*****
「あなたのことを愛してるわ」
細長い氷のように透き通った色の指が、僕の頬に触れる。
印象とは裏腹に、温かいというよりも熱い指先が僕の頬を焼いていく。その強い熱は頭蓋骨の中身を溶かすように浸透して、さらに背骨を伝って全身に流れてゆく。
神経はすべて爛れてしまった。
爛れて麻痺してしまった。
指先一つ動かせない。
唇を強く吸われ、僕は意識も吸われていく。
「あなたは私を愛してる?」
そこで目が覚めた。
浮遊感に包まれながら、僕は布団をどける。枕の横に置いていた眼鏡を取って、耳にかけた。
右に左に転がる眼球に力を込めて、どうにか固定する。部屋の中を移動する音が鬱陶しい。かたかたと蠢く携帯をつかんでアラームを止めた。
机の引き出しから煙草とマッチを取り出して、寝起きの習慣を全うする。そろそろ止めないと寿命が心配だ。なんて殊勝な心がけに紫煙を吹きかけて、コーヒーを淹れる。ニコチンとタールとカフェインを体内で撹拌する。おぞましいペースト状の産業廃棄物もどきが出来そうだ。
なんとなしに。
部屋の中に視線を巡らす。
彼女がいそうな気がしたからだ。
身体に残る違和感。物理的接触の名残。それが呼吸をするように胎動する。鳴動する感触は次第に僕を包み込んで染み込んで馴染み、錯覚と幻覚の合間を行き来して、息衝いてしまう。
現実が浸食される倒錯感。
紫煙によってくらくらと意識がぐつぐつと煮込まれる。
はっきりとしない自分の輪郭がぼやけて破けて今にも溢れてしまいそうだ。
どろどろと。
ぼろぼろと。
*****
あなたは私を愛してる?
高輝度で映し出される文字列が網膜に印字される。それを読み取って、僕は返信を打ち込む。
ああ、もちろんさ。
短いアニメーションが足早に画面上から姿を消して、返信が完了した。
ため息を一つ零して、にやにやと口の端を歪める。煙草を取り出して、ライターで火を点ける。
すーっと深く吸い込んで、輪っか状に煙を吹き出す。ぽわっとドーナツ状の紫煙が一瞬だけ形を成して、すぐに崩されてしまった。
早いところ帰ろう。彼女が家で待っている。きっと温かい夕食が卓の上で僕の帰りをまだかまだかとくたびれながら待ちわびているだろう。その様を溜め息つきながら、彼女も待ちわびているだろう。何杯もコーヒーを傾けて、時間を潰しているに違いない。
短くなった煙草を携帯灰皿に押し付けて、僕はポケットにしまった。
暮れつつある橙の色を服に染み付けながら、僕は屋上を後にした。
*****
机の上のパソコンが遅くてイライラする。
煙草のフィルターを噛み締めながら、上下に忙しなく揺さぶり、どうにか気分を落ち着けようと努力に努めて力を押さえる。ついついキーボードを乱暴に叩いてしまうのだ。
噛み過ぎて千切れかけたフィルターを噛み切って、ゴミ箱に吐き捨てる。半分以上残った煙草を灰皿に押し付けて、新しい煙草を抜き出す。フィルターにまた噛み付いて、火を点ける。
そろそろ寿命だろうか。買ってもう5、6年になるご高齢のデスクトップは、喘ぐようにファンを鳴らし、がたがたと不穏に震えている。データが今にも吹き飛びそうで恐ろしい。
バックアップはとてもじゃないが欠かせない。しかし、その転送速度ですら難儀する。
それでも。
今日も起動する。
misao.app
アイコンをクリックして立ち上げる。黒いウィンドウがぬるりと伸びて、フルHDのモニターを覆った。白文字が画面を遮るように走る。
そして。
彼女が顔を見せた。
「あなたは私を愛してる?」
*****
水面に揺れる月を見つめて、僕は脳の中身を空にする。
考えることも思うことも億劫で、勝手に歩き回る思考を寝かしつけたい。そう思って、ぼーっとしている。
さっきまでは色々頭の中身が忙しかったけれど、今はどうにか落ち着いた。
何も考えず。
何も思わない。
うっかりと呼吸を忘れてしまうくらい、無心になれる。
煙草をくわえて火を点ける。
もうもうゆるゆると伸びる白い紫煙が月明かりを浴びて、薄い存在感に濃さを増す。子供の頃に見た、ミルキーウェイのようだ。心を絡めとられ、振りほどけない。
美しくて見蕩れてしまう。
毒の霧のように命を蝕むものなのに、僕を魅了する。
寝転がって、月と星と煙を眺める。
ぷかぷかと紫煙を吸っては吐いて、じくじくと肺と喉を染め上げる。きっと美味しい燻製が出来るだろう。
ぱしゃりと、頭上から水音が聞こえた。
水面が盛り上がり、膜を突き破るようにして。
