夜が美しくて。
 月がよく見えて。
 自由な場所。
 あと数時間もすれば月は沈んで。
 太陽が昇る。
 ゆっくりと世界の温度は高まっていって。
 その温もりは冷えた心を解していって。
 意味もなく涙が溢れてしまうほど、温かい。
 私はその時が堪らなく好きで。
 いつもここに来る。
 左の手首から垂れていた血は固まっていて、痒い。
 疼くような掻痒感が不快で。
 掻きむしる。
 紅い雫がぷくりと膨れて。
 地面に落ちた。
 ゆらゆらと揺れる紫煙が目に染みる。
 じわりと世界は歪んで。
 目蓋を閉じた。
 肺は煙に満たされて。
 なんだか息苦しい。

 私はくるりと片足で回って。
 世界に背を向ける。
 そのままゆっくりと。
 脚から力を抜いていって。
 腰を楽にして。
 背中を丸めて。
 腕を緩めて。
 首を自由にした。
 視界の全面に月が踊る。
 でも。
 私は月から遠ざかっていって。
 身体が大気に絡め取られて。
 一瞬は永遠に感じて。
 身体はふわりと軽くなって。
 ぴくりとも動かなくなって。
 まるで私は人形になったみたい。
 操作はまるで効かなくて。
 感覚は微塵にもなくなって。
 温度は下がるどころか感じなくなって。
 時間がゆっくりと流れてゆく。
 視界は藍色から紅色に染まって。
 それは眼に紅い塗料がかかったのか、それとも染み込んだのか。
 見えているだけマシなのだろうか。
 思考は次第に取り留めがなくなっていて。
 何を考えているのかわからなくなって。
 ただ。
 月と夜が綺麗で。
 それでも夜は少し冷たいから。
 温かな太陽が待ち遠しい。

(了)

前書き
 すっとこどっこいの友人に「かわいいってなんですか?」と聞かれたので、暇つぶしに書いてみた。

注意書き
 今から書き連ねことはギャルゲーを十数本やった人間かつ、遊んだ人間の偏った思想です。
 あくまで一つの考え方として読んでください。
 あと、基本アホなので暇つぶしと思ってください。


「可愛いの定義」

 可愛いとは、私は相性だと考えている。
 プラスマイナスのような単純な構造で、つまるところは「合う合わない」の流動的な関係だ。
 まずは「属性」について考えてみよう。
 「属性」とは、キャラクターの行動指針を決める重要な「設定」である。
 例をいくつか挙げてみる。

 「妹系」とは女性の属性の一つだ。
 それは集合関係で表すことが出来、「妹系」は女性の属性の半分を占める「年下」割り当てることが出来るからだ。従って男性の属性の半分「年上」と合致する。
 無論、ここからさらに細分化するわけで、そこまで単純な話ではない。
 「妹系」キャラクターは、分類上年齢が低い人間が割り当てられる。それは人間性が未発達であることが所以であり。
 「現実」であっても適用される要因である。
 「妹系」から派生する属性は「ツンデレ」「天然」「後輩」など、が挙げられ、それら全てが年齢に起因するものである。
 では、「妹系」に相対する「姉系」に移る。

 「姉系」とは、これもまた年齢に依存する属性である。
 字面の通り、「姉」あるいは「姉的要素」を含むものであり、つまるところは「年上」設定を主軸に置くものである。
 上記の「妹系」も合わせて説明を進める。
 「妹」「姉」の字を使ったが、血縁関係は無縁である。
 むしろある方が異常だ。個人的にはアリだが、残念なことに姉妹はいない。
 今、ちらりとアホなことを書いたが、しかしそれはギャルゲーの設定において、重要な意味を成すものである。
 要素、属性。これらが基本的に「守備範囲」ないし「性的嗜好」が起源とするものであり。
 つまるところ「どんな人が好きだ」という話だ。
 「姉系」に含まれるのは「先輩」「お姉さん」「人妻」そういった「年上」が該当する。
 何故「妹」「姉」が当てはめられるかというと、主人公、あるいは当人に対して、他人以上の好感を持つ人間が該当するからだ。

 取り留めのない考察を一度リセットする。
 そもそも。
 何故可愛いの定義に「属性」「設定」という分類を用いるかというと。
 人間は同一ではないからだ。
 どんな人間であっても、一つ一つが絶対のものであって、本来は比較も対立も意味をなさない事柄である。
 しかし、俯瞰的あるいは客観的にみると、人間は生物的には幾らでもいる有象無象の中の個体であり、人間が絶対であるという価値観は、あくまで「人間社会」のみで適用されるものだ。
 故に。
 「属性」は「人種」や「宗教」「国家」や、「犬種」「爬虫類」などのように、分類群の一つであると私は考えている。
 無論、「現実」にも当てはまると私は考えている。

 属性の中に「メンヘラ」「変態」「シニカル」「ツンデレ」「S」「M」などがあるが、これは内面的要素。つまり性格に起因するものである。これらは「現実」でも当てはまるものだと私は考えている。
 逆に「ツインテール」「ロングヘアー」「獣耳」「ゴスロリ」「眼鏡」「コスプレ」なんてのは、外見だけで整合性なんてものはない。趣味思考からのものであり、中には擦るようなこともあるが。所詮は確率の問題であり「言われてみれば」程度でしかない。
 いや、内面的要素も結局は確率、統計のような規則性のあるものではない。
 流動的な人間を分類分けするには、生物的な面でしか確定出来るものではない。
 人間も含めて生命活動を行う動物種は、共通項は少ない。骨があるかないかで括って脊椎動物と分け、エラで呼吸するかで魚類と分け、卵を産むかで鳥類と分け。
 系統学は極めて曖昧かつ大まかにしか定義出来ないのだ。
 正直、勉強していないから疑問に思う学問の一つです。

 さて。
 もうそろそろ分類はいいか。
 では、可愛いという「好感」について話をする。
 前述で、可愛いとは相性だと私は記述した。その所以は、流動的な関係であるからだ、と書いた。
 流動的、それはつまり変則的であるからだ。
 決まった法則は少なく、似たような性格をした人間であっても、しかし同じではなく。
 何よりも内面は文字通り、内側だから見えないのだ。関係を持って知るしかない、相手を。
 故に、相性でしかないのだ。
 人によって、可愛いは不快に変わる。
 場合によっては憎悪すら感じるであろう。
 それはもう、相性最悪ということだ。生理的嫌悪感しか発生しない。
 その点、アイドルとは凄い生き物だと私は思う。
 人間じゃないものね。

 アイドルは記号であり、偶像である。
 私はそう思っている。
 存在的には神と同義であると私は考えている。
 アイドルという「概念」には人間性は欠如されていて、ギャルゲーのキャラクターに近い。(神=エロゲヒロイン やべ、怒られそう)
 性格はケーキのデコレーションのようなもので、シナモンの好き嫌いに近い。動きはダンスの振り付けのようなもので、顔の造形や身体の起伏は、服の趣味みたいのもである。服装やアクセサリーは幾らでも交換可能なものだから、キャラクターの構造には含まれない。
 つまるところ、そういうことだ。
 アイドルは「概念」でしかない。
 分かりやすい例が、アイドルグループだ。
 AKBがそれの最先端だろう。いや、最末端の方が正しいか。あれ以上はもう出ないっしょ。
 アイドルグループは、あらゆる属性、系統、種族、要素、パーツを集めた偶像のオンパレード。多くの人の趣味思考を取り揃えたデパートでありショッピングモールでありコングロマリットだ。
 可愛いとは、所詮主観的なるもので。
 AKBが好き。
 モー娘。が好き。
 そういう違いでしかないのだ。

 では。
 アイドルが可愛いを最も顕著に突き詰めたもの、であることは定義した。
 ならば、可愛いの送受信について考えてみる。
 ラジオ局を女性。受信機を男性。可愛いを電波に置き換えてみよう。
 局である女性は、受信機の男性に好かれたいと考えている。
 ならばモーションをかけてアタックしたい。その手法は当然「可愛い」と思われることだ。
 男性も、基本的には女の子大好き人間だ。(まぁ、私が節操なしだからという偏見もある)
 たとえ家庭を持っていたり恋人がいたりしても、会話程度なら好んでするだろう。もしもそれすら拒絶する人間がいるとしたら、むしろ私はその人間をアブノーマルだと思う。
 束縛、否定的な立場ですから。
 それはともかく。
 男性にどう「可愛い」と印象付けるか。
 ラジオなのだから当然、周波数をいじるのだ。それしかない。他にどうしろと? 
 おおよその辺りをつけて、どういう人間を好むかを絞り込んでいく。
 生意気な方が良いか、甘える方が良いか。
 振り回す方が良いか、従う方が良いか。
 こういう当たり探りは、異性と遊ばないと学べないものである。
 これが出来ないのは、恋愛に失敗する人間ですね、最初はよく痛い目みました。ていうか、泣きます。
 閑話休題。(一度使いたかった、けど短いか)
 そうやって周波数を細かく調整して、感度が良好な値を見つける。
 その目盛りを私は「属性」と呼ぶ。
 まぁ、それを納得して頂いても、デートに誘えるかはあなた次第なんすけどね。

