*****

 「あなたのことを愛してるわ」
 細長い氷のように透き通った色の指が、僕の頬に触れる。
 印象とは裏腹に、温かいというよりも熱い指先が僕の頬を焼いていく。その強い熱
は頭蓋骨の中身を溶かすように浸透して、さらに背骨を伝って全身に流れてゆく。
 神経はすべて爛れてしまった。
 爛れて麻痺してしまった。
 指先一つ動かせない。
 唇を強く吸われ、僕は意識も吸われていく。
 「あなたは私を愛してる?」

 そこで目が覚めた。
 浮遊感に包まれながら、僕は布団をどける。枕の横に置いていた眼鏡を取って、耳にかけた。
 右に左に転がる眼球に力を込めて、どうにか固定する。部屋の中を移動する音が鬱陶しい。かたかたと蠢く携帯をつかんでアラームを止めた。
 机の引き出しから煙草とマッチを取り出して、寝起きの習慣を全うする。そろそろ止めないと寿命が心配だ。なんて殊勝な心がけに紫煙を吹きかけて、コーヒーを淹れる。ニコチンとタールとカフェインを体内で撹拌する。おぞましいペースト状の産業廃棄物もどきが出来そうだ。
 なんとなしに。
 部屋の中に視線を巡らす。
 彼女がいそうな気がしたからだ。
 身体に残る違和感。物理的接触の名残。それが呼吸をするように胎動する。鳴動する感触は次第に僕を包み込んで染み込んで馴染み、錯覚と幻覚の合間を行き来して、息衝いてしまう。
 現実が浸食される倒錯感。
 紫煙によってくらくらと意識がぐつぐつと煮込まれる。
 はっきりとしない自分の輪郭がぼやけて破けて今にも溢れてしまいそうだ。
 どろどろと。
 ぼろぼろと。

*****

 あなたは私を愛してる?
 高輝度で映し出される文字列が網膜に印字される。それを読み取って、僕は返信を打ち込む。
 ああ、もちろんさ。
 短いアニメーションが足早に画面上から姿を消して、返信が完了した。
 ため息を一つ零して、にやにやと口の端を歪める。煙草を取り出して、ライターで火を点ける。
 すーっと深く吸い込んで、輪っか状に煙を吹き出す。ぽわっとドーナツ状の紫煙が一瞬だけ形を成して、すぐに崩されてしまった。
 早いところ帰ろう。彼女が家で待っている。きっと温かい夕食が卓の上で僕の帰りをまだかまだかとくたびれながら待ちわびているだろう。その様を溜め息つきながら、彼女も待ちわびているだろう。何杯もコーヒーを傾けて、時間を潰しているに違いない。
 短くなった煙草を携帯灰皿に押し付けて、僕はポケットにしまった。
 暮れつつある橙の色を服に染み付けながら、僕は屋上を後にした。

*****

 机の上のパソコンが遅くてイライラする。
 煙草のフィルターを噛み締めながら、上下に忙しなく揺さぶり、どうにか気分を落ち着けようと努力に努めて力を押さえる。ついついキーボードを乱暴に叩いてしまうのだ。
 噛み過ぎて千切れかけたフィルターを噛み切って、ゴミ箱に吐き捨てる。半分以上残った煙草を灰皿に押し付けて、新しい煙草を抜き出す。フィルターにまた噛み付いて、火を点ける。
 そろそろ寿命だろうか。買ってもう5、6年になるご高齢のデスクトップは、喘ぐようにファンを鳴らし、がたがたと不穏に震えている。データが今にも吹き飛びそうで恐ろしい。
 バックアップはとてもじゃないが欠かせない。しかし、その転送速度ですら難儀する。
 それでも。
 今日も起動する。
 misao.app
 アイコンをクリックして立ち上げる。黒いウィンドウがぬるりと伸びて、フルHDのモニターを覆った。白文字が画面を遮るように走る。
 そして。
 彼女が顔を見せた。
 「あなたは私を愛してる?」

*****

 水面に揺れる月を見つめて、僕は脳の中身を空にする。
 考えることも思うことも億劫で、勝手に歩き回る思考を寝かしつけたい。そう思って、ぼーっとしている。
 さっきまでは色々頭の中身が忙しかったけれど、今はどうにか落ち着いた。
 何も考えず。
 何も思わない。
 うっかりと呼吸を忘れてしまうくらい、無心になれる。
 煙草をくわえて火を点ける。
 もうもうゆるゆると伸びる白い紫煙が月明かりを浴びて、薄い存在感に濃さを増す。子供の頃に見た、ミルキーウェイのようだ。心を絡めとられ、振りほどけない。
 美しくて見蕩れてしまう。
 毒の霧のように命を蝕むものなのに、僕を魅了する。
 寝転がって、月と星と煙を眺める。
 ぷかぷかと紫煙を吸っては吐いて、じくじくと肺と喉を染め上げる。きっと美味しい燻製が出来るだろう。
 ぱしゃりと、頭上から水音が聞こえた。
 水面が盛り上がり、膜を突き破るようにして。
 黒髪が外気に広がった。
 その様はまるで、大気に翼を広げる鴉のように。
 不気味だ。
 「あなたは私を愛してる?」

