江戸時代の中洲は菜の花畑だった。 | ★バツ4シングルママは波乱万丈★みえブログ★

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現在54歳。16歳と31歳のシングルママ。バツ4。
韓国歴35年&3度の短期留学経験。日韓文化経済フォーラム日本支部代表。パワーストーンセラピスト。YouTubeみえちゃんねる。福岡探検倶楽部隊長。元ミスコン荒し13冠のミスを獲得。モデル、レースクィーン。




おはようございます☺️

今日は、最新YouTubeみえちゃんねるにも

出てきた中洲をテーマに。

江戸時代、中洲は菜の花畑でした。

明治に入り、県立病院や電灯会社、電話局と

いった公的機関が相次いで設置され、さらに

大正に入ると電気館や世界館といった常設劇場、

映画館、カフェやバーが続々登場しました。



中洲の誕生は慶長五年(西暦1600年)。
黒田長政が福岡城築城のため福岡の町造りを

行った時「福岡」と「博多」を繋ぐために

中ノ島だった中洲に「中嶌橋」を架けたのが

起源と言われています。


宝歴元年(西暦1751年)頃に中洲に畠を

作っていた小作人達がその必要性から

これまでの丸木橋から金を出し合って役所に

頼らず自分たちの手で作ったので「作人橋」と

命名された。この橋は数回架け替えられ

現在は「博多橋」と改称された。


博多の町人は大変な勉強家が多くて、

1818年(文政元年)櫛田神社の中にある

「櫛田文庫」を開設した。

この文庫は世界で一番早い時期にできた

公立図書館としても著名である。

博多には松永子登や奥村玉蘭等、有名な 

町人学者がいて玉蘭は「筑前名所図絵」

十巻の立派な地誌を出している。


博多祇園山笠が始まったのは西暦1243年
(寛元元年)で追い山笠が行われたのは、
それから240年後の1687年とされている。
「中洲流」が初登場したのは戦後の昭和24年
7月1日からである。
博多山笠の起源は承天寺の開山、聖一国師が
悪疫退散のため施餓鬼台(仏)飢餓に苦しんで
災いをなす鬼衆や無縁の亡者の霊に飲食を施す
法会(広辞苑)に乗り博多の町を舁き回ったのが
起源とされている。
明治30年後半に飾り山笠と舁き山が分離され
今日の形となっている。

豊臣秀吉が“博多町割り”と言われる博多の新しい
町造りを行ったのが天正15年(西暦1587年)。
その後、黒田長政が福岡の町造りに着手し、
福岡城(舞鶴城)と商人の町博多を繋ぐために
中の島(洲)であった中洲に「中嶌橋」を架けた
のが、慶長五年(西暦1600年)。
この事実から見ても福岡と中洲は同時に誕生
したのです。

中洲明治通り松居壱番館の前に“福岡藩精煉跡地”の
石碑が建てられている。
幕末から明治にかけて近代科学施設は殆ど中洲を
中心に建設されたといわれる。
この精煉所は弘化4年(西暦1847年)に黒田
長薄によって建てられ小銃・大砲から硝子・
陶器・薬品・鉱物まで多種多用にわたって試験
され製造された。