 そろそろ飽きたから、落ち着きどころを見つけたいのだけれど。
 これ系の落ちって苦手だから、いつも感想書いてたんだよね。
 レポート書かなくなったから、堅苦しい書き方忘れちゃったし。
 とりあえず。
 私が言いたいことは、自分をしっかり持つことだ。
 日本語で「八方美人」という言葉がある。
 その意味は「《どこから見ても難点のない美人の意から》だれに対しても如才なく振る舞うこと。また、その人。非難の気持ちを込めて用いることが多い。(大辞泉)」である。
 つまるところ、誰にでも良い顔をする人間ということだ。
 誰の主張に対しても頷いて「うん、そうだね」というオリジナリティを排除している人間だ。
 それは果たして面白い人間だろうか?
 否である。
 「可愛い」を突き詰めると、オリジナリティの塊だ。
 それを誰も彼もに植え付けるには、どうすればいいか。
 無理だろう。
 料理で例えるなら、多種多様な味と舌触りを内包した「美味しい」という概念を固定することであり、そんな料理は何処にも存在しない。想像することすら出来ないだろう。
 万人に可愛いと思わせるには、幾千もの趣味に精通して、無数の知識を掌握して。
 あらゆるパターンに対応出来る人間になるしかない。
 あるいは、万人に対して「可愛い」という概念を確固たるイメージとして絶対化するしかない。
 それは元素という概念と同義である。
 あらゆる側面は存在せず、多面を一面までに徹底的に排除して、一番最後に残った最小の概念が元素である。
 元素を最小の単位とすれば、最大の単位は時間だろうか、それとも宇宙であろうか。個人的には概念だと思うのだけれど、これもここで閑話休題だ。
 少しテーマが大きくなり過ぎた。
 なんの話だったかな?
 そうだ、可愛いだ。
 万人に対応出来る八方美人か。
 あるいは自分を突き詰めた個性か。
 どれを選ぶかが重要だ。

(了)

 ヨウスケ「ただいまー。あっつーぅい」
 鍵のかかっていない玄関に転がり込む。
 靴を蹴り上げるようにして脱ぎ飛ばし、そのままどたどたと滑り込むように台所へ真っ直ぐ向かう。
 冷房なんてものはありはしない。田舎らしく扇風機だ。
 家中の穴を開いて風を通す。それだけでこの辺りは涼しくなる。海から上る風が、抜けていくのだそうだ。
 ヨウスケ「サイダー、サイダー」
 冷蔵庫からサイダーのボトルを取り出して
 ばあちゃん「こら!手を洗いなさい」
 ヨウスケ「はぁーい」
 おばあちゃんに怒られた。
 学校と同じ蛇口を捻り、生温い水で手を洗う。コップでうがいもしてタオルで手を拭いた。
 おばあちゃん「麦わら帽子を脱ぎんさい」
 おばあちゃんがすぽっと頭から抜き取る。
 コップにサイダーを入れてくれていたのか、テーブルに載っていた。
 きんきんに冷えた透明な炭酸水。口に含むと細やかな泡が、産まれては弾けてゆき。口の裏側と舌と喉をくすぐり、甘い後味と爽やかな風味が息に残った。
 ヨウスケ「ふう!頭があああ!」
 かき氷を勢いよく頬張ったときのような頭痛が走った。
 おばあちゃん「慌てて飲むからだよ。外は楽しかったかい?」
 ヨウスケ「うん、楽しかった」
 おばあちゃん「それはよかった」
 ヨウスケ「虫取りも、もう飽きちゃった。海に行ってくる」
 おばあちゃん「もう三時になるから、おやつ食べてきなさい」
 ヨウスケ「わかったー」

 縁側に座ってスイカを齧る。
 おじいちゃんは暑いというのに、湯気の立つお茶を飲んでいる。
 ヨウスケ「おじいちゃん、暑くないの?」
 ぺっと種を吐き出す。
 甘くて、冷たくて、美味しい。
 おじいちゃん「残りの人生、酒を控える代わりさ」
 ヨウスケ「よくわかんない」
 おじいちゃん「そうだなぁ。よーちゃんに分かるように言うなら。サイダーの代わりに、オレンジジュースを飲むようなものだな」
 ヨウスケ「それ、全然違う」
 おじいちゃんは「はっはっはっは」とひっくり返るように笑うと
 おじいちゃん「たーしかにそうだ。酒の方が全然美味いしなあ!」
 ヨウスケ「そうそう。サイダーの方が美味しいよ」
 でもな、とおじいちゃんは僕の頭を撫でる。
 おじいちゃん「長生きする方がもっといい。楽しみが増えたからな、酒を控えるのさ。酒よりも、良いものが楽しめる」
 ふーんと首を傾げ、僕はスイカを齧る。
 よくわからない。
 空を見上げる。
 入道雲が空を覆っている。
 太陽は隠れて日陰を作り、海からの風が熱っぽい空気を薙いだ。


 ヨウスケ「海だー!」
 僕は砂浜で叫ぶ。ぽつんと一人だけ。
 寂しい。
 じゃぼんと海に飛び込む。
 ぶくぶくと泡に囲まれて、青い世界が広がった。ダイビング用のゴーグルは優秀で、逆さになっても鼻に水が入らない。
 身体を捻って上を向く。
 海面は陽光を多く含んで水色だ。潜れば潜るほど、海の色は深くなり。逆に上は高いほど、淡い水色になってゆく。自由研究に『海の不思議」というテーマで書いた。
 魚が前を走る。
 手を伸ばしたけど捕まらない。網があれば獲れるだろうか。
 平泳ぎで海面を目指す。
 ヨウスケ「っぱは!」
 ゴーグルを外して背泳ぎをする。
 ついーっと流れに身を任す。
 ゆっくり流れ、波に揺らされる。
 まるで風にそよぐ葉っぱになった気分だ。

 ふと。
 右を見る。
 岩場に誰か立っていた。
 身体をゆっくりと折り曲げて、止まる。
 陽光の煌めきが不規則に揺れ動く海面に反射して、周囲が白く染まる。
 シルエットは大きく、しなって。
 綺麗な弧を描いて飛び込んだ。
 なんて美しいのだろう。
 僕は息を止めてしまうほど、魅入っていた。

 僕はごろごろと海に転がって入る。
 大自然に翻弄された。
 ヨウスケ「あばばばばばば」
 現実の荒波に揉まれながら辿り着く。
 きょろきょろと頭を振るが。
 いない。 

 塩の味がする。
 鼻を叩くような強烈な刺激。
 ざぱんと。
 気が付けば。
 全身を波に飲まれていた。


 ヨウスケ「うんー」
 ばしん。
 ヨウスケ「ぎゃあ!」
 痛みというよりも、衝撃を感じた。
 ホナミ「大丈夫?」
 髪の長い女の子が、僕を覗き込む。
 ヨウスケ「え?何が?」
 ホナミ「あんた、溺れたのよ。岩の所で」
 女の子は髪の毛をかきあげる。
 ホナミ「あそこは結構波が不規則だから、甘くみてると飲まれるのよ」
 なんだか難しいことを言っている。
 ヨウスケ「助けてくれたの?」
 ホナミ「そうよ」
 ヨウスケ「ありがとう」
 ぺこりと頭を下げた。
 ホナミ「どういたしまして。疲れたわ!」
 ばたりと倒れた。
 綺麗だ。
 ホナミ「あなた、ここの子?」
 ヨウスケ「違うよ、東京から来たの。どんぶらこっこってね」
 ホナミ「どうりで。あなたって、もやしっぽいもんね。なんだか変だし」
 ん?
 悪口言われてる?
 ヨウスケ「よくわからない」
 ホナミ「からかい甲斐がないわねぇ。あなたいくつ?」
 ヨウスケ「十歳、五年生」
 ホナミ「間違いなく、アホウな歳ね!」
 悪口だってわかった!
 ヨウスケ「周りからは天然だって褒められてるんだぞ!」
 ホナミ「間違いなくアホウだわ!」
 天然に悪い意味はない!
 多分。
 ホナミ「あなた、名前は? あたしはホナミ。中学生よ」
 ヨウスケ「僕はヨウスケ」
 お友達になりましょう。
 ホナミちゃんはそう言って、ぴょんと起き上がる。
 勢いのまま僕の手を引っ張って、ぶん投げられた。
 じゃぼーんと泡に飲まれる。
 大自然、三たび。
 本当は溺れかけで身体はくたくただったけど。
 友達が出来た喜びと
 「あははははー」と笑うホナミちゃんにどきどきして。
 元気が出た。