*****

 僕は枕に預けていた頭を持ち上げる。
 かくんと勝手に転がるから、首に力を込めた。
 無機質な枕のせいで首と肩が痛みを訴えている。
 口を開けたウツボカズラを寝かせたような寝台から這い出て、目蓋を開けた。
 全身がとても冷えている。まるで凍っていたかのように身体が思いの外動かなくて、力を込められず。
 ぼろっと落ちた。
 床は金属質で固い。
 受け身をとれず、全身に衝撃が浸透して内部で響いて、一言で言うと痛い。眼球の裏っかわで火花が瞬く。魂が抜けかけた。
 動けない。
 筋肉は休眠を訴え、意識は睡眠を訴え、それはとても抗い難い欲求だ。
 それでも。どうにか床を這って、腕を伸ばして寝台にしがみつく。どうして高い位置に設置したんだ、床に置けと不満を口からげろげろ吐き出して。ついでに息もげろげろ吐き出して、立ち上がる。そのまま倒れるように壁に張り付いて、体重と姿勢と重心を預ける。
 頭にのぼっていた血が急に下ったような感覚が耳の奥の骨のあたりを刺激する。鈍痛で万力のように脳味噌を締め付けて汁をひねり出されてるような気分だ。今にも耳から垂れてきそうだ。
 「おはよう」
 朧げな感触が頬に触れる。何度も何度も感じた感触だ。
 「起きたのね」
 僕は動かない身体に鞭を打って振り返る。
 「君は誰だい?」
 冷たい指先が頬から首、喉仏を撫でて鎖骨を摘む。
 「何度も会ったでしょう?」
 わからないよ、と僕は呻く。
 「あなたは私を愛してるのでしょう?」
 彼女が僕を抱き締める。
 ひんやりとした体温が僕に染み込む。
 照明を切ったように、意識が消えた。

*****

 目が覚めた。
 何度も目が覚めている気がする。
 それも途方もない数だ。
 その度にミサコが夢に出てきては、僕に尋ねてくる。
 「あなたは私を愛している?」
 僕はいつだってイエスと答えるんだ。
 でも、その夢は長続きしない。
 だって、その先が存在しないから。
 その先は、ミサコがいないと作れない。
 だけど。
 ミサコはいない。
 ミサコは始めから存在しない。
 形のない存在。
 心の中の産物。
 僕の妄想だ。

 果たしてそうかしら?

 何度も夢想した感覚が、僕の背中に触れる。
 僕は「ぁああ!」と情けなく悲鳴をうっかりと胃から零して飛び退る。
 勢いよく振り返る。
 誰もいない。

 こっちよ。

 冷たい感触に包まれた。
 締め付けられるように抱き締められる。

 ふふふふふ。

 熱い吐息が肩にかかる。
 そのまま耳に移って、直接鼓膜を揺らされた。

 やっと見つけた。

 「お前は誰だ」

 ミサコ。

 「嘘だ」

 あなたが夢見ていたミサコよ。

 「それがどうして現実に出てくる?」

 愛の力かしら?

 「馬鹿馬鹿しい!さっさと起きてやる!」

 それは果たして出来るかしらね?

*****

 目が覚めた。
 隣には、ミサコがいる。

*****

 「起きて、朝よ」
 ミサコがいる。

*****

 ミサコがいる。

*****

 またミサコだ。

*****

 血塗れのミサコ。

*****

 僕を殺すミサコ。

*****

 僕を血に染めるミサコ。

*****
 
 僕の返り血を浴びるミサコ。

*****

 ミサコミサコミサコミサコミサコ。

*****

 ミサコの繰り返し。

*****

 ミサコから逃げられない。

*****
寝る時間をけずってまで何かにハマったことある? ブログネタ:寝る時間をけずってまで何かにハマったことある? 参加中
本文はここから

 冷たく湿った空気の中を、私は明るい世界を這いずるように進む。
 光源の横に手を伸ばして、ぬるくなったコーヒーカップの柄を握って、渇いた喉の表面にかけ流す。一瞬だけ潤って、すぐに表面は乾いてしまった。ところでこれは、何時間前のものだろう。酷く不味すぎて、残りを一息で嚥下する。
 口直しに煙草をくわえる。ライターで火を灯す。煙草の先端を淡い橙の柱に晒し、香ばしい薫りが私の周りを漂い始める。
 疲れた脳は鈍く重く、ぐらぐらと視界が弛み始める。紫煙に酔って溶け出した意識は背骨を伝い腰に溜まり、身体の芯を力を込めていたものが無くなったせいで、真っ直ぐ伸びていた状態がたわんだ。
 椅子の背もたれに身体を預ける。
 眩い光は眼球を通して眼窩に満ちて、外眼筋をじわりじわりと弛緩させる。目蓋は内側に熱を持ち膨張し始めたような錯覚を仄めかす。腫れぼったく重みと厚さを持ち始め多様な気がして、軽く眼球を撫でてみた。ぐにぐにと目蓋は伸びて眼球の上を転がるように滑って、目頭と目尻から涙が滲み出た。
 口にくわえていた煙草のフィルターを噛み、強く紫煙を吸い込む。そのまま肺に通して、口の端からゆるゆると漏らす。
 手をキーの上に置いて、右へ左へと動かす。
 平面上にいる私は酷く薄っぺらい。このぐらい薄ければ、どれだけ楽な人生を送れるのだろう。とりあえず、低レベルの悪魔を毎日50匹くらい狩れば、楽ではないが苦しくない程度の人生は遅れるだろうか。なんて充実した毎日なのだろう!とついテンション一時的に上昇して下降してしまった。
 気温は下げている筈なのに、目の前は煩く唸る電機的な扇が忙しなく回転している。一秒間に何度も旋回して限りがない。
 私はまた紫煙を吸引して排泄する。一度吸うごとに、どれくらい汚れて死亡メーターが増えるのだろう。いつもそんなことを考えている。もう20年か30年分は消費しているだろうか。もっと減れ。非生産的な毎日で無駄な資源を消費するくらいなら、もっと減れ。本当にそう思う。多分、この緩やかな自殺が唯一の生産品だと思う、私の。
 そんな地球環境に優しい私は、この間にも。
 休むことなくクリックを継続している、っていうね。
 あー、人生どうしよう。
 ネトゲ起動してから寝てないや。
 多分二日くらい。
 ついつい夜を明かしちゃうとか、そんなレベルじゃないよね。
 既に。
 私ってばもう、ホント。
 生きている意味あるのかな?
 平面の電子的な住民になりたいなー。



眠い。
私は照明を消した部屋で、床に寝転がる。
布団もベットもソファーもない。
飾り気も個性もこだわりもない。
愛着がまるでわかない無装飾の無機質な部屋だ。
立方体の、サイコロの内側のようなコンクリート剥き出しの部屋。マンションの一室を壁紙を貼らずに利用しているらしい。
家具はない。
備え付けのクローゼットに、スーツ一式が五つほど掛かっている。
着るものはそれだけだ。
何もないここでの趣味は、風呂ぐらいかな。
私は眼鏡をかけている。
眼鏡と一緒に風呂に入る派だ。
暑い。
風呂にはいるかな。
着ていたスーツを脱いで、壁にあるダストシュートのような洗濯物入れに放り込む。
全裸になっても眼鏡は外さない。



