訪問先 鳳凰古城(Fènghuáng Gǔchéng)その② 〜昼間の鳳凰古城編・1〜
訪問日 2022年7月30日(土)
鳳凰古城だが、湖南省の西部に位置し、苗族ら少数民族らが作り出した独特な文化に、美しい自然とが織り交ざり、明・清代の古い町並みが残る村だ。
昼間の鳳凰古城をあるいてみます。
では行ってみましょう!
鳳凰での旅行で泊まるホテル「鳳天国際大酒店」(Fèngtiān Guójì Dà Jiǔjiàn)だ。コロナ禍の影響か、鳳凰では外国人を受け入れるホテルはここだけであった。
さてと、ホテルを出発!
鳳凰古城へ向かう途中、壁一面に「招聘」(zhāopìn)と書かれた紙がたくさん貼られている。“招聘”とは、日本語で“求人募集”を指す。
鳳凰古城の入り口「南華里遊客服務中心」(Nánhuālǐ lǚkè fūwù zhōngxīn)、2019年に落成した。ここから鳳凰古城へと進みたく思います。
南華里遊客服務中心のそばを流れる小川。
“古城”の言葉とは似合わない真新しい建物を抜けている。
大きな広場に鳳凰の像がみえてきた。ここは「文化広場」(Wénhuà guǎngchǎng)という広場。
文化広場と隣にある大門「阜城門」(Fùchéng mén)。ここから古城へと入ります。
まだまだ古城という雰囲気は感じられない。「東正街」(Dōngzhèng jiē)という通りだったかなぁ?通りを進んでいきます。
白壁に“鳳凰城”と書かれた壁。「鳳凰城牌坊」(Fènghuáng chéng páifāng)と呼ばれ、朱鎔基元首相が筆を振るった。そしてその裏にみえる建物がチケットセンターだ。
※朱鎔基元首相についての説明。私は2000年、TBSの筑紫哲也の番組に出演した番組を見たをの今でも覚えている。
蛇足ながら、中国の至るところ“江沢民、江沢民…”と、江沢民元国家主席が筆を振るった字が掲げられている。朱鎔基の字を見るをみれるのは非常にレアだと思う。
さてさて、、、
こちらがチケットだ、鳳凰古城の8つの風景と舟に乗ることができて128元(約2560円)。
こちらが裏側だ。実際のところ、鳳凰古城内の街並みを楽しむだけなら、チケットを買わなくともよい。
チケット売り場の並びにある「雷雨田私立古城博物館」(Lèi Yǔtián sīlì gǔchéng bówùguǎn)だ。
ふむふむ。説明によれば、鳳凰出身の芸術家で雷雨田(Léi Yǔtián)が館長を務める個人の博物館で清代の役人・陳宝箴(Chén Bǎozhēn/ちん・ほうしん)に関する事柄、鳳凰古城に関するものや雷雨田自身の芸術品を展示している。
雷雨田私立古城博物館のなかへはいると、この博物館のいわれを書いたものが立っている。
入って左側に見えた門。「陳宝箴世家」(Chén Bǎozhēn shìjiā)と呼ばれるエリアだ。進んでみます。なお“世家”は日本語で“名門の家柄”という意味だ。
小さな中にはの水瓶の淵に小鳥がとまっている。
奥には陳宝箴の肖像画が。陳宝箴は江西省生まれ。光緒元(1875)年、軍事と政務を司る官職を授かり、当時の鳳凰地区を治め、貧しい民にお茶や芋や栽培を教えたそうだ。
※陳宝箴について。簡単な説明がwikipediaさんにあったので、良ければこちらからどうぞ。
先ほどの館内へ入った大きな中庭へと戻ってきた。奥に見える建物へ入ってみます。
建物内には、館長を務める雷雨田自身の作品が飾られている。
※雷雨田に関する詳しい説明は見当たらないが、雷雨田に関する中国語の記事はこちらから。
また博物館内には、かつて鳳凰で使われていたものが展示されている。
では、次のところへトコトコ歩いていきます。
お店の軒には簾。
人が集まっています。どうやら到着したようです。
次にやってきたのは「沈従文故居」(Shěn Cóngwén gùjū/しん・じゅうぶん こきょ)だ。なお、“故居”とは日本語で“昔住んでいた住居”という意味だ。
沈従文は中国の著名な文学者で鳳凰の出身だ。入口に沈従文に関する説明が立っている。
※沈従文に関するwikipediaさんの説明はこちらから。私は、沈従文という文学者はここへ来るまで知らなかった。
沈従文故居のなかへと入ってきた。この建物に掲げられている額には「沈従文舊居」とある。尚、“舊”は“旧”の旧字体。
沈従文の石像が置かれている。
