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※このブログも私の本音ブログですので、興味がある人だけどうぞ。これはちょっと考えすぎていますが、自分の観念や定義の見直しや自己対話の参考になるかも?


 

「発信」。

このことの自分の中での違和感について、
ブログや電子書籍を出して以降、
度々考えてきたように思う。








「発信」というものが自分にとってどんな定義をするとしっくりくるのか?
考える過程をここに記しておこう。










「発信」とは
今の私の中では
「ビジネスのための手段」
あるいは
「人のためのシェア」
あるいは
「自己表現」
こんなもののように思う。

そして私は自分にとっての「発信」が、

そのどれでもないような、
だけどその定義が自分の中でも曖昧なような、、


それが「発信」というものへの
違和感の原因のように思う。









「発信」ってなんだろう?
もちろん人によって違うが、ここでは私なりの定義を探っていく。

「発信」は他の人に見られることである。

自分以外の人に「見られる」ことを意識したとき、
自分の言葉に棘がないようにしたり、
自分の言葉を分かりやすくしたり、
そういうことをする。

「こういうことを思う人もいるかもしれないから」
「この言い方だと社会的に問題があるかもしれないから」
そうやってオブラートに包んだりする。


そこで
他の人が目にするのを意識して人が受けとりやすいものにするか、

全く意識しないでただ世に放つか、

この二通りに分けられる。





そしてそれは
「発信」の目的によって変わる。

社会の多くの人に対してリーチしたいのか、
ただ自己表現のシェアをしたいのか、
それによって何を成し遂げたいのかー。


だけどいずれにしても「目的」は
それが外に放たれる以上
「自分以外の誰かに届くこと」になるように思う。


自分の中にとどめることなく
「自分以外の誰かに届くこと」をする。






はて、私はそれによって
どんな感覚を感じたいのだろう?








私の場合は、
自分の考えを言語化してそれがしっくりきたときに
バスケやサッカーのシュートが決まったような気持ちになる。
それは1人で考えごとをしててもそうだ。

でも、たとえばそこに友達や他の人がいた時によりシュートが決まった時の「心地よさ」が大きくなる。









笑ってくれたとか喜んでくれたとかじゃなく、
自分の奥深くの声を
ワンフレーズのコンパクトな言葉という形に凝縮できたときにそれがみんなが奥深くで思っていることと「同じだ」という感覚がある。

そうして自分の感覚以上にシュートが決まった「心地よさ」があるのだ。
自分も含め全ての人の鎧が気持ちよく外れるような感覚になる瞬間。
建前を抜きにしたほころびがあるような自由な一体感ー。










ちなみにあれは何か?ということを
スピリチュアルマスターに聞くときっと
愛だとか一体感、全てはひとつであること
みたいな答えが帰ってきそうだが、
あまりにも言葉に手垢がついていて少しそれは気持ちが悪い。










だから私にとっての「発信」も
ただその瞬間の「心地よさ」のために
自分のまわり以上に多くの人に届くことで
よりその「心地よさ」を自分自身が味わうために
発信をする、という言葉が一番しっくりくるように思う。








ここでひとつ問題なのが
お笑い系の発信者なら
「おもしろいギャグで多くの人にウケる」心地よさをここまでの要領でやればいい。




だけど私の場合
「成功哲学」や「引き寄せ」の
「発信」をしている。

私がただ書きたいから書いているが
それは
私が「知ってる」ことを
まだ「知らない」人に伝える
ということがメインになる。
「教える」ことがメインになる。

ここにまた何か微妙な違和感があるのだ。
一番いいシュートが決まってる感じがしないのだ。









あるいはこんな風に言えるかもしれない。

新しいことを教えることと
思い出してもらうこと
の間のギャップ。

外側から語ることと
内側から語ること
の間のギャップ。

他人に語ることと
自分自身との対話
の間のギャップ。





仕事のハウツーに関しては、
ここにそんなにギャップがなくて
前者、「教える」ことにしっくりくる。
テクニックやアイデアをシェアすることにしっくりくる。









でも
成功哲学や引き寄せ、
いわばスピリチュアルに関しては、
前者がどうしてもしっくりこないのだ。

「教える意識で伝えること」が
何かシュートを流してるような
遠回りをしているような
少しそれにより
自分のいい気分からズレてしまうような
そんな違和感がある。


教えることはない
ということを
思い出してもらうことでシュートが決まるような。






だけどそれが今の私にとって
少しむずかしい感じがする。

ふだんの仕事で使ってる意識では書けない。


ただ私の思いつく限りの優しい言葉を伝えればいいという話でもない。
むしろ私個人の言葉で語らない方がいいような。
もっと内側の、大きな賢い存在に言葉をゆだねた方がいい感じがするのだ。







私は学生時代に偶然見かけた
ロバート・フロストの詩が好きだった。
だけどいまフロストの詩を読んでも
あまりワクワクしなくなった。

今年に入ってからか、
たまたま本の中でいくつかの詩が出てきて
すごいと思った詩が全て同じ人のものだった。


その名は「ルーミー」。





スピリチュアルに関しては
フロストのような感性ではなく
もっとルーミーのような感性で
言葉にしてみたい、
それがいいような感じがするのだ。




だけどルーミーは
現代の風にはあわない。
かわいくなさすぎる。

やっぱり少しかわいくアレンジしたいと思うが、
その言葉の「源流」は私にあるべきじゃない。

スピリチュアルに関しては
私はどちらかというと
教えるものとしてではなく
大きな存在の現代風アレンジ編集者として携わる
そんなイメージがしっくりくるようなー。



自身が言葉を生み出す作者じゃなくて
大きな存在の言葉を編集・アレンジする編集者
であるようなー。

つまりは、
もっと深いレイヤーの言葉が
自分自身の言葉や表現へのこだわりを
捨てた先にあるようなー。

それを現代の電波という風に乗せる。




そっちの方がしっくりくる。

そういうことが
私の来年の
成功哲学・引き寄せに関する「発信」に
なるのかもしれない。



 
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ノンフィクションのミラクル体験記。普通の会社員だった私の12ヶ月の"引き寄せ"記録

 

 

 

 

 

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