さっぱりして出てくる。
腰にタオルを巻いたまま、備え付けのホテルにあるような小さな冷蔵庫から、コーラを抜き取る。
一気に半分飲んで、涙が出た。炭酸が心地良い。
煙草を吸いたいところだけど、生憎と禁煙だ。
もう三ヶ月は吸っていないだろうな。
この部屋には時計はあってもカレンダーはない。
日付け感覚は、カンだ。
あと、窓がないから時間も実はずれているかも。
風呂を出ると、途端に暇になる。
筋トレをしよう。
腹筋背筋腕立てetc。
飽きるほどやって、飽きての繰り返し。
わずかに筋肉量が増えた気がする。
そこそこ広い室内で、駆け回って体力作り。
あー、暇だ。
何してんだろうな、私は。
床に寝転がる。
発狂するのも混乱するのも嘆くのも叫ぶのも飽きた。
私は何故か。
軟禁されている。

iPhoneからの投稿
時間とお金、どっちがほしい? ブログネタ:時間とお金、どっちがほしい? 参加中

私はお金 派!

本文はここから


 お金と時間、どっちを選ぶ?
 俺だったらお金って答える。
 だって、金さえあれば。
 なんだって出来るジャン?

 「お前の命は、たったの3万ぽっちか。笑えるなぁ」
 俺はゲラゲラと笑いながら、地面に転がるサラリーマンの腹を蹴り飛ばした。爪先がぐにゃあっと柔らかく沈み込み、くの字にひん曲がったサラリーマンは「ぐぇえ」と口から何か汚そうな液体を吐き出した。
 「おい女、さっさと帰れ、目障りだ」
 俺は手に持っていたハンドバックを投げ渡し、ゴロゴロと転がるサラリーマンをサッカーボールを踏みつけるように、鼻を踏み砕いて止めた。「ひゃああああああ」と耳障りな悲鳴が煩いから少し捻る。余計煩くなった。
 俺はサラリーマンの通勤鞄から財布を抜き取って、免許証と名刺と札を抜き取った。
 「おいオヤジ、通報でもしてみろ。この免許とそこの女の写真を一緒にして、警察と家族と会社に送りつけるからな”こいつは援交していますって”なぁ」
 俺はポケットから煙草とケータイを取り出して、女とサラリーマンの両方を撮影して保存しとく。火を点けて、紫煙を吐いた。
 「じゃあなー。女、さっさと帰れよなー」

 ちょっとした小遣い稼ぎにはなったかな。
 無造作に捩じ込んでいた札を広げると、五万もあった。「こいつで遊ぶか」なんて気分にはなれず、また捩じ込む。
 良いことした。
 なんて思っちゃあいない。これじゃヤクザものとかわりはしない。
 短くなった煙草を投げ捨てて、新しく火を点ける。紫煙を細く吐く。糸のように伸びて、掻き消えた。
 高架下の空気はひんやりとしていて、今が何月なのかを忘れてしまう。コーヒーが飲みたくなって、座っていたガードレールから立ち上がった。
 高架下を出て、国道を少し歩く。なんとなく、ぶらぶらと。
 時間を無為にするように、煙草で時間を燻らすように。
 自販機を見つけて、小銭を取り出す。
 眼球の中が瞬いた。
 「よー、ヒーロー気取り」
 くぐもった声と笑い声が俺を包むように聞こえる。
 後頭部の奥が鈍く痛み、身体から力が自然と抜けてゆく。脚がかくりと支える力を放棄して、俺は地面に膝をついていた。笑い声がクリアに聞こえた。視線を上に向ける。どうやら俺は自販機のパネルに頭を突っ込んでいたらしい。周囲にはダミーの缶やプラスチックの破片が散っている。
 「何だお前ら」
 「さーな。とりあえず、さっきの金、分けてくれよ」
 緑のTシャツが無造作に伸ばしてくる。俺はそのうちの人差し指と中指と薬指を握り締め、本来曲がらない方向に捻り込んだ。
 嫌な感触と振動が俺の腕を駆け上り、脳と鼓膜を揺らした。陶酔する。酩酊する。
 俺はその手を強く無造作に弾く。人間というよりも獣に近い悲鳴を緑のTシャツは発して転がった。
 その後ろで惚けているドクロTシャツの股間を立ち上がり様に蹴り上げる。胸を締め付けられるような切ない絶叫を俺はにやつきながら、硬直していたドクロTシャツの顎を掴み上げて。
 フルスイングで地面に叩き付ける。そして、そのまま顎を蹴り飛ばした。
 地面に転がっていた棒を手にする。木製のバットだ。
 「これで俺をぶん殴ったのか。いてえはずだ」
 俺はバットを素振りして、呆然と傍観していたグレーのポロシャツに目を向ける。がちがちと歯を小刻みに鳴らしている。不快だ。
 「おい」
 俺は前歯を突いた。「ぎやあ」と漫画みたいな悲鳴を上げた。口を押さえて、身体を折り曲げる。もっさりとした髪を掴み上げて、耳を握る。
 「知ってるか?耳って簡単に割けるんだぜ?」
 「すいませんすいませんかんべんしてください」
 子供みたいに涙を流して涎と血を垂らしている。足下に転がる緑のTシャツが身体を動かしている。ブーツの底で手を踏んでおこう。
 「お前ら、何?」
 俺は握った耳に力を込める。
 「ああ、あんたに潰されたチームだよ!」
 「敬語がなってない、あと不明瞭」みちりと少し千切れる音がした。
 「ああああすいませんすいません!!!援交を斡旋してたチームで貴方に潰されてその仕返しにきました!!!」
 力任せに自販機に叩き付けた。
 飛び散るプラスチックの欠片が周囲に舞い、それが俺の身体にぱらぱらとあたる。とにかくとにかく不快で、ポロシャツの脛を蹴り飛ばした。どさりと転がる。
 静かになった。
 二人の財布から免許証と札を抜き取る。ドクロの財布には千円札が一枚と免許証を持っていなかったので、保険証を抜き取っておいた。
 「おい、起きろ」
 緑のTシャツを起こす。そいつのポケットに入っていた煙草を取って、火を点けた。
 「てめえらの免許証を抜き取っておいた。警察に駆け込んでも、お前らのやった悪事を俺は喋るだけだ。わかったな?」
 緑のTシャツは何も反応しない。そりゃあそうだろう、俺は煙草の火を目玉に突き付けているのだから。
 「わかったら返事しろう!!!」
 「は、はい!!!」
 「じゃあこれをやる。治療費の足しにしな」
 俺は握っていた札束をばらまいた。
 勿論、そいつらの財布に入っていた札だ。

