わたしが彼と会ったのは
本当に偶然の出来事だった。
目と目が会った瞬間
胸の鼓動が激しく高鳴った。
木下 瀬奈
俺は彼女を見た瞬間……
恋に落ちていたのかもしれない。
パク・シン
*****
「いらっしゃいませ」
黒のキャップを目深にかぶって店の中へ入って来た背の高い男性に、瀬奈(セナ)は声をかけた。
キャップのせいで顔が良く見えない彼は、瀬奈に向ってしーっと言うように一本指を口元に持って行く仕草をして試着室へ入ってしまった。
しーっとされてしまったからには声をかけられず、紳士服売り場の店員瀬奈は試着室の前でうろうろしていた。
「あの~」
いっこうに出てこない彼に瀬奈は声をかけてみる。
今はお昼休みでこの持ち場には瀬奈しかいないし、平日の昼間の紳士服売り場は超が付く位暇な場所なのだ。
暇すぎて一度、いわゆるデパ地下に異動させて欲しいと言ったくらいだった。
望は叶えられなかったのだが。
「あの~どうかしたのですかー?」
とか、
「もしもし~? 早く出て来てくださいっ」
そう言葉にした途端、試着室のカーテンが開いて手が伸びたと思ったら瀬奈は中へ引き込まれていた。
「きゃっ!」
瀬奈の身体は彼の胸の中へ抱き寄せられていた。
「ちょ、ちょっと! なんなんですかー!?」
顔を真っ赤にさせて怒る瀬奈に彼はクスッと笑う。そして予告もなく手で瀬奈の口を塞ぐ。
「むぐっ……」
「しーっ、黙って。すぐに出て行くから」
瀬奈は手を離して欲しくて、こくこくと頷く。
それを見て安心したのか彼はやっと口から手を離した。
「っはあー」
ちょっと酸欠状態の瀬奈は深呼吸をして息を整えてから、改めて彼を見る。
黒色のキャップは相変わらず深めにかぶっていたが、目の前にいるから今度は顔が良く見える。
切れ長の目に高い鼻梁、誰もがキスをしたくなりそうな形の良い唇。
瞳の色は……ブラウン。彼の瞳は色素の薄いブラウンだった。
そこで瀬奈はハッとなる。
身体を密着しすぎていた事に。
瀬奈は文字通りパッと離れたのだが、次の瞬間、ゴン!と、大きな音と共に頭を抱えた。
「いたたた……」
「大丈夫?」
ちょっと笑いを含んだ言葉に聞こえる。
「もうっ!……」
右手で後頭部を撫でながらため息を吐いた途端に、瀬奈の右手が外される。
(えっ?)
あっけに取られているうちに、彼の手がぶつけたと思われる箇所を撫ではじめる。
この人……女の扱いがうまい……あ、イケメンだからこんな風にするのも慣れているのかも。
そう考えて瀬奈は彼の手をとっさに振り払った。
「だ、大丈夫です。ありがとうございます」
彼はフッと微笑むと腕を伸ばして腕時計を見た。
(もう大丈夫だろう)
「ありがとう」
そう言った彼は顔を傾けた。
次の瞬間、瀬奈の頬に彼の唇が触れた。
「え……!?」
頬にキスされて驚いているうちに、彼はカーテンをサッと引いて行ってしまった。
「なんだったの……? あの人……って! もうっ く、唇が頬に触れた!!!!!」
不覚にもまったく知らない男に頬をキスされて腹をたて、手の甲でゴシゴシ拭く。
(……いい香りがしたんだよね……ルックスも信じられないくらいカッコ良かったし……)
瀬奈は今起こった出来事にほーっとため息を吐いていた。
(今のは何だったんだろう……突然現れて去って行った彼……もしかしてわたし、夢を見てた……?)