ベッドのそばには沈従文が生前使っていたレコードプレイヤーが。沈従文は音楽を聴きながら作品を書くのが好きだったという。
テーブルには本、硯と筆がおかれている。この鳳凰古城を一躍有名にさせたのが沈従文の『辺境』という小説だそうだ。
東正街を道なりに歩いてみます。
古そうな建物に立派な看板が掲げられている。
道ばたに咲く可憐なお花。
ハンコ屋さんの軒先にかかるうちわ。風が吹くとうちわが揺れて涼しさを感じる。
昼間の鳳凰古城だが、当時はコロナ禍でもあったり、また真夏の昼なので人が少なめだ。
どこかの猫ちゃんが建物の壁にそって歩いています。
「天后宮」(Tiānhòugōng)との額が掲げられた建物が見えた。
説明書きによれば、天后宮は別名媽祖廟と言われ、明代に建立された。現在の建物は清代乾隆四十五(1780)年に再建されたものだという。
天后宮へと入ってみた。奥には媽祖殿(Māzǔ miào)が見える。媽祖は道教の神で、普通、海の安全を守る神と言われる。
お堂のなかに仏様の名前が掛けられ、そこに太陽の日が当たっている。
天后宮のなかにある「財神殿」(Cáishén miào)。敷地内には媽祖殿、財神殿のほか観音殿、通神殿がある。
高台にあるバルコニーのようなものは天后宮内にある舞台だ。
では天后宮をでます。
天后宮をでるとすぐ右側にある狭い通路。「城隍廟」(Chénghuáng miào)と掲げられている。まっすぐ進んでみます。
城隍廟と書かれた門をくぐると狭い通路となっている。
狭い通りを突き進むと広場に出てきた。左側にある建物が城隍廟で道教の土地の守神だ。右側は「馬王廟」(Mǎwáng miào)と言われ、華光大帝と言われる三つ目の道教の神を祀っており火の神としてあがめられている。
城隍廟の前には、だれが置いたのか、靴にもろこしが干されている。
城隍廟から狭い道を戻り、もとの通りへとやってきた。額に「三星商号」(Sānxīng shānghào)とあり、左壁には「首富故居」(shǒufù gùjū)とある。
目の前には裴守禄(Péi Shǒulù)という清代末~民国の人物で、「裴三星」(Péi Sānxīng)という屋号を名乗った。小売業や金融業で、鳳凰で一番最初に富豪となったそうだ。
建物の奥は裴守禄の住んでいた建物が保存されているそうだ。だが見るには有料というのでここで記念写真だけをと。
屋根には赤い傘がつる下がっている。
通りを歩いていると「田興恕故居」(Tián Xīngshù gùjū)という額が掛かった門の家を通る。
※田興恕とは鳳凰出身の清朝の軍人で、太平天国と戦った。こちらは百度百科さんの説明。
青空広がる通りをゆっくり散策していきます。
左手に“粉館”との文字が見えた。麵屋さんだ。昼食をとります。
時間はすでに午後1時30分を過ぎている。米粉(米ヌードル)にオレンジジュースを頂きます。尚、ヌードルは18元(約360円)、オレンジジュースは8元(約160円)。
腹ごしらえが終わったので出発します!
鳳凰古城のはずれ。真ん中建物の左は「十字街」(Shízì jiē)という通り。私は右側「南辺街」(Nánbiān jiē)という通りを進んでいきます。
右には小さな店舗。軒には飲料水が無造作に置かれている。
南辺街にある「印宅」(Yìn zhái)。300年の歴史のある印氏の邸宅だ。木材とレンガを組み合わせて建てられた建物だが、中へ入ることはできない。
こちらはお茶屋さんの建物。玄関口から奥の丸窓があり、さらにその奥には庭がある。実に風流だ。
道に脇にある神さまを祀る社(やしろ)がある。
目の前に城門が見えてきました。「東門城楼」(Dōngmén chénglóu)だ。
東門城楼は、南辺街と東正街とが交差する場所にある。尚、この門は別名「昇恒門」(Shēnghéng mén)とも呼ばれる。
城壁を上ってみます。
かつてこの城壁は鳳凰を取り囲む城壁であったそうだ。
城楼の軒です。歴史を感じる建物です。城楼のなかへと入ってみます。
大砲が置かれており、大砲は城壁の外を狙っている。
大砲がある窓から外を覗くと一本の小道がみえる。
城楼をでて城壁の外側へと降りてきた。城壁の外側から見る東門城楼は大きな石の壁となっており、見る者を威圧する。
鳳凰古城・その② 〜昼間の鳳凰古城編・1〜 はここまで。
ひきつづき昼の鳳凰古城を歩きたく思います。
つづく。