 ああ。
 嫌な気分だ。
 本当に嫌だ、億劫だ、陰鬱だ。
 短くなった煙草を放り捨てて、新しい煙草を抜き出す。ジッポーの蓋を指で弾いて、口にくわえた煙草の先端に火を点ける。
 ジジジと音が微かに鳴る。
 その音は俺の心を鎮めてくれる。
 紫煙を強く吸い込んで、長い時間をかけて吐き出す。
 なんとなしにケータイをポケットから出す。
 画面は暗い。
 黒い液晶に俺が映る。無表情だ。
 赤いボタンを押し込んで電源を入れる。光が灯って、色が浮かぶ。
 女の写真が映った。
 馬鹿な女の写真だ。
 愚かな女の写真だ。
 死んだ女の写真だ。
 俺の、女の写真だ。

 援交して。
 勝手に嫉妬されて。
 本名も知らないような男の女に。
 刺されて死んだ。
 俺の女の写真だ。

 遊ぶ金の欲しさに。
 これからっていう時間を捨てた。
 愚かな女だ。


時間とお金、どっちがほしい?
  • 時間
  • お金

気になる投票結果は!?

 かちりかちりとマウスの平坦なボタンを押し込む。
 鮮明なディスプレイの向こう側に、情報の塊が無造作に転がっている。それを取捨
選択を繰り返して、必要なものを切り取ってゆく。
 「あった」
 ”昨晩未明、30歳前後の男性の「刺殺死体」が発見された。「鋭利な刃物」のようなもので刺された痕があり、遺体は林の中に放置されていたという。犯行に使われたと凶器は未だ「発見されず」、鋭意捜索中である。”
 「いやいやいや」
 俺は煙草を指挟んだまま額を抑え、頭を振る。
 「そんな、まさかな」
 逸る心臓が鼓動を暴れさせて、そのままうっかりと口から溢れてしまいそうになる。俺はそれを押さえ込むように指の隙間に煙草を挟ませたまま、口元を手で覆った。突き出た煙草のフィルターを銜え込み、熱を持った煙を吸い込む。深呼吸をするように、肺と血液に浸透させて、四肢の先まで染み込ませる。濃密だった煙は身体に吸収されて、深く吐き出す頃には随分と薄まっていた。脳は煙に酔ってふらついている。安定感のないまま思考をどうにか巡らせる。
 これからの行動指針を決めなければ。
 安楽椅子探偵を気取ろうにも、情報があまりにも足りなすぎる。
 ならば能動的に動くべきか。犯人は現場に必ず戻る?現場に行くべきか?
 いや、それはむしろ俺だろう。のこのこ出て行ったら、まんまと捕まってしまうじゃないか。
 なら、受動的に動くべきか?進展があるまで待って、そうしてから動くべきか?
 慎重に選ばなければならない。
 もしも、ことの殆どを警察が把握しているのであるとしたら。俺はもう何をするにも遅すぎるだろう。
 あるいは、まだ何も掴めていないとしたら、隙を突くことは可能だ。
 そして、一番希望的観測なのが「何もなかった」という状況だ。俺は何もしていない。ただの勘違いだった。それが理想的だ。
 では、決めよう。
 俺は、何をしたい?
 全てを知りたい。
 俺は椅子から立ち上がる。
 クローゼットを開いて、皺一つないスーツ引っ張りだす。
 それをはためかせるようにして羽織る。
 ネクタイを締め、タイピンを挟ませる。袖口にカフスを縫わせ、を刺した。片耳にピアスをぶら下げて、色の入った眼鏡をかける。
 起き抜けに着ていた服装と、真逆に仕上げてみた。若干長い髪を全て掻きあげて、オールバック風に決めてみた。髭も全てそり落としたし、これでいいだろう。
 靴はカジュアルな革靴を選ぶ。軽く磨くと、ツヤツヤになった。足を入れて紐を縛る。
 地面に降り立って、踵を鳴らす。
 扉を開いて玄関を出た。

 思えばそれなりに、充実した人生だった。
 今まで不都合なく苦楽もなく、満然として当たり障りのない。それだけれど、同時に未練も生まれないような、さっぱりすっきりとした後味の悪くない生き方だったと思う。
 我ながら、欲がないなぁと思う。
 望めば望むほど、求めれば求めるほど。理想という頂は高くなり、それを登るための現実という手足は重たくなるのだ。
 だから俺は、務めて無欲でいようとしたのかもしれない。
 外は曇り空だった。薄暗い景色はどんよりと空気を汚していて、俺の気分は最高潮に重くなっている。
 ピッタリとしているスーツの肩まわりのせいで、肩の荷は荷重を増している。仕事以外で着るには堅苦し過ぎる。嫌いじゃないのにな。こんな気分で着ているからか。
 内ポケットから煙草を取り出して、一本咥える。今にも降り出しそうな湿った空気に堪えられなくて、つい手を伸ばしてしまった。歩き煙草良くない。
 喉の奥が渇いたような気がして紫煙を飲む。渇きはより一層増したが、心は潤ってゆく。喉を傷つ痛ませる刺激が心地良くて、背徳的な酩酊が僅かに湧き始める。煙草だけは、死んでも手離せないと思う。未練になるくらい愛してしまっている。
 俺は少しだけ気分が軽くなって、足取りを僅かに早めた。

