一連の話は、⬇️このあたりから始まります
はじめに
母とのやり取り 及び おやきょうだい、親戚の記録。
頭の中で自分に都合よく書き換えられる前に
書き留めておかなくては。
回想も交えますので 時系列では無いことも多々あります。
ご容赦ください。
書き連ねているのは全て事実です。
最近、親の洗脳が解けた。
その言葉は「おまえは要らない」でした。80代の母が 50過ぎの娘に。
その後の私の判断は 親不孝かもしれない。
でも私は、これから生きていく未来のある自分の子らに同じ思いをさせたくない。これからは今回のことを思いながら生きていこうと思う。
頑固かもしれない。自分勝手なのかもしれない。
わがままなのかもしれない。
でも、書く。
書いて 振り返ったり 前を見たり。
お目汚しになると思われますので
トラブル系が苦手な方はここまでで。
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母親。
厳しい父とは正反対の、優しい母だと思っていた。
優しくなんかない。
自分の子供だからという責任で
母も働いて 兄と私を育て、学校にも通わせて貰えた。
有り難いよね。
今だから客観的に見ることが出来る。
両親共に外ヅラは良いんだ。
だから 周囲の人たちから頼られる。声をかけてもらえる。そんな人。
上手に使い分けができるって、器用なんだろうな。
上手に立ち回れる人って、性格が不器用な私には 時にうらやましく映る。
そういえば、彼女の口から出る話は、仲の良い人の話は嬉しそうにするが、嫌いな人の話も口汚く子供にするんだ。
それを聞いて
そんな人もいるんだ、酷いな…って思ったものだけれど、あれ?…嫌いな人の話なんて わざわざしなくても……。
コンプレックスをしいて言えば、長女だったばっかりに 中学卒業後は家業の店を手伝っていたとか。
額に汗して働いている時に、楽しげな高校生活を送る子達を目にするのは なんとも言えない気持ちだったのだろうな。
今年82歳だが、いまだに 自分より成績が良くなかった同級生達が高校に通わせて貰えていたことを 悔しがっているので、よっぽどだったのだろう。
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そういえば私が小学生の頃 、母は近くの運送会社の事務をしていた。
そこで 一緒に働いていた もう一人の事務員女性Aさん となにがあったのかは知らないけれど、母はそこを辞めることになった。その後、別な仕事に転職した。
私が中学生の頃だったろうか。
「今日、病院に薬もらいに行ったら 待合室にAがいた。気安く話しかけてきたから 怒鳴ってぶん殴ってやった。あー!せいせいした」と笑って話していた母。
何かのきっかけで自分の感情のままに動くことがあるんだな。
その時の母の笑った顔は とても怖かったのを覚えている。
今の時代では 到底考えられないな、、、、。
警察沙汰とか裁判沙汰とかにならん?
その件はたぶん母が40代ぐらいだった頃なののかな。
にしても、今よ、今。
今までは理性で抑えられていたものが、年齢と共に難しくなってきているように見受けられる。
父という存在で、歯止めがかかっていたのかもだな。
話は数年前になります。
正月に オットや子供らと実家に帰った。
兄一家も帰省していた。
私らは、昼前に着いて昼食後に帰る。
毎回滞在時間が短い。数時間でないと、私が持たないから。
何も知らず
「ゆっくり泊まっていけたらいいのにね」という兄嫁さん。
「あぁ…💦 明日 仕事なんで」
と答えると
兄嫁は「介護の仕事なんてやらないで、もっと効率のいい仕事すればいいのに。」と 無邪気にのたまった。
母も 同調して相槌を打っている。
兄嫁「介護なんて、素人のボランティアでもできるでしょ?笑」と。
あ、無邪気じゃなくて、見下してたんだ😅💦
てゆーか
え、、、何言っちゃってんの?
介護なんて?
もっと効率のいい仕事?
効率ってなにさ?
素人のボランティア?
じゃあ兄嫁よ、、アンタは自分の両親がこの先介護を必要としても 施設頼んなよ?自分でみろよ?なぁ?素人でも出来んだろ?
もちろん口には出さない。
私がイラッ💢としてその場を去ると
私のことを"人より多い時間働いても少しの給料だ"とか"自分たちの生活で手がいっぱいなのは、底辺の仕事をしているから"と母が兄嫁に言っていたのが聞こえてきた。
ムカムカして、用があるからと 割と早い時間に実家をあとにした。
兄は、見た感じの雰囲気だけでなく中身も母に似た人をお嫁さんにしたんだね。へー🙄
母のことを「でも、生きてるだけいいじゃない」と言われるが
今の私にはわからない。
父が亡くなった時でさえ、涙は出なかったのだから。
犬や猫が亡くなった時の方が 泣いた。
思い出したら今でも涙が出る。
いやー、遅かれ早かれ母と絶縁するんだったら
あの時 母と兄嫁に言い返してたら良かった…のかな?💦