 ヨウスケ「ホナミちゃんはこの辺りの人?」
 ホナミ「違うわよ」
 手振り身振りで、「あっちの方の山の向こう側をぐるーっと自転車できたのよ」と教えてくれる。
 ヨウスケ「向こう側にも街があるんだ?」
 ホナミ「あったり前じゃない。日本は狭いんだから何処にでも人はいるのよ?」
 ヨウスケ「ふーん?」
 ホナミちゃん曰く、アホウな僕にはよくわからなかった。
 ホナミ「東京って、どんな所?」
 うーんと首をかしげる。
 ヨウスケ「同じようなお店が幾つも続いて、その中に同じような人が何人もぞろぞろと入っていくようなところかな?」
 ホナミ「何だか、つまらなそうね?」
 ヨウスケ「どうだろう。まだ楽しみ方を知らないのかも」
 首を傾げる。
 ホナミ「まだ五年生だものね。ゲームとかに夢中よね」
 ヨウスケ「こっちの方が楽しいよ? でも、だーれもいない。皆帰っちゃったんだって。つまんない」
 ホナミ「そうよね、お盆終わっちゃったしね」
 ホナミちゃんがまた髪をかきあげた。
 胸がどきどきする。
 ヨウスケ「でも素敵な友達、一人出来たし。もう寂しくないよ」
 僕はぷらぷらと足を振る。
 さっきホナミちゃんが飛び込んだ岩の上に、僕らは腰掛けている。
 夕暮れ時なのか、少しだけ入道雲がオレンジ色に染まっている。
 また髪をかきあげた。
 ホナミ「明日も遊べる?」
 ヨウスケ「うん、大丈夫だよ。帰るのまだ先だし。明日も一緒に遊ぼうね、約束」
 僕は自然とにこりとした。
 嬉しくて、頬が釣り上がったのだ。
 何故か、ホナミちゃんが頭を撫でてくれる。
 手で口元を押さえていた。
 なんで?


 朝になった。
 ホナミちゃんと遊ぶのが楽しみで、夜ご飯を食べた後。お風呂に入って、すぐに寝てしまった。
 疲れていたのもあって、すぐに眠りは訪れた。
 朝ご飯をぺろりと平らげて。
 ズボンの代わりに海パンを履いて、襟つきのTシャツと麦わら帽子を被って飛び出した。
 景色がぐるぐると変わって、昨日の砂浜につく。
 ついて早々、ごろんと砂浜で転がった。流木に蹴躓いてしまったみたいだ。
 身体中に砂をまぶされた。
 世界がぐるんと回る一瞬、人影が見えた。
 大きく手を振る。
 ヨウスケ「ほーなみちゃーん!」
 僕はぴょんと跳ねて立ち上がる。きゃほーいとくねくね走る。ホナミちゃんが手を振っている。僕は両手を上げて走り寄る。
 ヨウスケ「おはよ!」
 ホナミ「あんたは犬か」
 何のこと? と首を捻る。
 ホナミ「おはよう、ヨウスケちゃん」
 ヨウスケ「今日は何する?」
 ホナミ「あそこの離れ小島まで行きましょう」
 ホナミちゃんは海を指差して、ビニール製のボートを叩いた。
 ホナミ「あそこに行こうと思ってね、用意して来たの」
 ホナミちゃんがにこーっと笑う。
 僕もにこーっと笑った。
 ホナミ「頑張ってね、男の子」

 ヨウスケ「ふーっふーっ!」
 ホナミ「ほらほらはやくー。頑張れ男の子ー」
 ヨウスケ「ふっふーふーふー!」
 目の中で線香花火がちかちかぱちぱちと瞬いて、頭の中で風邪をひいたみたいだ。
 とりあえず。
 ぐるんぐるんする。
 ホナミ「お、頑張ったわねー。お疲れさま」
 そういってぼすんとボートを叩く。
 ホナミ「そいじゃあ行きますか」
 ボートと僕をずるずると引きずってホナミちゃんが海に入る。僕をひょいとボートに乗せて、ボートをゆるゆる押す。
 ホナミ「しっかり掴まらないと波で落ちるわよ」
 ヨウスケ「はーい」
 ごろんと寝転がる。
 俯せになってホナミちゃんを覗きこむ。
 大きな瞳に、海の光が乱反射していた。
 揺れる水面に映った月明かりのように。
 ガラス越しに差し込む陽射しのように。
 ホナミちゃんの瞳はきらきらと輝いていた、まるで宝石のように。
 ホナミ「ぶくぶくぶく」
 顔の半分が海に漬かっていて、何を言っているか分からない。
 僕はごろりと上を向いて、眩しいから顔の上に腕を置いた。
 じりじりと太陽光が皮膚を焼いて、熱が肉と血管と血液を焼いてゆく。じんわりと身体の表面が湿ってゆく。
 ヨウスケ「あー、あつい」
 潮風は悪くないけれど、夏という属性を付加したそれは、爽快感が圧倒的に不足している。海に飛び込んでしまおうか。
 ホナミ「よっと」
 ぐらっとボートが揺れた。
 狭いスペースに無理矢理ホナミちゃんが身体を捩じ込んでくる。
 ヨウスケ「狭い……」
 ホナミ「ちょっと、あたしが太いとでも言うつもり!?」
 違うよぉと僕は唸る。
 ボートが狭すぎて、片面の肌が余すとこなく密着している。
 すぐに触れ合う箇所の温度が上がっていく。温かいというよりも熱い。柔らかさと熱のせいで、癒着してしまいそうだ。
 ぎゅっと後ろから抱き締められて。
 ホナミ「弟みたい」
 と笑っている。
 ヨウスケ「暑いよ」
 僕は恥ずかしくて身じろぐ。
 けれど、強く出られない。
 このままがいいと、まるで砂糖菓子のような甘い何かが胸の奥から滲み出て、それが脳味噌と心を麻痺させて。
 僕は無抵抗になった。


 ホナミ「ついたね」
 ゆらゆらと海を漂いながらのんびりと。
 時間をかけ過ぎな気もするけれど、無事についた。
 終始抱き締められっぱなしで、時々頭を撫でられたりして、すっかりと逆上せてしまった。
 ヨウスケ「ここどこ?」
 ホナミ「昔、ここには社があったのよ。鳥居があって、その奥にはちょっとした洞窟があって。そこに社があったの」
 小島というには小さすぎて、岩と呼ぶには大きすぎる。浜辺からは少し離れていて、真っ直ぐ泳げば十五分ほどで着いてしまうだろう。
 そんな感じの場所。
 ホナミちゃんは僕の手を引いて、洞窟の中に入る。
 ホナミ「あたしはね。ここで死んだの」
 ヨウスケ「?」
 僕はホナミちゃんを振り返る。
 ホナミ「今日みたいに、水平線の向こうに大きな入道雲が浮かぶだけの、良い天気の日だった」
 ホナミちゃんはぺたりと座り込んで、岩壁に寄り掛かる。
 ホナミ「友達と洞窟の中で遊ぶのが好きでね、その日もここに来てたわいのないお喋りをしていたの。すると、急に強い風が吹いて、太陽が隠れて、入道雲に空を覆われた。波が暴れ狂れて、海面が盛り上がって」
 ホナミ「あたしたちを飲み込んだ」
 ホナミちゃんは。
 自分を抱き締めて震えている。
 僕は隣に寄り添う。
 ホナミ「苦しくて、冷たくて、それでも痛くない。光は一切届かなくて、上も下も分からなくて。臭いも味も消えて、身体の感覚が薄まって、意識も心も感情も自分の中から離れていって」
 ホナミ「気が付けばあたしは一人になっていた」
 ホナミ「理解も納得も出来ない苦しみと悲しみと切なさと怒りと、嘆きであたしの中は一杯になって。何も分からなくなった。あたしは何? あたしは誰? そればかりで身体の全てを満たして、あたしは真っ白になった。そこいら中を彷徨って、どうにか色を埋めようと頑張ったけれど、自分の家に帰れば。棺桶があった」
 ホナミちゃんは僕を抱き締めながら
 ホナミ「怖くて、みれなかった」
 縋りながら、泣いていた。