*****

 殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる。
 「殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる」
 ボクの愛するミカリンをあいつは醜く不衛生で見るにも堪えない手で触れやがった。許せない許せない許せない。ミカリン汚物のせいで穢れて爛れて患部が化膿して手遅れになってしまう。
 直ちに切除しなければ。

 ぱっと。
 紅い飛沫が宙を舞った。
 なんと美しいことだろう。
 さすがミカリンだ。
 体液すらも神々しい。
 おっと。
 ミカリンの右手が地面に汚れてしまった。早く拾って。切断面の砂粒を取り除いて、ジップロックしないと。
 腐ってしまうからね。
 ボクは口元の雫を手の甲で拭い、勿体ないから舐めとる。
 甘い味がした。
 ミカリンの右手のあった場所も、綺麗に舐めとる。紅いジュースが滴り過ぎて、どちらかというと飲む感じだな。あーおいしい。
 ジュースを飲ませてくれるくらい仲良しの私たちは、うふ。泣いた顔も隠さずに抱きしめ合うのだ。うぷぷぷ。羨ましいだろお前。ミカリンの泣いた顔可愛いだろ、うへへへ。チューだってしちゃうんだぞこの野郎。
 よくもミカリンにキスしてくれたなこの腐れ肉野郎。死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね 死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね。
 「はーっはーっはーっはーっはーっはーっ」
 ぐちゅぐちゅと音を立てる脇腹から、なんだか気持ちの悪いものが見えた。それがキモいから反対側に蹴り飛ばし、ひっくり返す。虚ろな死んだ魚のような眼は見えなくなった。
 どうせ見るなら、ミカリンのビー玉のような綺麗な瞳だよね。正面から覗き込む。涙で潤った綺麗な瞳。あまりに可愛くて舐めてみた。きゃーと可愛い悲鳴をあげる。びっくりしたみたい。ごめんごめんと抱き締める。
 健康的な白い骨を剥き出しの右手に包帯を巻いて上げて、もう一度キスをしてあげる。ずっと震えっぱなしで泣っぱなしのミカリンを抱き締める。
 きっとすごーーーーく怖かったんだろうね。この気取ったスーツ野郎 が!
 蹴とばしたけど、怒りが収まらない。火でもつけてやろうか。
 まぁいいや。そんなことよりも。
 ミカリンを治療しないとね。
 じゃあね。
 ボクはもう一度キモイのを蹴り飛ばして、ミカリンをスーツケースに詰め込んだ。

*****

 ーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!! 

 私は音を出した。
 でも、その音は人間には聞こえない高さだったらしい。
 だって、私にも聞こえなかったもの。
 あるはずのものが失くなる感覚は、おぞましさに総毛立った毛が一回転して全身の肉をこ削ぎ取って熱湯で煮てそれを元の場所にえぐる様に無造作に詰め込んだ感覚に似ている。
 この頬に伝う涙は、私の右手が堕ちてしまった悲しみか。それとも、その痛みゆえか。
 それとも。
 隣で眠ってしまった背広がくたびれた彼への涙なのか。
 私には、わからなかった。
 怖い。
 怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。
 怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。
 誰か助けて。
 「 っひゅー」
 声は掠れてでなかった。
 喉の奥が裏返って吐き出す空気がこもった様な感じがした。
 空気の振動は音になれなかった。
 声も手も失ってしまった。
 羽を失くした蝶の気持ちが、少しだけわかった。
 私は涙をまた流す。
 口に少し入った。
 血の様な味がした。
 それが何だか物悲しくて、また涙が溢れる。
 涙を拭きたかった。利き手を目の高さまで持ち上げる。全身に怖気が奔った。
 骨が見えていた。肉が見えていた。血が噴き出ていた。
 手首から先は、失っていた。
 痛みを通り越して、何も感じない。
 いや、衝撃で痛みを塗りつぶされていた。
 形容の仕様のない、色で言うならば黄と白と赤を混ぜて黒で割ったような、鮮烈で目の中に火花と電気を走らせたような頭痛と耳鳴りのする痛みだ。
 目の前で、大きな鋏のようなもので。強引に押し潰すように手を切られた。腕の皮と肉に喰い込む鋏の鋭い痛みと言うよりも、感覚と。骨を強引に押し潰し、砕け、割れる。体内からの振動と感覚が全身に響いて末端まで伝わる感触が、今も脳髄で留まっている。
 それは。
 恐怖の塊だ。
 今もそいつは、右手に鋏を。そして左手に私の右手を袋に詰めて持っている。それを視界に入れる度に、身体の芯から発する震えが私の奥歯をがちがちと揺らす。
 逃げたい。
 でも、横で眠っている彼が握り締めるナイフを目にすると、私の本能は萎んでいって。逃げること諦めてしまう。
 もう駄目だと。
 いっそのこと、楽になれれば。
 どんなに良いことか。