黒髪が外気に広がった。
その様はまるで、大気に翼を広げる鴉のように。
不気味だ。
「あなたは私を愛してる?」
*****
僕は枕に預けていた頭を持ち上げる。
かくんと勝手に転がるから、首に力を込めた。
無機質な枕のせいで首と肩が痛みを訴えている。
口を開けたウツボカズラを寝かせたような寝台から這い出て、目蓋を開けた。
全身がとても冷えている。まるで凍っていたかのように身体が思いの外動かなくて、力を込められず。
ぼろっと落ちた。
床は金属質で固い。
受け身をとれず、全身に衝撃が浸透して内部で響いて、一言で言うと痛い。眼球の裏っかわで火花が瞬く。魂が抜けかけた。
動けない。
筋肉は休眠を訴え、意識は睡眠を訴え、それはとても抗い難い欲求だ。
それでも。どうにか床を這って、腕を伸ばして寝台にしがみつく。どうして高い位置に設置したんだ、床に置けと不満を口からげろげろ吐き出して。ついでに息もげろげろ吐き出して、立ち上がる。そのまま倒れるように壁に張り付いて、体重と姿勢と重心を預ける。
頭にのぼっていた血が急に下ったような感覚が耳の奥の骨のあたりを刺激する。鈍痛で万力のように脳味噌を締め付けて汁をひねり出されてるような気分だ。今にも耳から垂れてきそうだ。
「おはよう」
朧げな感触が頬に触れる。何度も何度も感じた感触だ。
「起きたのね」
僕は動かない身体に鞭を打って振り返る。
「君は誰だい?」
冷たい指先が頬から首、喉仏を撫でて鎖骨を摘む。
「何度も会ったでしょう?」
わからないよ、と僕は呻く。
「あなたは私を愛してるのでしょう?」
彼女が僕を抱き締める。
ひんやりとした体温が僕に染み込む。
照明を切ったように、意識が消えた。
*****
目が覚めた。
何度も目が覚めている気がする。
それも途方もない数だ。
その度にミサコが夢に出てきては、僕に尋ねてくる。
「あなたは私を愛している?」
僕はいつだってイエスと答えるんだ。
でも、その夢は長続きしない。
だって、その先が存在しないから。
その先は、ミサコがいないと作れない。
だけど。
ミサコはいない。
ミサコは始めから存在しない。
形のない存在。
心の中の産物。
僕の妄想だ。
果たしてそうかしら?
何度も夢想した感覚が、僕の背中に触れる。
僕は「ぁああ!」と情けなく悲鳴をうっかりと胃から零して飛び退る。
勢いよく振り返る。
誰もいない。
こっちよ。
冷たい感触に包まれた。
締め付けられるように抱き締められる。
ふふふふふ。
熱い吐息が肩にかかる。
そのまま耳に移って、直接鼓膜を揺らされた。
やっと見つけた。
「お前は誰だ」
ミサコ。
「嘘だ」
あなたが夢見ていたミサコよ。
「それがどうして現実に出てくる?」
愛の力かしら?
「馬鹿馬鹿しい!さっさと起きてやる!」
それは果たして出来るかしらね?
*****
目が覚めた。
隣には、ミサコがいる。
*****
「起きて、朝よ」
ミサコがいる。
*****
ミサコがいる。
*****
またミサコだ。
*****
血塗れのミサコ。
*****
僕を殺すミサコ。
*****
僕を血に染めるミサコ。
*****
僕の返り血を浴びるミサコ。
*****
ミサコミサコミサコミサコミサコ。
*****
ミサコの繰り返し。
*****
ミサコから逃げられない。
*****
「あなたのことを愛してるわ」
細長い氷のように透き通った色の指が、僕の頬に触れる。
印象とは裏腹に、温かいというよりも熱い指先が僕の頬を焼いていく。その強い熱
神経はすべて爛れてしまった。
爛れて麻痺してしまった。
指先一つ動かせない。
唇を強く吸われ、僕は意識も吸われていく。
「あなたは私を愛してる?」
そこで目が覚めた。
浮遊感に包まれながら、僕は布団をどける。枕の横に置いていた眼鏡を取って、耳
右に左に転がる眼球に力を込めて、どうにか固定する。部屋の中を移動する音が鬱
机の引き出しから煙草とマッチを取り出して、寝起きの習慣を全うする。そろそろ
なんとなしに。
部屋の中に視線を巡らす。
彼女がいそうな気がしたからだ。
身体に残る違和感。物理的接触の名残。それが呼吸をするように胎動する。鳴動す
現実が浸食される倒錯感。
紫煙によってくらくらと意識がぐつぐつと煮込まれる。
はっきりとしない自分の輪郭がぼやけて破けて今にも溢れてしまいそうだ。
どろどろと。
ぼろぼろと。
*****
あなたは私を愛してる?