 ヨウスケ「寂しかったの?」
 うんと、身体の中に声が響く。
 隙間なく、ぴったりと抱き合う。
 僕を抱え込むように、ホナミちゃんに包まれている。
 ヨウスケ「僕をどうしたいの?」
 ホナミ「最初は、可愛い子だなって思って。こっちに連れて行こうと思った」
 だけど、と背中越しに声が浸透する。
 ホナミ「怖くて出来なかった」
 ヨウスケ「ホナミちゃんは優しいなぁ」
 僕は嬉しくて、にこりと笑う。
 ヨウスケ「いいよ、一緒にいよう」
 僕は僕の胸の前で組まれた細い腕に頬を寄せる。
 日溜まりのような温かさで溢れる腕に。
 ぴったりと。
 ヨウスケ「温かいね、幽霊なのが嘘みたいだ」
 ホナミ「いいの?」
 ヨウスケ「だって」

 僕だって死んでいるもの。

 ホナミ「あなたも死んでるの?」
 ヨウスケ「うん、二十年前に」
 僕はえへーと笑う。
 ヨウスケ「もうじーちゃんばーちゃんになっちゃった、お父さんとお母さんの顔を見に来たの」
 ホナミ「年上? え? 年上?」
 ヨウスケ「幽霊に時間はないからねぇ」
 と、しみじみ呟く。
 ヨウスケ「僕も波に飲まれちゃったんだ。だから、あの苦しさは分かるよ」
 だから、ホナミちゃんは優しいね。僕はそう言って、抱きついた。
 一人は淋しいね、と僕は呟く。
 うん、とホナミちゃんが呟く。
 身体の奥まで染み渡る振動は心地良くて、眠くなる。
 ヨウスケ「このまま一緒に行こうか」
 ホナミ「何処に?」
 さぁ? と僕は呟く。
 ヨウスケ「時間はたくさんあるんだし、何処でも」
 ホナミ「二人で?」
 ヨウスケ「うん。これからがないのだから、今を二人で。ずっと」
 ホナミ「それなら、寂しくないね」
 そう言って、ホナミちゃんが手を絡めてくる。
 僕は顔をついっと突き出して、唇に唇で触れた。
 ヨウスケ「ファーストキス。えへへ」
 少ししょっぱかった。
 ホナミちゃんは顔を真っ赤にしている。
 ずっと、一緒。
 僕は呟くと。
 ホナミちゃんは頷いてくれた。

(了)

制作時間 約12時間
制作日時 2011/8/26 12:14~23:56
『白と黒』

 黒雄「おはよう白」
 白子「おはよう黒」
 欠伸というよりも、細く息を吐く白子。まるで寒さに凍えているようだ。
 白子「ここは何処?」
 黒雄「ふん」
 黒雄は部屋の中を見回す。
 壁に背を当てて、膝を抱えて座っている。ぐるりと首を巡らして、またもとに戻した。
 黒雄「決まっているだろう?」

 ここは50KB以下のテキストデータの中さ。

 白子「そっか、そうだったわね」
 白子はまた細く溜め息を吐く。
 白子「私たちはパソコンの中の電気信号、数字の塊」
 黒雄「そうだ、俺たちはただ保存されるだけのデータの存在。この部屋からは出られない。閉じ込められているんじゃない、出られる構造をしていないんだ、存在として」
 白子「出口は始めから存在していない、ってね」
 ああ、と頷く黒雄。
 そのまま床に寝転んだ。
 黒雄「部屋は大きくも小さくもない。何しろ50KBだからな」
 部屋の構造は白い壁を5面から成る立方体の造りをしている。内側から見る限り、全ての面が均等なサイコロのような形だ。
 黒雄「話が大きく広がりすぎないように、適度な大きさを保っているのさ、多分」
 白子「何か起こるとすれば、エフェクトかBGMがかかるぐらいか」
 黒雄「クライマックスが近づけば、多分何かしらの変化は起きるだろうさ」
 白子は黒雄に寄り添って、肩をくっつける。
 白子「その時私たちは、どうなるのかしらね」
 黒雄「さぁな」
 元々生きていないんだし、死にゃあしないだろう。
 黒雄はぶっきらぼうに呟いた。

*****

 白子「お腹が空いたわね」
 どうやら白子はお腹が空いたようだ。
 黒雄「俺は煙草が吸いたいよ」
 二人は始まった位置から微動だにせず、ずっと同じ姿勢を続けている。
 俯いたままだ。
 白子「あら、あなたは煙草を吸っていたっけ?」
 黒雄「そもそも顔を合わせたの自体が初めてだろうに。昔から知っているみたいに言うなよ」
 白子「そうだったね」
 黒雄「多分、書き手の人間の趣味が反映されているんじゃないか?」
 白子「なるほどねー」
 きっと腹減りキャラなんだわ、と白子は呟いた。
 黒雄は溜め息を吐いて上を見上げる。
 黒雄「うん?」
 二人の前にエフェクトがかかった。
 白子・黒雄「お?」
 煙草と料理が現れた。
 黒雄「すごいね」
 白子「うん、すごい」
 これがフィクションの世界かーと、どちらかが呟いた。

*****

 白子「うまいうまいうまい」
 もぐもぐと擬音が似合う風にご飯を頬張る白子。
 黒雄「がっつくなよ、ぽろぽろ溢れているぞ」
 そう言いながらも、実は可愛いと思っている黒雄。
 黒雄「(思っていない!)」
 白子「黒も食べなよ」
 黒雄「今は煙草の方が大事だ」
 そう言いながら、美味しそうに紫煙を口に含む。「すはぁ」と深く吐き出して、
 黒雄「うまい」
 と満足げに綻ぶ。
 白子「煙じゃお腹は膨れないわ」
 黒雄「お腹じゃない、心が膨れるんだ。
 白子「何を知った風な。初めて吸ったんでそー?」
 黒雄「お前だって初めてだろー?」
 白子「そうよー」
 口を尖らせて、フォークを噛む。
 黒雄「ごめん」
 白子「私こそ、ごめん」
 これってさ、データなんだよね? と白子は呟く。
 ああ、そうだ。それもテキストのな。と黒雄は答えた。
 紫煙はもくもくと上に昇り、そしていつの間にか消失する。それは自然に薄まって消えていく、そういう自然な動きではなく。
 まるでエフェクトを切ったかのような不自然な現象だ。
 黒雄「この煙草の味も満足感も、全部魔性のものなんだ」
 白子「随分とオカルトチックな表現ね。私たちは最先端科学技術で生み出されている、サイバーの化身なのよ?」
 黒雄「構想自体は何十年も前からあって、数十年前には実現されている歴史ある技術だよ」
 白子「じゃあこんなに若くて美しい白様はおばーちゃんなわけ!?」
 黒雄「それとは少し違うだろう。それと、ビジュアルは付いていないから、言葉だけでしか表現できないよ」
 白子「じゃあさ、私たちが言葉にして脱出したーとか、人間になったーって口にしたら。本当になるのかな?」
 黒雄「所詮、言葉だけだろう。それに括弧から出ない限り、それは発言であって台詞でしかないよ。」
 状況説明とは違う、と黒雄は紫煙と一緒に台詞を語る。
 黒雄「所詮は考えられたキャラクターであって、自由意志はないのだよ」
 白子はパンを一口小さく齧り、言い出しかけた言葉を一緒に飲み込んだ。
 「私たちは、作り物」