*****

 煙草は雨で湿って、火は消えてしまった。
 それを唾を吐くように吐き捨てて、新しいのを1本引き抜く。
 濡れた手から湿り気が移る。
 気にせず火を点けた。
 濡れたせいか、味が少し変わった気がする。
 気がするくらいの程度。
 でも、何だかしっくりこない。
 煙草を吹かす。
 ゆるゆると口の端から紫煙は溢れ、雨に掻き散らされてゆく。
 大気に薄まるように溶けていって、消えてしまった。
 雲の切れ目から、橙色と朱色を混ぜ合わせたような熱を持った夕陽が射した。
 それが照らし出す。
 俺の肉体を。
 腹を裂かれ、内蔵を零し、血を吐いて、ナイフを握った。
 俺を。
 夕陽は紅く染めていた。
 俺は、煙草を酸素のように吸っては吐いて。
 「                  !!!」
 叫んでいた。
 なんて叫んだのかは、自分でもわからない。
 無意識のうちに腹を押さえていたが、果たして意味があるのだろうか。
 煙草は銜えたままだ。
 味も薫りも、もう感じられない。
 というよりも、何も感じられない。
 思考は溢れて感情は弾けて衝動は噴いて、無になった。
 何も無くなった。
 俺も無くなった。
 命も無くなった。
 過去は無に帰し。
 現在は意を消し。
 未来は味を濾し。
 純水よりも薄まった俺は煙草の紫煙をその身で濾過出来なくなって。
 風に吹かれて舞うように身体は巻かれてしまう。
 散らされてしまう。
 身体から力は抜けてゆく。
 いつの間にか空を見上げていた。
 俺はどうなってしまうのか。
 いつも見上げていた空は、透き通るような青だったのに。
 今日に限って、夕陽に燃やされたような赤だった。
 ふふふーふー。
 酔いが良い感じに回っている私は、自分で思っている以上に楽しんでいるらしい。
この状況を。
 まったく見知らぬ知り合ったばかりの男性、それもナンパと。よくわからない自分探し真っ最中十代のような、赤面物の会話を存分に交わした後、こうして手を繋いで散歩をしている。
 それを、私は満面の笑みを隠そうともせずに大股で歩いているのだ。
 まだ自己紹介私達は、彼は私のことを「帽子さん」と呼び、私は彼を「スーツさん」と呼ぶ。まるでチャットのオフ会のような気分だ。そういうのもあって、何だか楽しい。まるでゲームの中みたいだ。あ、でも今はチャットなんて時代遅れか。年齢バレちゃう。
 「ねぇ、帽子さん」
 「なぁに?」
 「これからどーする?ダーツとかビリヤードでも行く?」
 「うーん、何だかラーメンとか食べたい気分」
 「飲むとラーメン食べたくなる人?」
 「そうそう!お腹一杯な筈なのに!太っちゃう!」
 私はキャーと年甲斐もなく顔を手で隠す。いや、頬を隠す。さりげなく顎も。
 でも、離した手が淋しくて。
 すぐに手を繋いだ。
 まだ知り合ってから三時間も経ってないのにねー。ホント不思議よねー。私ってば軽い女だったのね、知らなかったわー。
 全部アルコールの所為にしちゃおう。そうしよう。
 「 」
 私は何も言わず、彼にキスをした。
 彼は面食らいながらも、それに応じてくれる。
 遊びだから、楽しい。
 なんだって出来る。
 酒と煙草に酔っていれば、割り切ることは。そう、難しいものではない。
 むしろ容易い。
 「    」
 口を開きながらも、無言で空白の時間は長い。
 アルコールの所為で熱を持った舌と唇は熱く、まるで火傷を通り越して溶けてしまいそうだ。
 身体が自然と疼く。
 煙草の味のするキスは好き。
 もっと味わいたい。
 彼の太い首に腕を巻き付かせて、強く強くしがみつく。
 子が父に甘えるように、強くしがみつく。
 だって相手はおじさんだしね。
 「スーツさん」のスーツは煙草の匂いが染みていて、とても好ましい。彼の汗の臭いも悪くない。さりげなく感じる柑橘の匂いも、悪くない。
 私と彼は、一度口を離す。
 はにかんだような、深い笑み。悪戯をした時の、そんな表情。子供心をお面にして被ったら、きっとこんな感じになるだろう。
 「ねぇ、ホテル行く?」
 私ってばはしたないわ!キャーキャー!
 なんて叫びたくなる。
 恥ずかしくて抱きついて、表情が見えないように彼の胸に顔を埋める。
 あれ?おかしいな?
 最初は他人がどーたら、孤独がどーたら。
 なんてことを宣っていた筈なのにね?
 まぁ、そんな日だってあるじゃないさ。
 ないかな?
 今度は彼にせがまれてキスをする。優しく温かい包まれるようなキスだ。
 彼の雰囲気を、そのまま行為で表したようなキスだ。
 私達は呼吸を合わせながら口を離して、手を繋ぐ。
 つがいのオスとメスが道行く方面に紛れ込む。
 腕を絡めて肩に頬を寄せて。
 まるでカラオケのPVを演じている様だ。
 ネオンの中を泳ぐようにして、私達は有象無象の中に溺れて行った。
 俺はこれまでの人生で。
 それなりに善良な人間であると思っていた。
 学生時代も、会社勤めを始めてからも。無遅刻無欠席は当たり前で、自分の身体を
それなりに労ってもいたから、風邪なんて十代の頃からひいたことがない。スポーツをそれなりにしていたから、身体にだって未だ不調は出ていないし。勉強だって平均点を取れるぐらいの、不都合不満のない程度の知識も知恵もある。
 至って平凡な人間だと、それぐらいなら胸を張って言えると自分では思っている。
 欠点と言えば、趣味がないというぐらいかな。
 その所為で「つまらない」と良く言われる人間だ。
 唄は苦手かな、恥ずかしい。代わりにボーリングやダーツとか、ビリヤードを良く好む。
 ああ、なんてつまらない男なのだろう、俺は。
 女性を誘うことはおろか、男友達とさえ遊ぶのに苦労しそうだ。
 ゲームはやらない。テレビはニュースくらい。映画と本は嗜む程度。ラジオは車の中位で、唄は青春時代の洋楽程度。
 何か一つ、これってのはないのか。俺は自分に問い質すが、返ってきたのは煙草と酒と珈琲。
 いや、趣味じゃないだろう。
 俺は自分につっこんでしまった。
 あとは仕事含めてPCを良く触るかな。テレビ見ない理由が、情報源がPCだけで十分だから。まるで今時の若者だね!俺って本当に若いね!