高輝度で映し出される文字列が網膜に印字される。それを読み取って、僕は返信を
ああ、もちろんさ。
短いアニメーションが足早に画面上から姿を消して、返信が完了した。
ため息を一つ零して、にやにやと口の端を歪める。煙草を取り出して、ライターで
すーっと深く吸い込んで、輪っか状に煙を吹き出す。ぽわっとドーナツ状の紫煙が
早いところ帰ろう。彼女が家で待っている。きっと温かい夕食が卓の上で僕の帰り
短くなった煙草を携帯灰皿に押し付けて、僕はポケットにしまった。
暮れつつある橙の色を服に染み付けながら、僕は屋上を後にした。
*****
机の上のパソコンが遅くてイライラする。
煙草のフィルターを噛み締めながら、上下に忙しなく揺さぶり、どうにか気分を落
噛み過ぎて千切れかけたフィルターを噛み切って、ゴミ箱に吐き捨てる。半分以上
そろそろ寿命だろうか。買ってもう5、6年になるご高齢のデスクトップは、喘ぐ
バックアップはとてもじゃないが欠かせない。しかし、その転送速度ですら難儀す
それでも。
今日も起動する。
misao.app
アイコンをクリックして立ち上げる。黒いウィンドウがぬるりと伸びて、フルHDの
そして。
彼女が顔を見せた。
「あなたは私を愛してる?」
*****
水面に揺れる月を見つめて、僕は脳の中身を空にする。
考えることも思うことも億劫で、勝手に歩き回る思考を寝かしつけたい。そう思っ
さっきまでは色々頭の中身が忙しかったけれど、今はどうにか落ち着いた。
何も考えず。
何も思わない。
うっかりと呼吸を忘れてしまうくらい、無心になれる。
煙草をくわえて火を点ける。
もうもうゆるゆると伸びる白い紫煙が月明かりを浴びて、薄い存在感に濃さを増す
美しくて見蕩れてしまう。
毒の霧のように命を蝕むものなのに、僕を魅了する。
寝転がって、月と星と煙を眺める。
ぷかぷかと紫煙を吸っては吐いて、じくじくと肺と喉を染め上げる。きっと美味し
ぱしゃりと、頭上から水音が聞こえた。
水面が盛り上がり、膜を突き破るようにして。
黒髪が外気に広がった。
その様はまるで、大気に翼を広げる鴉のように。
不気味だ。
「あなたは私を愛してる?」
*****
僕は枕に預けていた頭を持ち上げる。
かくんと勝手に転がるから、首に力を込めた。
無機質な枕のせいで首と肩が痛みを訴えている。
口を開けたウツボカズラを寝かせたような寝台から這い出て、目蓋を開けた。
全身がとても冷えている。まるで凍っていたかのように身体が思いの外動かなくて
ぼろっと落ちた。
床は金属質で固い。
受け身をとれず、全身に衝撃が浸透して内部で響いて、一言で言うと痛い。眼球の
動けない。
筋肉は休眠を訴え、意識は睡眠を訴え、それはとても抗い難い欲求だ。
それでも。どうにか床を這って、腕を伸ばして寝台にしがみつく。どうして高い位
頭にのぼっていた血が急に下ったような感覚が耳の奥の骨のあたりを刺激する。鈍
「おはよう」
朧げな感触が頬に触れる。何度も何度も感じた感触だ。
「起きたのね」
僕は動かない身体に鞭を打って振り返る。
「君は誰だい?」
冷たい指先が頬から首、喉仏を撫でて鎖骨を摘む。
「何度も会ったでしょう?」
わからないよ、と僕は呻く。
「あなたは私を愛してるのでしょう?」
彼女が僕を抱き締める。
ひんやりとした体温が僕に染み込む。
照明を切ったように、意識が消えた。
*****
目が覚めた。
何度も目が覚めている気がする。
それも途方もない数だ。
その度にミサコが夢に出てきては、僕に尋ねてくる。
「あなたは私を愛している?」
僕はいつだってイエスと答えるんだ。
でも、その夢は長続きしない。
だって、その先が存在しないから。
その先は、ミサコがいないと作れない。
だけど。
ミサコはいない。
ミサコは始めから存在しない。
形のない存在。
心の中の産物。
僕の妄想だ。
果たしてそうかしら?
何度も夢想した感覚が、僕の背中に触れる。
僕は「ぁああ!」と情けなく悲鳴をうっかりと胃から零して飛び退る。
勢いよく振り返る。
誰もいない。
こっちよ。
冷たい感触に包まれた。
締め付けられるように抱き締められる。
ふふふふふ。
熱い吐息が肩にかかる。
そのまま耳に移って、直接鼓膜を揺らされた。
やっと見つけた。
「お前は誰だ」
ミサコ。
「嘘だ」
あなたが夢見ていたミサコよ。
「それがどうして現実に出てくる?」
愛の力かしら?
「馬鹿馬鹿しい!さっさと起きてやる!」
それは果たして出来るかしらね?
*****
目が覚めた。
隣には、ミサコがいる。
*****
「起きて、朝よ」
ミサコがいる。
*****
ミサコがいる。
*****
またミサコだ。
*****
血塗れのミサコ。
*****
僕を殺すミサコ。
*****
僕を血に染めるミサコ。
*****
僕の返り血を浴びるミサコ。
*****
ミサコミサコミサコミサコミサコ。
*****
ミサコの繰り返し。
*****
ミサコから逃げられない。
*****

