張居正故居(Zhāng Jūzhèng gùjū)
訪問日 2022年5月22日(日)
張居正故居だが、荊州が生んだ明代の学者でもあり政治家・張居正(1525~1582年)の記念館だ。この記念館の近所に張居正の邸宅があったというが、今の場所に張居正のいにしえの住居(=故居)を想像に任せて再現している。尚、この張居正だが、明朝第十四代皇帝・万暦帝の宰相を務めた人物でもある。
では、行ってみましょう!
電動シェアバイクに乗って移動です。
道の奥に荊州城の賓陽楼が見える。その張居正の記念館は賓陽楼のそばにある。
ホテルから張居正故居まで約2.2キロ、電動シェアバイク代は3元(60円)だった。
正面に見えるのが張居正故居だ。
こちらがチケットの表面。この絵柄は色んなところで使いまわしているようだ。
チケットの裏側。チケット代は20元(約400円)。
張居正の古の住宅(記念館)へと入りました。
入り口からみて左側にある部屋だ。
張居正の書斎が(想像に任せて)再現されている。
入り口からみて右の部屋だ。
『帝鑑図説(ていかんずせつ)』
帝鑑図説は張居正が子どもながら皇帝に即位した万暦帝の為に作った教材だ。善の法とすべき81例と悪い戒め36例が纏められている。帝鑑図説は日本にも伝わっている。
万暦帝の宰相となった張居正。万暦帝は9歳で皇帝に即位、万暦帝は張居正のことを「先生」と呼んでいたそうだ。
万暦六(1578)年、張居正は「清丈田土」という土地改革を行う。平たく言えば、検知を行い、その情報とともに土地所有者の情報も台帳に記録。結果、誤魔化しができなくなり、税収アップと繋がった。
万暦九(1581)年、張居正の最大の成果である「一条鞭法(いちじょうべんぽう)」を実施。複雑であった税制を一本化、納税は銀で行うこととなった。この銀での納税は清朝の初期まで続くこととなる。
左のパネルには、土地改革と税制改革の結果、税収アップとなる。税収が増加し緩んでいた国の政治体制が締め直され財政は黒字化した。
張居正は優秀な政治家であるも、独裁的な面もあり言論の弾圧・既得権の侵害などにより、張居正に不満も抱くものいる。
万暦十(1582)年、張居正は死去。万暦帝から「上柱国」という称号(いわば叙勲)が授けられ、「文忠」という謚を与えた。
しかし…
万暦十一(1583)年、旧貴族や官僚たちの長年に渡り蓄積された恨みは恐ろしく、張居正の「上柱国」の称号と「文忠」謚は剥奪、張居正は死後にも関わらず民の位に落とされた。また家財は没収され、張居正の長男は張敬修は自殺へと追い込まれた。他の家族は餓死、生き残ったものは辺境の地へと送られた。
中国史の大家(たいか)・貝塚茂樹著の『中国の歴史』を参考にすれば、、、
張居正は儒家ではあるが現実主義の上に立ち法による改革を強行、そして天子・皇太后・宦官官僚を完全に掌握して改革の実績をあげた。しかし裏面では宦官官僚の反感が強かった。張居正の死後、張居正の思想は政治評論家・歴史家から激しく攻撃され名声が落ちた。万暦帝は張居正の抑圧が無くなると、蓄えた貯蓄は宮殿の建設、壮麗な定陵の建設なので瞬く間に消えた。そして張居正の死の翌年(1583年)、満州ではヌルハチが興京で兵をあげたが、万暦帝はその恐るべき強敵であることに気がつかず、明朝は崩壊へと進む。
蛇足ながら、北京の有名な明十三陵の定陵とは万暦帝の墓所である。哀れなことに、文革時代、万暦帝の遺体は紅衛兵がガソリンを掛けられ燃やしてしまった。
尚、貝塚茂樹の弟はノーベル賞受賞の湯川秀樹である。
さてさて、、、
張居正故居内の「世徳慶源祠」との額が掲げられたお堂。
世徳慶源祠には張居正の像が納められています。
奥は庭になっているようですね。
鉢植えの盆栽が。
池には金魚が泳いでいます。
庭の抜けてこの門を抜けます。
また張居正の像がみえてきました。
こんどは照壁が見えます。出口はすぐそこのようです。
出口というか、どうもこちらが本来の入口の様子。私は裏口から入ってきたようです。
ここに張居正故居の説明書きがありました。
説明書きには「張居正は、字は叔大、号は太岳。明代の湖北荊州の出身。幼少のころ"荊州の神童"と言われた。48歳のとき万暦帝の手輔を務め、歴史上著名な政治家であり改革家であった。張居正の住居は荊州城内の東隅にあり、古くは"張大学士府"と呼ばれ、明代末に“張文忠公祠”へ改名。清代初期に"張相旧府"と呼ばれた」とある。
荊州南路そばの張居正故居の牌坊。
では、荊州城壁をぐるっと回ってみます。
つづく。