 じゃなくて。

 どうして見覚えのないナイフが俺の部屋にあるんだ?
 砂袋のような寝起きを消化して。
 焦点を結んでみれば、鞄の口からぽろりと溢れている紅いナイフと見つめ合ってしまった。
 本当にどうしたんだ。
 あれか?新鮮な刺身が食べたくて、生きた魚を捕ってきて捌いて食べて、包丁を持ったまま寝たとか寝ぼけて仕舞ったとか、か?
 んあわけあるかすっとこどっこい!
 纏まらない思考を助走をつけて砲丸投げのように吹っ飛ばす。
 さっきはこわごわと、そろそろしずしず部屋の中をうろついてみたが、ナイフを湿らせる紅い雫の持ち主を捜してみたが。
 部屋の中には見当たらなかった。
 エッジの紅い装飾に触れてみる。
 ああ、なんてことだ。
 英語で言うなら”oh my god.”
 想像した通り血液だった。どうしようもない位血液だった。確証はないけれど想定範囲内の血液だった。
 何の血だ。あるいは、考えたくないが、誰の血だ。
 本当にもう、「どうしたことだ」

 俺はインスタントコーヒーの粉末をカップにどさりと盛る。ポットから勢い良く熱湯を吐き出させ、スプーンで掻き混ぜる。窓を開け放って、煙草を銜えた。ターボライターの火は先端を容易く焦がし、俺は紫煙を吸引する。胸一杯に吸い込んだまま、息を止める。
 そして一拍おいて、吐き出した。
 溜め息を吐くように。
 頭痛の種は中々尽きてくれない。
 仕事も。
 人生も。
 日常も。
 現実も。
 何もかもが俺の敵だ。
 学生を終えてから早十年、友人との繋がりはいつの間にか絶えていた。自分の命を賄うのに躍起になっていて、知らず知らずのうちに途絶えていった。交際をしていた恋人とも、気が付けばっていうやつだ。
 でも、そういう予想は出来ていた。
 社会に出て。
 心の中の何かが、金属ヤスリで容赦なくごりごりと削られる、そんな感覚を毎日感じるようになって。傷口からはぐじゅぐじゅと肉と血とぼろぼろになった肉塊が溢れて、俺の中の何かが綺麗さっぱり欠けてしまった。
 そんな気がするのだ。
 俺の身体の中心には、綺麗な真円の空洞がある。そんな風に、何かが欠けてしまった。
 それ以来、いつかはそうなるという予兆と予感があった。
 案の定だった。
 予定調和だった。
 ぷかぷかと紫煙を浮かべながら、ごくごくとコーヒーを飲み干す。
 孤立無援の俺は、孤軍奮闘するしかない。
 とはいえ、どうしたものか。
 最悪の事態を想定するものの、一番最初の第一歩を踏み出せない。
 何をすればいいのかわからない。
 ナイフを隠匿?
 それとも事件の隠匿?
 いや、そもそも。
 俺は何をしたんだ?
 ナイフにも見覚えがないというのに、俺はいったい何をしたんだ?
 このナイフは何処から出てきたもので、何をした後の状態なんだ?
 このナイフ誰の所有物で、どういう経緯から俺に渡ったんだ?
 わからないことだらけだ。
 
 何より最も救いがたいのが。
 昨日の記憶がまるでないというこの事態。
 本当にもう、「どうしたことだ」
 紫煙を吐き出して、頭を抱えた。
 私は夜の街が好きだ。
 俯いている人。何処かを見ている人。前だけしか見ていない人。友人しか見ない人

 他人を視界に入れず、自分だけの世界を歩く人。友人までしか己の領域に入れない人。
 街には有象無象が溢れているのに、本質的にも実質的にも孤独だ。
 その感覚が堪らず好きで。
 私はお気に入りの帽子を被って夜の街を歩き出す。
 「ねぇ、帽子の君」
 「へ?」
 唐突に。
 私の常識が崩された瞬間だった。
 「少し時間ない?飲みに行かない?」
 
 「いつもこうやっているの?」
 私は名前も知らない男と、酒を飲んでいる。
 「いや、いつもじゃないさ」
 男は窮屈そうなジャケットを脱いで、ジョッキを呷っている。変わったデザインのタイピンやらカフスやらピンズが少し気になる。
 「ただ。今日は誰かと一緒にいたかったんだ」
 「なんて失礼な人なの!」と憤りながらも、私はジョッキのビールを胃の中に流し込んで、酒と諸々嚥下する。
 だって「君の被っている帽子があまりにも可愛くて、つい声をかけてしまったんだ」なんて言うんですもの。
 初めての感覚と賛美に酔い痴れて。つい酒に酔いたくなってしまったのだ。
 なんて私は馬鹿なのだろう。こんな親父の一歩手前の男に引っ掛けられて。
 「運命、とまでは言わないけれど。でも、君のように素敵な帽子が似合う人に出逢えたのが、奇跡に思えたんだ」
 クサイ台詞を堂々と吐くこの男。
 でも、不思議と悪い気がしないのは、果たして帽子を褒められてるからなのか。とりあえず、酔いが回っているのもその一つだろう。
 「これってナンパなの?」
 「いや、そんなつもりは微塵もなかったよ」
 酔っぱらいはとぼけているのか。それとも真剣なのか。イマイチ判別がつかない。
 「なら、話題はなんでもいーよね?」
 「ああ、勿論だよ」
 ならばと私は好き勝手に喋ることにする。
 「ねえ、人生ってどうすれば満たせるかな?」
 「ん?」
 「私は、自分の人生が空っぽな気がするの」
 私は空になったジョッキを覗き込んで、おかわりを頼む。
 「私の人生は色も匂いも味もない。重さも厚さも長さもない」
 「不満なのかい?」
 「不満じゃないわ、物足りないの」
 「何かに没頭したり、惹かれたりは?」
 そんなもの、出逢ったことがない。そう私は拗ねたように呟く。店員さんがいっぱいに満たしたジョッキを持ってきた。
 「これくらい満たせられたら、幸せになれるかな?」
 私はそう言って、半分くらい一息で飲み干す。酔いが強く増した気がする。
 「きっとそれぐらいなら、探せられるんじゃないかな?」
 「でも、これがどの程度の幸せかわからないわ」
 私は焼き鳥にかぶりついて、味を噛み締める。しみ出した肉の脂は確かな味で。何処まで酔って、何処までが本音なのかわからない。
 「私は初対面の人に、何を話しているのかしらね」
 「旧知の仲に話すよりかは気楽な話題じゃないか?」
 「それもそうね。何でも話してしまいそうだわ」
 枝豆の塩加減が絶妙で、うっとりしてしまう。
 「おじさんは良い人ね。煙草を持っていない?」
 「あるよ」と内ポケットから箱を渡してくれる。
 私は有り難く一本頂戴して、口に銜えた。おじさんは戯けたように火を差し出してくれて、私は火を吸い込んだ。
 アルコールに酔いながら、タールを味わう。
 強い酩酊感が私を絡めとる。きっと、夢に蜂蜜とミルクを垂らしてジンジャーを混ぜて飲み干せば、同じ感覚になれるんじゃないだろうか。
 「俺の人生も空っぽだ。思い返せば、同じ日々の繰り返し」
 おじさんも煙草を銜えて独白じみたことを始める。
 「一年前も二年前も、変わらないことをしていた。今日こなした作業は一昨日やった作業と変わりなくて、昨日やった作業も先週やった」
 代わり映えのない日が、十年も続いている。そう言っておじさんは紫煙を吐いた。
 紫煙の中には溜め息と諦めが混じっている気がした。
 「今日は、久しぶりの変化だ」
 そう言って、おじさんは微笑む。口元の皺をなぞりたいと思った。
 「ねぇ、少し風に当たりたいわ。散歩に行きましょう」
 私は煙草の味にも、酔っていた。
 気が付けば倒れていた。
 柔らかなベットの上で、死んだように。
 夢も見ずに寝ていた。
 身体を持ち上げると、脳髄が下るように意識が垂れてゆく。
 まるで眼球と眼下の隙間から垂れて、蒸発して。
 何もかもがなくなってしまいそうだ。
 全てが霧散して、萎んでしまいそうだ。
 人が眠るのは、眠いからじゃない。
 疲れたからだ。
 疲れたから眠りにつく。
 睡眠も。
 永眠も。