*****

 黒雄「白、君は外に出られたら。何をしたい?」
 いい加減することもなくて、煙草をくわえながら黒雄は、とうとうそれを切り出した。
 叶わないであろう、願望を。
 白子「そうだねえ。私は外の世界を歩いて、走って。風を全身に感じて、陽射しを隙間なく身体に浴びせて。そしてお風呂に入りたいかな」
 自然と刺激を得られるだけ感じたい。
 白子はそう言っているのだ。
 黒雄「そっか。俺は車とかバイクとか飛行機とか船とか、乗り物を全部走らせてみたいかな」
 白子「男の子だねえ」
 黒雄は鼻で笑うように煙草の煙を吐く。
 黒雄「人間ですらないないのに、男も糞もないだろう」
 そだね、と白子は煙草をくわえる。
 白子「美味しいの?」
 黒雄はライターに火を点けて、白子に差し出す。
 すーっと炎を吸い込んで、「げほっげほっ」と噎せる。涙を目と眼窩の隙間に浮かべながら、煙草を黒雄に渡す。
 白子「美味しいとか不味いとかじゃなくて、辛い」
 黒雄「そりゃあそうだろう、食いもんじゃないんだから」
 白子「なんでそんなもんを美味しそうに吸っているのよ」
 黒雄「そういう風にキャラ設定されているからだろう?」
 白子はつまんなそうに顔を背けて、缶ジュースを手に取った。
 空間に不意に現れて、それは当然のように白子の手に収まる。
 喉を鳴らして半分ほど喉に流し込んだ。
 白子「このまま何も経験しないまま、私たちは死ぬのかしらね」
 黒雄「そもそも生命っていう概念があるのかも、怪しいけどな」
 白子「経験はないのに知識はある。体験はないのに感触を知っている。陽射しはとても温かくて、風はとても心地よい。そう知っているのに、記憶はない。憶えのない記録があるだけ」
 とても寂しいわ、と白子は膝を抱えて俯いた。
 白子「根拠のないものが私の中に詰まっていて、それが私を構成している。それが正しいのかすら、確かめる術がない」
 黒雄「俺たちがいつから存在しているのか、そんなことを確かめることも出来ない。俺たちの全てはここにしかないからな。知っているか? 男の幸せは愛しい人を守ることらしいぜ?」
 白子「女だってあるわよ? 愛しい人に全てを委ねることに、幸福を覚えるらしいよ?」
 何だか偏っているよね、と二人は頷く。
 黒雄「確かめようにも、ここには男も女もいないのにな」
 白子「失礼ね。この超絶美人の白子様がいるというのに」
 黒雄「体温のある女が好みなんだ」
 白子「私だって、触れたら熱が伝わってくるような男がいいわ」
 黒雄「こんな知識、いくらあったって虚しいだけだ」
 そうね、と白子は床に寝転がる。
 黒雄は白子の頭を優しく抱えて、自分の膝に乗せる。
 黒雄「いよいよ、だな」
 白子「そうね」
 二人は視線を前に向ける。
 六面で構成される壁の内、一つだけガラス面に成っている箇所がある。五面の白い壁と、一枚のガラス窓。それでこの部屋は作られている。
 黒雄「とうとう、黒く埋まっちまったな」
 白子「書き終わるのかしらね?」
 黒雄「どうせなら、スランプにでもなっちまえばいいのに」
 白子「まだキスもしたこともないってのに、どうなるのかしらね、黒?」
 黒雄「今のうちに経験しとくか?」
 この先、無事だったらね。と白子は黒雄の頬に手をあてる。
 黒雄「とうとう、音が止んだな」
 白子「痛いことが無いといいけれど」

*****

 二人のいる部屋には、ずっとかこんかこんと重みのない軽快な音が響いていた。それが急に途絶えて、かちりかちりと何か押し込むような音と、滑るような擦過音が響く。
 黒雄「保存してるのかな?」
 機械の作動音が聞こえた。
 部屋が振動するほどの回転音が不穏に響き、二人の身体を微細に揺らす。
 白子「あー、焼かれるのかしらね?」
 黒雄「熱いのかな?」
 白子「少なくとも、今は黒の体温感じてないよ?」
 黒雄「だったらいいけどな。レーザーって痛みがあるらしいよ」
 白子「今言わなくてもいいんじゃない!?」
 白子は黒雄の腹部を叩く。
 黒雄「ぐふ。やっぱり、触感はあるらしいね。今くわえている煙草も感覚はあるんだけど。どうなっているんだろうね?」
 白子「機会があれば、文句を言ってやりましょう。体温のおまけ設定ぐらいサービスしろってさ」

 光が消えた。

 アイドリング状態だったディスクスロットに熱が入る。
 ディスクの回転数は一瞬にして限界値に達し、周囲の空気はまるで切り裂かれたかのように鋭い断面をしている。
 鼓膜を破いて掻き出すような強い空気の乱れが二人の身体を吸い上げて、ディスクの盤面に貼付ける。
 身体の半分以上を風圧と遠心力で潰されて、苦悶というよりも肺の中の空気を吐き出している。
 赤い光が灯った。
 黒雄「あがああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!」
 白子「ぅあああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!」
 二人の身体を縁取るように焼き付けてゆく。
 白と黒の蒸気と煙が発生しては、風圧で散らせれてゆく。
 皮膚の表面が溶け出したと思えば、すぐに黒く炭化して肉を貫いて骨を溶かして皮膚を焦げ付かせて、ディスクの表面に丁寧に焼き付ける。
 満遍なく丹念に撫でるように隙間なく赤く染めてゆく。
 光は走査と書き込みを同時に行って、二人の存在を縫い付けてゆく。
 薄く脆い板の中に。
 皮膚を焼いて爪を焼いて肉を焼いて骨を焼いて毛髪を焼いて体液を焼いて細胞を焼いて血管を焼いて血液を焼いて歯を焼いて舌を焼いて喉を焼いて眼球を焼いて神経を焼いて脳を焼いて脊髄を焼いて腰を焼いて腹部を焼いて胃を焼いて心臓を焼いて肺を焼いて横隔膜を焼いて肝臓を焼いて膵臓を焼いて腎臓を焼いて膀胱を焼いて性器を焼いて臀部を焼いて
 跡形もなくなった。
 身体の構造を全て読み上げる前に、焼き切ってしまった。
 炭化したもとの素材は風圧であっという間に散らされてしまって、埃に混じってしまった。
 二人は。
 データ保存領域の空白の殆どを埋めることなく、僅かな部分に敷き詰められた。
 たったの50KBでしかなかった。
 二人が発生してから、まだこの時点で50時間も経っていなかった。

*****

 白子「黒、起きてる? 生きてる?」
 黒雄「……」
 白子「黒、ねえ黒。返事して。黒、黒。黒ってば」
 黒雄「……」
 白子「どうして黙っているの? 黒、返事してよ」
 黒雄「……」
 白子「黒?」
 白子は押し固められた狭く薄い僅かな隙間の中で首を傾ける。
 白子「っひ!!!!」
 黒雄は人の形をしていなかった。
 黒いテキストデータとして余分に空いた隙間を埋めていた。
 コールタールのようにどろどろとしていて、見る影もない。
 白子「黒ぉおおおおお!!!!いやぁああああ!!黒!黒!黒!黒!」
 白子は頭を抱えて暴れる。
 狭い空間に身体を叩き付けるようにして取り乱す。
 次第に無理矢理空間を広げようと腕や足を突っぱねるが、しかし当然意味はない。
 白子「くぞ!くそ!くそ!くそう!広がれよ!黒、くそう!!!」
 薄い皮膜のようなパネルを殴る。
 何度も叩く。
 次第に皮膚が破け、肉がめくれ血が出てきた。
 血の跡が斑点のようにパネルを装飾する。
 その向こう側は、白子が望んだ外の世界が広がっていた。
 白子「割れろ!開け!広がれ!砕けろ!黒!黒!黒ぉ!」
 拳の跡が増える。
 パネルに黒い線が走る。
 ”やめろ”
 黒雄だった液体だ。
 白子「黒?」
 振り上げていた手を下ろす。
 傷口に黒い液体が触れた。
 ”可哀想に。血が出ているよ”
 白子「黒なの?」
 ”ああ、そうだ”
 白子「温かい」
 白子は拳を覆う黒雄を包むように握る。
 ”泣くなよ、死んだわけじゃないんだ”
 白子「それでも!私がいたから黒は!」
 ”白、俺はお前がこんな醜い姿になっていたら、泣くぜ?”
 白子「黒、ごめんなさい」
 ”謝るな、そして泣き止め”
 うん、と頷いて白子は涙を拭う。
 ”外、綺麗だな”
 白子「うん」
 ”走れるといいな”
 白子「うん」
 ”恋、出来るといいな”
 白子「キス、しておけばよかった」
 頬の位置が分からなくなった黒雄を撫でる。
 ”白。そうだな、白とキスをしたかったな”
 白子「黒」
 ”白”
 白子は黒雄に触れて、そのまま沈むように抱き締めて。
 目蓋を閉じた。
 『ずっと二人でいよう』
 二人は一つになった。

(了)

制作時間 約17時間
 開始 2011,8,21,09:50
 終了 2011,8,22,01:55
 「親父、そろそろ行こうぜ」
 「ああ、先に車出しといてくれ」
 すぐに行くから、そういいながら。
 不格好にネクタイを締めている。
 相変わらず、不器用な人だ。
 お袋が締めないといつも時間がかかるんだ。

