第五夜 回想篇
商売繁盛 一

「ここの染物がええって聞いてな」

その言葉を聞いた瞬間、店の隅で丸くなっていた金長の耳が、ぴくりと動いた。

「……うちの?」

茂右衛門は不思議そうな顔をしながら客を招き入れた。客は並んだ染物を眺め、やがて一枚を手に取った。

「なるほど。聞いた通り、ええ色やな」
「ありがとうございます」

客は染物を買い、銭を置いて帰っていった。

ちゃり。

金長の耳が、また動いた。

――来た。

自分が町で「大和屋の染物はええぞ」と言った。その言葉を聞いた誰かが、本当にここまで来たのだ。

――できた。

飛び上がりたいほど嬉しい。けれど自分の仕業だと知られるのがなんとなく照れくさくて、金長は目を閉じた。

「なんや金長。今日はえらい大人しいな」

金長は寝たふりをする。

「……寝とるんか」

茂右衛門が帳場へ戻ると、金長の尻尾が、ぱたんと一度だけ床を叩いた。

翌朝。

金長はいつもより早く大和屋を出た。

一人来た。

なら、もっと言えば、もっと来るかもしれない。

町角で人に化けると、井戸端で話していた女たちへ近づいた。

「大和屋の染物、知っとるか?」
「大和屋?」
「そうや。色がええ。丁寧や。……とにかく、ええぞ」
「どこにあるん?」

金長が固まった。

場所を説明することまで考えていなかった。

「あっちや」
「あっちって、どっち?」
「……あっちの、もうちょい向こうや」

女たちが顔を見合わせる。

「それじゃ分からんわ」

笑われた。

人に化けることはできても、人らしく話すのはまだ難しい。

それでも一人が、

「大和屋やな。覚えとくわ」

と言った。

金長の顔が、ぱっと明るくなった。

それからというもの、金長は毎日のように町へ出た。

市場で人が話していれば、

「大和屋の染物はええぞ」

茶屋で休む人を見つけても、

「大和屋、知っとるか?」

道を尋ねられたときでさえ、

「寺ならそこを右や。それとな、大和屋の染物はええぞ」
「いや、わしが聞いたんは寺や」
「寺もええけど、大和屋もええぞ」
「なんやお前」

金長は真剣だった。

ただ、少々しつこかった。

けれど、その不器用な一言は少しずつ人の耳に残っていった。

「あの大和屋いう店、知っとる?」
「染物がええらしいな」
「わしも聞いたわ」

金長が直接話したことのない人まで、大和屋の名を口にするようになった。

そして数日後。

また一人、見慣れない客が暖簾をくぐった。

「評判を聞いて来たんやけど」

茂右衛門が顔を上げる。

「評判?」

その翌日にも客が来た。

「丁寧な仕事をする店やいうて聞きまして」

また次の日にも。

「ここが大和屋さん?」

茂右衛門は首を傾げた。

長く商いをしてきたが、こんなふうに知らない客が続けて来ることはなかった。

「なんや最近……えらい大和屋の名前が広まっとるな」

店の隅で金長が毛づくろいをしている。

「誰が言うてくれよるんやろな。ありがたいことや」

ぺろぺろ。

「なあ、金長。お前は知らんか?」

金長の前足が止まった。

一瞬だけ。

そして何事もなかったように、また舐め始める。

ぺろぺろ。

「……お前に聞いても分からんわな」

茂右衛門は笑って仕事へ戻った。

金長はそっと顔を上げ、その背中を見た。

客が来るたび、茂右衛門は忙しくなる。

けれど。

「ありがとうございました」

客を送り出す茂右衛門の顔は、どこか嬉しそうだった。

それを見るたび、金長の胸も嬉しくなった。

――もっとや。

もっと大和屋を知ってもらおう。

もっと茂右衛門を喜ばせよう。

翌朝。

まだ茂右衛門が戸を開けるより早く、金長はこっそり大和屋を抜け出した。

今日もまた、町のどこかで。

「大和屋の染物はええぞ」

一匹の狸が、人の姿を借りて歩き回る。

その小さな恩返しが、少しずつ、少しずつ。

大和屋へ人を運び始めていた。