 ベットから抜け出すと、自分が背広を着たままなことに気が付いた。
 ネクタイはずるずるになっていて、首に軽く巻き付いてる。
 全身は汗と脂で不快だ。体臭も気になるし、整髪料も不快だ。
 俺は服を脱いでシャワーを浴びる。
 冷水を浴びると意識が凝固してゆくのを内側で感じた。
 そうか。
 昨日は飲んで帰ってきたんだ。
 仕事の同僚に連れ回されて、浴びるように飲んで、家に着いてそのまま寝てしまっ
たんだ。
 ああ。
 なんてつまらない人生だろう。
 毎日が同じことの繰り返し。
 毎週も毎月も変化はなく。
 リピート再生のように寸分違わない人生だ。
 摩耗する一秒は十秒後には磨り減って、九秒八秒七秒と同じことが繰り返される。
 さながら、金太郎飴のように。
 繰り返しは甘い甘い飴のように歯を溶かし、理性を溶かし、感情を剥き出しにする
 気が狂いそうになる。
 昨日を思い返せば、一昨日と同じことをしているのだ。その一つ前も。そのまた一つ前も。百日前も。千日前も。万日前も。
 ずっと変わらず。
 ずっと繰り返し。 
 「俺は一体何をしている?」
 冷水で冷えた筈の身体の内側は熱ぼったく血潮が巡り、それがそのまま脳に伝達される。
 アルコールの所為なのか、頭の中がぐるぐるぐるぐるぐると思考が堂々巡り延々と繰り返される。
 次第に、俺は理性を遠投でぶん投げて地面に落ちてぐちゃりと潰してしまった。

 俺は昔を思い返す。
 するといつも、中庭でパンを齧っていた自分が再生される。
 理性も感情も。
 理想も現実も。
 何もかもが再生される。
 戻って孵ってくる。
 ああ、そういえば。
 俺はいつも今を憂う時、高校生の自分を模写する。そうだ、模写だ。自分の心に擬似的な模造品を投影するんだ。
 そして、高校生を必ずモデルに選択する。
 何故だろう。
 自分ではその理由がわからない。
 それは一番その時期が輝いていたということなのだろうか。
 それともそれが一番始まりだからなのだろうか。
 それとも、その時に自分が終わったからなのか。
 何だとしても。
 結局は今も昔も俺は俺で、結局のところ。
 きっとこう言うに違いない。
 「くだらねえ」
 高校生の俺は、自分の将来をどう見ていたのだろう。
 金のように輝かしい?銀のように美しい?胴のようにくすんでいる?
 まぁ、間違いなく一番最後だろうな。
 自分が成功者でない確証はなくとも、しかし夢を見られる程、要因もない。
 ”もしかしたら”なんて夢は見なかった。
 それほど幸運であるわけでもなく。
 それほど努力をするわけでもなく。
 それほど熱意があるわけでもなく。
 それほど才能があるわけでもなく。
 それほど秀才であるわけでもなく。
 俺はただの平たい凡人だった。
 平凡で。
 起伏はなくて。
 突出もなく。
 凹凸もない。
 ただの人だった。
 有り触れた有象無象の一つでしかなかった。

 「さて」と俺は身体を拭きながらバスルームから出てきた。
 なんて、横文字で飾るような部屋でもないのだが。
 冷水を浴びながらトリップをしていた俺は、意識を取り戻す頃には身体が勝手に震えていた。紫色の唇をもとに戻すのに温水を浴びること五分。何だか変な体調になっている。
 冷蔵庫を開けてペットボトルを抜き出す。
 冷たいミネラルウォーターを喉の奥に流し込んで、噎せた。
 脳髄の芯を刺すような冷たい刺激は、五分かけて温めた熱を内側から吸収してゆく
 茹だったような溶けている感覚の意識はきゅっと冷えて固まって、きっと良い感じに旨味成分を閉じ込めているのに違いない。
 俺は全裸のままうろうろと歩き。
 ふらふらと視線を彷徨わせ。
 くらくらする頭を固定して。
 ベットに腰掛けた。

 「これ、どうしよう」

 俺は、鞄の中から出てきた。
 紅く染まった鈍色に光る。
 随分としっくりくる。
 記憶にない。
 感覚もない。
 見知らぬナイフを強く握り締める。
 手は、真っ白になっていた。

*****