 エンジンが高音で唸る。
 窓ガラスのすぐ脇を、日が隠れるほど大きいトラックがすり抜けていった。車体が少し揺れる。
 ハンドルを握った手はかじかんだように痺れ、僅かに汗が滲む。
 これだから。
 高速は嫌なんだ。
 俺は胸ポケットから煙草とライターを取り出して、口にくわえる。
 前を見ながらだから上手く火を点けられなくて、掻痒感に似た重みのある水泡のようなものが、胸の奥でぶくぶくと膨らむ。
 ようやく点いた。
 深く吸い込む。
 水泡は紫煙に溶かされて、口から一緒に出て行った。
 窓を開ける。
 鼻につく煙草の煙は窓に吸われるように飲まれてゆく。
 車内は無言だ。
 親父と俺。互いに口を開こうとはしない。
 クーラーの音とエンジンの音と、窓から入る空気の音だけが飛び交う。
 それが堪らなく重苦しくて、俺はカーステのスイッチを入れた。
 「今日の天気は快晴です。晴れ渡った空から降り注ぐ日差しが少し強いかもしれませんが、とっても行楽日和の一日となるでしょう」
 ああ。
 確かにそうだな。
 眩しいくらいだ。
 バックミラーを覗き込む。
 親父は右手の山から瞳を外さず、一点ばかりを見つめている。
 あと、だいたい30分くらいの距離か。
 家を出てから二時間。
 ずっと変わらない表情だ。
 何を考えているのか、よくわかる。
 諦めたのか、ネクタイは相も変わらず不格好だ。

 「よう、お袋。元気かい?」
 山を登って数十分。
 お袋の眠る墓前に立った。
 短くなった煙草を吸い殻入れに入れて、新しいのに火を点ける。
 無作法かもしれないけれど、それを供えた。
 「禁煙は順調かい?」
 親父は住職のところに挨拶に行った。
 だから。
 二人っきりで内緒話だ。
 「親父さ、辛そうだぜ。なんとかしてやってくれよ」
 お袋に触れるように、石に触れる。全く微塵にも似ていない感触だ。
 とても、冷たい。
 まだ蝉が鳴いているのに、冷たい。
 俺は自分の分の煙草に火を点けて、肺に巡らす。紫煙がないと呼吸が上手く出来ない。
 息が詰まって喘いでしまう。
 じゃりじゃりと、頼りがいのない足音が聞こえた。
 「待たせたな。掃除しようか」
 「ああ、そうだね」
 俺はお袋から煙草を取り上げる。
 禁煙頑張ってくれ。

 ジャケットを脱いでワイシャツの袖を捲る。
 やはりまだ少し暑い。
 長袖が平気な温度になってきたけれど、運動すれば汗が滲んでくる。
 墓石をごしごしと擦って、流して。雑草をいくらか引っこ抜いて花を生けて。最後に線香を灯す。火は口で吹いてはいけないらしい。
 「久しぶりだねえ、母さん」
 親父は相変わらずの声で語りかける。
 今にも泣いてしまいそうな震えた声。
 それが聞くに堪えなくて、目蓋を強く閉じる。

 なぁ、母さん。
 こいつを見てくれよ。母さんの真似をして煙草を吸うようになったんだ。少し控えるように言ってくれないか?
 お前は俺の最期を看取るんだって。
 先には逝かないようにって。
 そうそう、こいつは誰かに習った訳でもないのに、ネクタイを結ぶのが得意なんだ。母さんに似たのかな?
 料理も最近母さんに似た味になってきたんだ。どうせなら、母さんの味に似たお嫁さんを貰ってくれると嬉しいんだがね。いや、母さんに似た美人の嫁さんの方が良いか。
 ああ、それからね

 「おい、親父!いい加減にしてくれよ!」
 「え?」
 「なんて顔して、なんて声して話しかけてんだよ!」
 母さんは!もう20年も前に死んだんだぞ!
 俺は堪らず、そう叫んでいた。
 「え?」
 「いい加減、現実を見てくれよ」
 俺は地面に付けていた右膝を伸ばして立ち上がる。ポケットから煙草を取り出して、火を点ける。
 「母さんは!俺がまだまだガキの頃に、肺癌で死んだんだ!俺が制服を脱いで、背広を不格好に着て!ネクタイを締めるのが日課になる歳になるくらい、母さんは眠っているんだ!この石の下で!」
 母さんはもうとっくの昔に死んだんだ!
 そう、俺は泣きながら叫んでいた。
 親父は、ことあるごとに。
 お袋が死んで間もないように振る舞っていた。
 それは故意なのか、はたまた無意識なのか。
 俺にはわからない。
 ただ。
 現実を受け入れられず、妄想に目を向けて、夢からも目を背けている。そう感じられた。
 お袋が死んだという夢も見たくなくて。
 眠りの中までも受け入れられなくて。
 「頼むからやめてくれ。俺だって辛いんだ。弱った親父も見たくないし、弱っていく親父を見るのも辛い」
 煙草の煙が目に染みる。涙で洗い流そうと、涙腺が開いた。
 さめざめと涙が溢れ出て。
 じくじくと胸が痛んだ。
 止め処なく流れる涙を止めようと、俺は顔を手で覆う。
 すると自分の手の温もりで、涙の奔流が増した。

 ああ、思い出した。
 母の手の温もりを思い出した。
 石のように冷たい感触ではなく。
 日向のように温かい手だった。
 熱いくらいに温かい手だった。
 俺は久しく忘れていた感触に、涙と嗚咽を止めることが出来なくて。
 膝をついて。
 両手で顔を覆って。
 祈るように泣いた。
 天を見上げて泣いた。
 もう一度母に会いたいと。
 口にくわえていた煙草は、いつの間に落としていた。

 「ごめんな、俺が悪かった。だからそんなに泣かないでくれ」
 「いいんだ、父さん」
 久しぶりに、父を隣に感じた。
 子供みたいに背中を擦られて、安心しきって。
 だくだくと涙と思いを吐き出しきっていた。
 「煙草、やめようかな」
 ああ、それが良い。そう言って父は俺を優しく抱いた。
 「母さんも、煙草やめようと頑張って、やめたんだけどな。遅かったんだ」
 そっかと、俺は呟いて。箱を潰した。
 「もう一度、母さんにネクタイ結んでほしいなぁ」
 親父はそう言って、歪んだネクタイを締める。
 「いいんじゃないかな、それでも。奇麗に結べるのは母さんだけってことで」
 「ああ、そういう考え方もあるのか」
 「俺は、もう一度母さんに頭撫でてほしいな」
 「まだ、反抗期だったもんな、お前」
 親父は憶えていたようだ。
 「さて、帰ろうか」
 「ああ、そうだな」
 じゃあな、母さん。
 また来るからね。
 少しくたびれた背広と、ネクタイを整えて、俺と父は歩き出した。

*****

 「よ、まなみ」
 「はろはろ、どしたの?」
 「今墓参りから帰ってきたんだ。今そっちに行こうと思ってるんだけど、いいかな?」
 「いいけど、いいの?」
 「親父が行ってこいって言うんだ」
 ふーん。と釈然としない雰囲気だ。
 理解は出来るが。
 「お土産があるんだ、コーヒー淹れて待っててよ」
 わかったわ、と電話が切れた。
 バックミラーで後ろの座席を覗き込んで、俺はにっと笑った。

 チャイムを押す。
 いかにもピンポーンという擬音が似合う音がドアの向こうから聞こえた。間もなくハーイと声が続く。
 扉が開いた。
 「よ、まなみ」
 うわぁと、まなみは目を大きく開く。
 俺はバラの花束を持っていた。
 「小さいけれど、プレゼント」
 俺は胸に押し付ける。
 「ありがとう」
 「おい。もっと優しく持たないと、潰れっちゃうだろ」
 玄関にあがって中に入る。お邪魔しますと言ったが、果たして聞いているのだろうか。
 まなみはいそいそと花瓶を用意する。持っていたっけ?
 「花瓶持ってないよー」とキッチンから聞こえた。やっぱりか。
 「そんなに大きくないんだし、グラスとかに入れればいんじゃない?」
 俺はジャケットを脱いで、ソファーに座る。
 「あ、そっかー」
 まなみは戸棚を開けて綺麗な模様の入ったグラスを数個、取り出す。
 まなみのお気に入りのやつだ。
 まなみはグラスに2輪バラを挿して。一つ、テーブルに飾った。
 「コーヒー出来てるわよ」


