第三十三夜 回想編

「……誰や」

六右衛門は、目の前の狸を睨みつけた。

その狸こそ、この津田を取り仕切る長。
狸界隈で、その名を知らぬ者はいない左衛門であった。

しかし。

六右衛門は知らなかった。

「おっさん、誰や」

左衛門の眉が、わずかに動いた。

「おっさん……」

「なんで、わいを助けたんな」

六右衛門の目の奥は、まだ鋭く尖っていた。

左衛門は何も答えなかった。

火にかけてあった鍋から雑炊を椀によそい、六右衛門の前へ差し出した。

「ほれ。腹減っとるやろ。まずは食え」

「そんなもん……」

六右衛門はぷいと横を向いた。

ぐぅぅぅぅ。

腹の虫が、盛大に鳴った。

左衛門は何も言わない。

六右衛門も何も言わない。

ぐぅぅぅぅ。

もう一度鳴った。

「……」

「無理せんでええ。食え」

左衛門は六右衛門の手元に椀を置いた。

湯気と一緒に、美味そうな匂いが立ちのぼる。

六右衛門はごくりと唾を飲み込んだ。

それでもしばらく椀を睨んでいたが、やがて、おずおずと手を伸ばした。

ひと口。

その瞬間だった。

「……!」

感じたことのないうまさが、身体を突き抜けた。

冷え切った腹の奥へ、温かさが染み込んでいく。

もうひと口。

「あっち!」

慌てて口を離す。

それでもすぐ、また雑炊をかき込もうとする。

「慌てるな」

左衛門は腕を組み、目を細めた。

「雑炊は逃げん」

六右衛門は聞いているのかいないのか、夢中で食べ続けた。

美味い。

美味い。

美味い。

冷たい雨に奪われたものが、ひと口ごとに身体へ戻ってくるようだった。

気づけば椀は空になっていた。

六右衛門は最後の一粒まできれいに食べると、椀を置いた。

そして。

改めて左衛門を睨みつけた。

「……あんたも物好きやな」

「何がじゃ」

「なんで、わいを助けたんな」

左衛門は六右衛門を見た。

さっきまでの柔らかな目ではなかった。

「目の前にある命を守らんで、狸の長が務まるかい」

六右衛門の眉が動いた。

「……長?」

左衛門は静かに答えた。

「わしは左衛門」

そして六右衛門をまっすぐ見た。

「この津田の長や」