武威西夏博物館(Wǔwēi Xīxià bówùguǎn)
訪問日 2021年10月5日(火)
武威文廟の対面に位置している。ここには、石碑の表には西夏文字が刻まれ、裏面には漢字が刻まれた「重修護国寺感応塔碑」というのが保管されている。この碑のおかげで、西夏文字の解読の手がかりになったそうだ。
尚、西夏王朝だが、タングート(チベット・ビルマ系民族)が建てた王朝で国名は“夏”であった。中国の伝説の古代王朝の夏と区別すべく、こちらの王朝は西夏と呼ばれる。
ではいってみましょう!
「武威西夏博物館」の正面
この博物館には「重修護国寺感応塔碑」が保管・展示されている。1961年に中国の重点文物保護に認定されている。
博物館内“武威西夏歴史文物陳列”と書いてある。
タングートに関する説明書き。意訳すると、タングートは、現在の四川やチベットや青海省が交わるあたりに住んでいた。唐代初頭、生活圏が甘粛省東部や陝西省北部へと移っていた。唐代末期、唐王朝が滅亡の原因となった黄巣の乱が起きるも、そのタングートの子孫の一人が乱を鎮圧したことで、地元の一大勢力となる。
西夏王朝の実質的は建国者の“李徳明”。河西回廊を版図に収めることに成功した。
1978年に武威で出土した「銅炮」。西夏王朝とどのような関係があるかわからないが、この鉄炮は世界で最も初期の鉄炮であるという。
西夏王朝の年表。西夏王朝の建国は西暦1038年。滅亡は1227年と、10人の王によって約200年弱続いた国家である。
西夏文字の書類。公文書だそうで、一番左の切れ端印は印が押されている。
西夏文字で書かれた「印刷された仏教の経典」
これが「重修護国寺感応塔碑」である。大雲寺で発見されたもので、表面には西夏文字が刻まれている。
裏面には漢字が刻まれている。この碑は高さ260センチ、幅90センチ、厚さ30センチと巨大な碑である。
ちなみにこちらは文廟に展示されている「重修護国寺感応塔碑」の拓本。
こちらは西夏文字で書かれた牛の購入契約書
こちらのお皿は西夏王朝とどのような関連があるかは分からず。
「天官銅像」。1990年に武威で出土したというが、こちらも西夏王朝との関わりの説明はなかった。
「木縁塔」。西夏天慶五(1198)年に亡くなられた方の埋葬品。高さは76センチ。梵字が書かれており、西夏文化の解明の手がかりとなる発見らしい。
「文殊菩薩像タンカ」。1989年に武威で出土したもの。西夏王朝に関連するものなのだろうか?
「米拉日巴泥塑像」。1989年に武威で出土したもの。仏像に似ている感じがする。こちらも西夏王朝とどのような関係があるのやら…。
展示品の一部には、西夏王朝とどのような関連があるのかわからないものも含まれてたが、漢族以外の民族を学ぶ絶好の機会となったことに感謝。
終わり。