第三十五夜 回想編
託す

それから、幾つもの季節が過ぎた。

六右衛門は左衛門のもとで、厳しい修行の日々を重ねた。

術を磨いた。
身体を鍛えた。
倒されても立った。
叱られれば食らいついた。

「遅い!」

「分かっとる!」

「分かっとる狸はそんな転び方せん!」

「やかましい!」

「言葉遣い!」

「……すんません!」

左衛門は容赦がなかった。

けれど六右衛門も逃げなかった。

何でもする。
どんなことでも耐える。

あの日、自分で言った言葉を、一度も曲げなかった。

いつしか六右衛門を見る周囲の目も変わっていった。

雨の中で拾われた、痩せた子狸ではない。

力を持ち、仲間から信頼される、見違えるほど立派な狸になっていた。

そして。

左衛門もまた、歳を重ねていった。

以前なら軽々と登っていた山道で足を止めることが増えた。

咳をするようになった。

やがて床から起き上がれない日が続くようになった。

今度は六右衛門が、左衛門のそばにいた。

水を汲み。
身体を拭き。
火を起こし。

そして時々、雑炊を作った。

「……なんじゃ、これは」

「雑炊や」

「見れば分かる」

「ほな聞くな」

「言葉遣い」

「病人になってまでそれ言うんか」

左衛門がかすかに笑った。

六右衛門も笑った。

けれど。

六右衛門の記憶から、あの日の雑炊が消れたことは一日たりともなかった。

冷たい雨。

空腹。

憎しみ。

そして、自分の前へ置かれた温かい椀。

あの一杯がなければ、今の自分はいない。

ある夜。

左衛門が、か細い声で六右衛門を呼んだ。

「六右衛門」

「なんじゃ」

「こっち来い」

六右衛門は左衛門のそばへ座った。

「よう聞け」

左衛門の声は弱かった。

それでも目だけは、昔と変わらなかった。

「ほんまに強い狸っちゅうもんはな、力だけあってもあかんのじゃ」

六右衛門は黙って聞いていた。

「誰かのために、自分を切り刻む覚悟がいる」

「……」

「守るいうんは、格好ええことばっかりやない。自分が痛い目みることもある。それでも守るんじゃ」

左衛門は一度、息を整えた。

「お前、自分を捨てた両親を、まだ憎んどるか」

六右衛門の顔がわずかに強張った。

「……忘れたことはない」

「そうか」

「許したわけでもない」

「それでええ」

六右衛門が左衛門を見る。

「ええんか」

「憎むなとは言わん」

左衛門は静かに続けた。

「けどな、六右衛門」

「お前が見たんは、置いていかれた自分だけじゃ」

六右衛門は黙った。

「その裏まで、お前は見たんか」

「……知らん」

「そうじゃ。知らんのじゃ」

左衛門は目を細めた。

「もしかしたら父狸も母狸も、身を切られる思いで、お前を置いていったんかもしれん」

「……」

「違うかもしれん」

六右衛門の目が動いた。

「わしにも分からん」

左衛門はゆっくり息を吐いた。

「じゃから、表だけで物事を見るな」

「……」

「常に裏も見ろ」

六右衛門は左衛門から目を離さなかった。

「見えんもんまで見ようとせえ。それができたら、お前はもっと強うなる」

しばらくして。

左衛門は震える手を伸ばした。

六右衛門が、その手を握る。

「六右衛門」

「……なんじゃ」

「津田は、お前に託す」

六右衛門の指に力が入った。

「守ってくれ」

「左衛門」

「頼む」

それが。

左衛門の最後の言葉になった。

「……左衛門?」

返事はない。

「おい」

握った手から、少しずつ力が消えていく。

「左衛門」

六右衛門は、その手を強く握った。

「……おっさん」

もう一度。

「おっさん」

返事はなかった。

あの日。

母狸が帰ってこなくても。

冷たい雨に打たれても。

腹を空かせ、捨てられたと知っても。

出なかった涙が。

一粒、落ちた。

そして。

堰を切った。

「うああああああああ!!」

六右衛門は左衛門の手を握ったまま、大声をあげて泣いた。

子狸のように泣いた。

後から後から涙が溢れた。

止めようとしても止まらなかった。

初めてだった。

捨てられた悲しさではない。

憎しみでもない。

大切なものを失うことが、こんなにも痛いのだと知った。

夜が明けるまで。

六右衛門は、左衛門の手を離さなかった。