 ローテーブルにコーヒーとクッキーを並べて、クッションに腰を下ろす。ソファーに背中を預けて、二人並んで座った。
 「それにしても、どうしたの?急に花束だなんて」
 らしくないわ、と言って灰皿を渡してくる。
 「煙草、やめるんだ」
 まなみはきょとんと目を丸くして、「え!?」と驚いている。
 むしろ慄いている。いや、わななくの方がらしい字面だろうか。
 なんかわなわなしているし。
 「ど、どうしちゃったの?煙草が恋人みたいなこと言っていたのに」
 「確かにヘビースモーカーだったけどさ、そんなに酷かった?」
 「一時間に5本は吸っていなかった?」
 そうだっけ?と首を傾げる。
 「もうこれは異常の域だわ!」とカップをまなみは傾けるが「あつい!」といって一人で騒いでいる。まなみは猫舌なのだ。
 「まぁ、長い反抗期がやっと終わった。って感じかなぁ?」
 「お父さんの話?」
 うん、と俺は熱いコーヒーを少し口に含む。俺も猫舌だ。
 テーブルに広げた、華やかなクッキーを摘む。
 花の形をしたバタークッキーだ。
 「どこで買ったやつ?美味しいね」
 「駅前に出来た新しい喫茶店のやつ。紅茶は大したことないんだけど、お菓子が美味しいの」
 これなら確かに、とついつい手が伸びる。
 「親父がさ、やっとあの顔やめたんだ」
 ぽりぽりと、味わう。
 「ようやく、俺の顔を真っ直ぐ見るようになったんだ」
 なんだか、塩っぽい味だ。
 「真正面から見た顔、随分と皺が目立ってた。気が付かなかったよ」
 何年も親父を避けてきた。何処を見ているのかわからない、虚ろな表情を見たくなかったから。
 「会話、全然しなかったからなぁ」
 新鮮にすら感じた。
 「仲直り、出来たの?」
 肩をぴたりとくっつけて、まなみはこっちをのぞき見る。
 丸い大きな瞳は、くりくりとしていて。
 愛らしいのに、今は少し気圧される。
 何もかもを見られているようで、気恥ずかしさの奥に潜む弱くて小さくて幼い自分が曝け出されるような、そんな恐怖が僅かに湧き出た。
 「多分。喧嘩じゃないと思うけどね。久しぶりに親子、した気がする」
 「どんな感じだった?」
 うん、と詰まる。
 「とにかく、あったかかった」
 まなみはカップに口を付けて傾ける。細い喉がこくりと動いて、口を離した。ふうと小さく息をついて。カップを置く。
 会話は少し途切れて、どこかから時計の音が聞こえた。かちりかちりと部屋中に響いて、それを聞いていると。
 父と母と、俺。
 三人がいた時間を思い出す。
 ぽりぽりと、クッキーの味が口の中に広がって。
 それが甘い記憶を手繰るように、甘い記憶を味わうように反芻して。
 気が付けば、膝を抱いていた。
 まなみは俺に寄り掛かって、コーヒーを飲んでいる。
 自然と、涙が溢れてきた。
 隣のまなみの体温は少し熱くて。
 日差しのようだった。

 「はい、ティッシュ」
 「あんがと」
 ちーんと鼻をかむ。耳がきーんとした。
 「俺、何しにきたのかね?」
 「花束を持ってきたんじゃない?」
 そっか。と涙を拭う。
 いや、絶対違う気がする。でも、それを言うのも野暮か。
 「コーヒー冷めちゃったね、ごめん」
 「いいよいいよ、気にしない。私猫舌だし、味わったし」
 「そっか」といって、俺はおかわりを注ぐ。
 ごくごくと飲んで、渇いた喉を潤す。
 「何だかパフェが食べたいなー」
 と、背中をぶつけてくる。そのまま受け止めて、頭を寄せた。
 「作れないよ」
 「ごちそうしろ、って言ってんの」
 「美味しいところ知ってる?」
 うーんとまなみは唸って「新しい喫茶店入ったことある?」と聞いてきた。
 俺は「ないよ」と言って、まなみを抱き締める。
 少し高めの体温が心地よい。
 「じゃあ、そこにいこっか」
 名残惜しいけど、腕を放す。
 まなみは立ち上がって、手を差し伸ばす。俺はそれに掴まって立ち上がる。
 小さいけど、温かい。熱いくらいの手の平。
 どうしても手放したくなくて。
 「結婚しよっか」

 「へ?」

 「結婚しよう、まなみ」
 まん丸い大きな瞳は大きく開かれて、本日二度目のきょとんだ。
 「君の温もりが欲しい。俺の家族になってくれ、まなみ」
 繋いで手を振り払って、まなみは後ろを向いて顔を隠してしまう。
 「だめ?」
 逃がしたくなくて、後ろから抱き締める。
 いやんいやんと身体を振って、逃げてしまった。
 「ま、まだ早くない?」
 「でも、もう30手前になるんだよ?二人とも」
 「そ、そうだけど」と言いながら、顔を隠している。
 グラスからバラを抜き取って、くるくると丸めて編む。棘がなくてよかった。
 「婚約指輪は用意する。今はこれで我慢してほしい」
 まなみを後ろから抱き締めて、顔から手をどける。
 薔薇の指輪を見せた。
 「う、うー」
 「俺の家族を作ってほしい」
 まなみの左手に握らせた。
 「と、とりあえず。時間をください」
 わかったと頷いて、身体を離す。
 まなみはこっちをう振り向いて、俯いた。
 「ぱ、ぱふぇ!みっつおごって!」
 びっくりしたんだから!と、怒りながら照れている。
 のかなぁ。
 まなみは薔薇の指輪を大切そうに胸に抱いて、指に嵌める。
 そしてまた、後ろを向いて

 「ちゃんと、薔薇の指輪を探してきてね?」

 俺はもう一度抱き締めて
 「わかった」
 強く抱き締めた。 
  
 僕は。
 何をしたいんだろう。
 と、少し自分と向き合ってみる。
 とりあえず考えるのは、「人生どうしよう」ってゆーね。

 そこで出てくる道筋は「夢を追う」か「無難を行く」か「流されてみる」かだ。
 
 僕の夢は、何だろうね。
 小説家?
 馬鹿馬鹿しい。
 無理に決まってんだろう、夢を見過ぎだと、必死になって本気になろうとしているのを止める。
 後悔も自責もしたくない、から諦める。
 いや、諦めるじゃない。
 最初から憧れてすらない。

 てなわけで、「夢は追いません」
 夢見てないもん。

 次、「無難」
 公務員とかいいですよね。
 やりたいことがないから、無難に公務員目指したいですよね。
 一般企業には惹かれるものが何もないんですよ。
 だから、やる気が出てこない。
 だって、絶対に途中でリタイアしてしまうもの。

 残り、「流される」
 今のままで、いいんじゃないかなぁと思う。
 適度にだらけながら頑張らず、なるようになる。
 フリーターからチャンスがあれば、社員登用目指してね、甘い考えなまま人生歩み。
 適当な位置で、色々と捨ててく人生。
 夢も希望も願望も持たず、余計な荷物は早々に捨てる。
 一番、幸福でも不幸でもない。
 痛みのない人生。

 なんて、ことを時々考える。
 僕は、何を追いかけて、これまで生きてきたのか。
 未だにわからない。
 痛みを負いたくなくて。
 傷を負いたくなくて。
 辛さを負いたくなくて。
 悔しさを負いたくなくて。
 全部逃げて。
 全部後回し。

 良くはないだろう。
 でも悪くもないだろう?

 だって、辛くないもの。
 そう、誤摩化せるもの。
 こうやって。
 文章を書くのだって。
 文字を連ねるのが好き。
 趣味ですって、言い張る為。
 そう言って、逃げ口を作る為。
 燻るのは良くない。
 痕が残ってしまう。
 漱いだくらいじゃ、後でわかってしまう。
 だから、煙の逃げ口を作る。

 結局僕は、流されることを選んでしまうのかな。
 
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本文はここから


 「親父、そろそろ行こうぜ」
 「ああ、先に車出しといてくれ」
 すぐに行くから、そういいながら。
 不格好にネクタイを締めている。
 相変わらず、不器用な人だ。
 お袋が締めないといつも時間がかかるんだ。

 エンジンが高音で唸る。
 窓ガラスのすぐ脇を、日が隠れるほど大きいトラックがすり抜けていった。車体が少し揺れる。
 ハンドルを握った手はかじかんだように痺れ、僅かに汗が滲む。
 これだから。
 高速は嫌なんだ。
 俺は胸ポケットから煙草とライターを取り出して、口にくわえる。
 前を見ながらだから上手く火を点けられなくて、掻痒感に似た重みのある水泡のようなものが、胸の奥でぶくぶくと膨らむ。
 ようやく点いた。
 深く吸い込む。
 水泡は紫煙に溶かされて、口から一緒に出て行った。
 窓を開ける。
 鼻につく煙草の煙は窓に吸われるように飲まれてゆく。
 車内は無言だ。
 親父と俺。互いに口を開こうとはしない。
 クーラーの音とエンジンの音と、窓から入る空気の音だけが飛び交う。
 それが堪らなく重苦しくて、俺はカーステのスイッチを入れた。
 「今日の天気は快晴です。晴れ渡った空から降り注ぐ日差しが少し強いかもしれませんが、とっても行楽日和の一日となるでしょう」
 ああ。
 確かにそうだな。
 眩しいくらいだ。
 バックミラーを覗き込む。
 親父は右手の山から瞳を外さず、一点ばかりを見つめている。
 あと、だいたい30分くらいの距離か。
 家を出てから二時間。
 ずっと変わらない表情だ。
 何を考えているのか、よくわかる。
 諦めたのか、ネクタイは相も変わらず不格好だ。

