第三十二夜 回想編
あの日は雨やった

あの日は雨やった。

冷たい雨が、身体を刺すように降っていた。

六右衛門は屋根の下にうずくまり、その向こうを鋭い眼差しで睨みつけていた。

「六右衛門。美味いもん持ってくるから、ここでおって」

母狸はそう言った。

そして、六右衛門を残して去っていった。

最初は、すぐ帰ってくると思っていた。

腹を空かせながら、それでも待った。

雨音の向こうに足音がするたび、顔を上げた。

違う。

また待った。

日が暮れていく。

雨は止まない。

母狸も帰ってこない。

腹が減った。

寒い。

身体から少しずつ力が抜けていく。

それでも六右衛門は動かなかった。

ここでおって。

母狸がそう言ったから。

けれど。

待てど暮らせど、母狸は帰ってこなかった。

六右衛門の中に、別のものが生まれ始めた。

捨てられた。

その言葉が浮かんだ瞬間、身を引き裂かれそうになった。

なぜや。

なんでや。

わいがおったらあかんのか。

わいは、あんたにとって邪魔者やったんか。

悲しみだったものが、少しずつ形を変えていく。

悔しさ。

怒り。

そして、憎しみ。

雨の向こうを睨む目だけが、まだ力を失っていなかった。

「あかん……」

声が震えた。

「もう、あかん」

誰に言っているのか、自分でも分からなかった。

「わいは、お前らを許さん」

雨音に消えそうな声だった。

「絶対に許さん」

けれど身体はもう限界だった。

「……けど」

足から力が抜ける。

「ホンマに……あかん」

六右衛門の身体が傾いた。

その時だった。

ふっと身体が軽くなった。

誰かに抱き上げられた。

誰や。

おとんか。

おかんか。

目を開けようとした。

できなかった。

意識が遠のいていく。

暗闇の中。

なぜか昔の笑い声が聞こえた。

まだ何も疑わずに笑っていた頃の、自分の声だった。

そして。

何も分からなくなった。

どれほど眠っていたのだろう。

「……ん?」

六右衛門は目を開けた。

暖かい。

今まで感じたことのない、柔らかな感触に身体が包まれている。

雨の音は遠い。

そして鼻先をくすぐる匂い。

「……なんや」

嗅いだことのないほど、美味そうな匂いだった。

腹が鳴った。

六右衛門はゆっくり身体を起こした。

知らない場所だった。

「ここは……どこや」

暗がりから声がした。

「ここは、わしのすみかや」

六右衛門の身体が強張った。

「……誰や?」

暗がりの向こうに、一匹の狸がいた。

左衛門との出会いであった。