第三夜 帰らぬ狸

傷が癒え、
自分の足で歩けるようになった頃。

茂右衛門は金長を山へ連れていった。

もう大丈夫だろう。

ここまで元気になったのなら、
あとは狸の暮らす場所へ帰るのが一番いい。

そう思っていた。

「ほら。もう行け」

茂右衛門が山の方を指さす。

金長はその先を見た。

木々が揺れている。
懐かしい土の匂いもする。

けれど。

動かない。

「……なんや。行かんのか」

金長は茂右衛門を見上げた。

「山へ帰れ」

もう一度言われても、
やっぱり動かなかった。

茂右衛門が歩き出すと、
金長も歩いた。

一歩。

また一歩。

ぴたりと後ろをついてくる。

茂右衛門が止まる。

金長も止まる。

歩く。

ついてくる。

また止まる。

やっぱり止まる。

「お前なぁ……」

茂右衛門は振り返った。

金長は、
何食わぬ顔でそこにいる。

「元気になったんやぞ。
もう、わしについて来んでもええんや」

金長は首をかしげた。

分かっているのか。
分かっていないのか。

茂右衛門には分からない。

「山へ帰れ言うとるんじゃ」

少し強い声で言って、
茂右衛門は再び歩き出した。

しばらくして、
そっと後ろを見る。

いる。

「……はぁ」

茂右衛門は大きく息を吐いた。

仕方のない狸だ。

そう思った。

けれど。

その口元は、
ほんの少し緩んでいた。


それからというもの、
金長は茂右衛門のそばを離れなくなった。

茂右衛門が仕事をしている時も。

庭へ出る時も。

少し離れたところに座って、
じっとその姿を見ている。

「なんや。今日もおるんか」

声をかければ、
金長は尻尾を揺らす。

「暇なやつじゃのう」

そう言いながら、
茂右衛門は金長の分まで食べ物を残すようになった。

最初からそのつもりだったわけではない。

気がつけば、
そうなっていた。


ある日のこと。

仕事を終えた茂右衛門が外へ出ると、
金長の姿がなかった。

いつもなら、
どこからともなく現れるはずなのに。

「……おらんのか」

別に、
いなければいないでいい。

もともと野に生きる狸なのだ。

山へ帰ったのなら、
それでいい。

そう思って家へ入ろうとした。

けれど。

足が止まった。

庭を見る。

いない。

物陰を見る。

やっぱりいない。

「……なんじゃ」

自分でもおかしくなって、
茂右衛門は苦笑した。

帰れ帰れと言っていたくせに。

いざいなくなると、
気になるらしい。

その時。

がさり。

落ち葉の向こうから、
丸い顔がひょこりと現れた。

金長だった。

「おったんか」

思わず声が出た。

金長は何も知らない顔で、
いつものように近づいてくる。

「……まったく」

茂右衛門は、
それ以上何も言わなかった。


秋が深まっていた。

夜になると、
昼間よりずっと冷たい風が吹く。

虫の声が遠くから聞こえ、
月の光が庭を淡く照らしていた。

その夜も、
茂右衛門は仕事を終えて外に座っていた。

傍らには金長がいる。

何をするでもない。

金長は丸くなり、
茂右衛門は黙って夜空を見上げている。

風が吹いた。

乾いた葉が一枚、
庭を転がっていった。

「寒うなってきたな」

金長の耳が動いた。

「お前、ほんまに帰らんな」

返事はない。

「山の方が仲間もおるやろうに」

金長は顔を上げ、
茂右衛門を見た。

その目を見て、
茂右衛門は小さく笑った。

「……好きにせえ」

それだけ言って、
金長の頭に手を置いた。

助けた時には、
こんなふうになるとは思っていなかった。

ただ、
死にそうな狸を放っておけなかっただけだった。

金長にしても、
あの日までは知らない人間だった。

一人と一匹。

言葉だって通じない。

それでも。

同じ場所で過ごす日が増えるたび、
二人の間には、
言葉とは違う何かが積み重なっていった。

金長は、
自分の命を救ってくれた人のそばにいたかった。

茂右衛門は、
そんな金長を呆れながらも、
いつしか追い払わなくなっていた。

秋の夜は静かだった。

虫の声と、
風に揺れる木々の音。

そして、
一人と一匹。

「帰れ」と言う人と、
帰るつもりのない狸。

いつの間にか、
その距離はすっかり近くなっていた。

金長は茂右衛門のそばで、
ゆっくりと目を閉じた。

茂右衛門も、
もう「帰れ」とは言わなかった。

月だけが、

そんな一人と一匹を
静かに照らしていた。