 「よう、お袋。元気かい?」
 山を登って数十分。
 お袋の眠る墓前に立った。
 短くなった煙草を吸い殻入れに入れて、新しいのに火を点ける。
 無作法かもしれないけれど、それを供えた。
 「禁煙は順調かい?」
 親父は住職のところに挨拶に行った。
 だから。
 二人っきりで内緒話だ。
 「親父さ、辛そうだぜ。なんとかしてやってくれよ」
 お袋に触れるように、石に触れる。全く微塵にも似ていない感触だ。
 とても、冷たい。
 まだ蝉が鳴いているのに、冷たい。
 俺は自分の分の煙草に火を点けて、肺に巡らす。紫煙がないと呼吸が上手く出来ない。
 息が詰まって喘いでしまう。
 じゃりじゃりと、頼りがいのない足音が聞こえた。
 「待たせたな。掃除しようか」
 「ああ、そうだね」
 俺はお袋から煙草を取り上げる。
 禁煙頑張ってくれ。

 ジャケットを脱いでワイシャツの袖を捲る。
 やはりまだ少し暑い。
 長袖が平気な温度になってきたけれど、運動すれば汗が滲んでくる。
 墓石をごしごしと擦って、流して。雑草をいくらか引っこ抜いて花を生けて。最後に線香を灯す。火は口で吹いてはいけないらしい。
 「久しぶりだねえ、母さん」
 親父は相変わらずの声で語りかける。
 今にも泣いてしまいそうな震えた声。
 それが聞くに堪えなくて、目蓋を強く閉じる。

 なぁ、母さん。
 こいつを見てくれよ。母さんの真似をして煙草を吸うようになったんだ。少し控えるように言ってくれないか?
 お前は俺の最期を看取るんだって。
 先には逝かないようにって。
 そうそう、こいつは誰かに習った訳でもないのに、ネクタイを結ぶのが得意なんだ。母さんに似たのかな?
 料理も最近母さんに似た味になってきたんだ。どうせなら、母さんの味に似たお嫁さんを貰ってくれると嬉しいんだがね。いや、母さんに似た美人の嫁さんの方が良いか。
 ああ、それからね

 「おい、親父!いい加減にしてくれよ!」
 「え?」
 「なんて顔して、なんて声して話しかけてんだよ!」
 母さんは!もう20年も前に死んだんだぞ!
 俺は堪らず、そう叫んでいた。
 「え?」
 「いい加減、現実を見てくれよ」
 俺は地面に付けていた右膝を伸ばして立ち上がる。ポケットから煙草を取り出して、火を点ける。
 「母さんは!俺がまだまだガキの頃に、肺癌で死んだんだ!俺が制服を脱いで、背広を不格好に着て!ネクタイを締めるのが日課になる歳になるくらい、母さんは眠っているんだ!この石の下で!」
 母さんはもうとっくの昔に死んだんだ!
 そう、俺は泣きながら叫んでいた。
 親父は、ことあるごとに。
 お袋が死んで間もないように振る舞っていた。
 それは故意なのか、はたまた無意識なのか。
 俺にはわからない。
 ただ。
 現実を受け入れられず、妄想に目を向けて、夢からも目を背けている。そう感じられた。
 お袋が死んだという夢も見たくなくて。
 眠りの中までも受け入れられなくて。
 「頼むからやめてくれ。俺だって辛いんだ。弱った親父も見たくないし、弱っていく親父を見るのも辛い」
 煙草の煙が目に染みる。涙で洗い流そうと、涙腺が開いた。
 さめざめと涙が溢れ出て。
 じくじくと胸が痛んだ。
 止め処なく流れる涙を止めようと、俺は顔を手で覆う。
 すると自分の手の温もりで、涙の奔流が増した。

 ああ、思い出した。
 母の手の温もりを思い出した。
 石のように冷たい感触ではなく。
 日向のように温かい手だった。
 熱いくらいに温かい手だった。
 俺は久しく忘れていた感触に、涙と嗚咽を止めることが出来なくて。
 膝をついて。
 両手で顔を覆って。
 祈るように泣いた。
 天を見上げて泣いた。
 もう一度母に会いたいと。
 口にくわえていた煙草は、いつの間に落としていた。

 「ごめんな、俺が悪かった。だからそんなに泣かないでくれ」
 「いいんだ、父さん」
 久しぶりに、父を隣に感じた。
 子供みたいに背中を擦られて、安心しきって。
 だくだくと涙と思いを吐き出しきっていた。
 「煙草、やめようかな」
 ああ、それが良い。そう言って父は俺を優しく抱いた。
 「母さんも、煙草やめようと頑張って、やめたんだけどな。遅かったんだ」
 そっかと、俺は呟いて。箱を潰した。
 「もう一度、母さんにネクタイ結んでほしいなぁ」
 親父はそう言って、歪んだネクタイを締める。
 「いいんじゃないかな、それでも。奇麗に結べるのは母さんだけってことで」
 「ああ、そういう考え方もあるのか」
 「俺は、もう一度母さんに頭撫でてほしいな」
 「まだ、反抗期だったもんな、お前」
 親父は憶えていたようだ。
 「さて、帰ろうか」
 「ああ、そうだな」
 じゃあな、母さん。
 また来るからね。
 少しくたびれた背広と、ネクタイを整えて、俺と父は歩き出した。
 痛い痛い痛いお母さん痛いよお父さん痛いよ痛いよ誰か痛いよ助けて痛いよ。
 肘から先がとれちゃった。
 痛みが足の爪の先までうねるように僕を包んで締め付ける。
 血が体感できる程の勢いで流れでて、足元に水溜りが出来ている。
 身体から刻一刻と熱が抜けていって、僕は堪らず血溜まりに伏した。
 全身にぬるりとした感触がまとわりつき、スローモーションで飛沫が舞った。
 痛い。
 けど、それはもうただの衝撃でしかなく。
 感じるものが余すことなく体内に満ちて。
 許容出来なくなって溢れた。
 半分になった腕は痛みはおろか、熱だけしか感じなくなった。
 触感も消えて。
 身体から存在も薄れる。
 腕は。
 僕の中で、ないことになった。

 まぁ、実際はそれどころじゃないんだけどね。
 隣で寝ているお父さんとお母さんは潰れてしまって中身が出ている。
 僕は訳もわからないまま外に放り出されて、飛んできた車のガラスで腕が取れてしまった。
 早い話が、事故だ。
 交通事故。
 よくわからないまま。
 僕はしんでしまうんだな。
 お父さんもお母さんも。

*****

 「やだ、ここ怖い」
 私は直人の腕にしがみつく。
 「こわがりだなー。しってる?ここ事故の名所らしいよ?」
 怖がりな私を知っていて、直人はよく意地悪してくる。本当にアホなんだから。
 「やめてよ、こわなあ」
 そう私は拗ねて、強く抓る。「痛い痛いごめんごめん」と直人は謝る。私は抓るのを止めて、腕を抱く。なんだか少し寒い。
 「それにしても暗いな、まだ六時前なのに」
 まだ秋の手前だというのに、随分と日暮れが早い。おまけに肌寒い。
 なんだか嫌な予感がする。
 「危ない!」
 直人はハンドルを慌てて切った。
 車体が横に滑る。
 全身がばらばらになる、そんな波のようなものに包まれた気がした。

 眼を開ける。
 眼の前に直人が眠っていた。
 「直人、起きて」
 私は直人の頬に触れようと手を伸ばした。
 でも、届かない。
 どうしてだろう。
 力を込める。
 持ち上がらない。
 何かに挟まれているのだろうか。ぐいぐいと力を込める。
 なんだか変だ。
 私は逸る鼓動を抑えられない。
 目を向ける。
 
 肩がなかった。
 腕がなかった。
 肘がなかった。
 手がなかった。
 指がなかった。

 直人にもらった指輪が失くなっていた。

 「直人、直人、直人直人直人!!!」
 私は懸命に直人を呼ぶ。
 直人と呼ぶたびに、血が大きく溢れた。
 寒い。
 何か、取り返しのつかない物を零している気がする。
 この流れを止めないと、たぶん駄目だ。
 「直人直人直人!!!」
 直人は眼を開けない。
 いつもの寝顔のままだ。
 私もまずいが、直人もまずい。
 車の下敷きになっている。
 私はナメクジのように這って近づく。
 「直人!」
 起きて。
 「直人!」
 頬で触れる。
 
 直人の首が転がった。

*****

 あはははははははは。
 ざまーみろ。
 僕らを助けてくれなかったからだ。
 みんなも一緒においでよ。
 こっちに。
 あはははははははは。

*****