昨日の続きです。

100均には娘に連れて行かれたのではない。
必然として導かれた。

私の最初の職はアパレルデザイナー。娘が産まれるまでミシンは帰省の度に使ってた。産まれてからも娘の面倒を誰かに頼んで何度か使ったこともある。

とにかくミシンは身体が覚えていた。

糸掛けから始まって下糸のボビンケースの仕込みまで、両手、もしくは左手オンリーで自動でダンスするようにスルスル動くはずだった。
だけど、当然そこまで動くはずもなく。
右手だけだと、糸もかけられないことがわかった。説明書を見ればわかる!と説明書を探すもどこに片付けたかわからない(笑)

記憶を頼りに感覚を思い起こして時々左手に手伝ってもらいながら右手で糸をかけ。
見ることもなく左手の感覚だけで入れてたボビンケースをミシンの下穴を覗き込み右手で試行錯誤しながらやっとのことで入れて。

この格差がずっと怖かった。後遺症を持つ前と今の差を一番やりたいことを通して観るのが怖かった。やりたいやりたいと言いながら、いつになったらできるかなと身体がよくなるのを待っていた。
でも、今はもうすでにそこに自分は居なくて、恐怖も不安も包み込んで前進させることができる一回り大きな自分が現れ出したから、待つことをやめて前に出た。

やっとのことで切ったスタートからは早かった。
その日の午後いっぱいで本体だけは作ってしまった。


翌日、飾りボタンとお花のモチーフをそれぞれ縫いつけ、名前つけ。
今のアップリケ用のフェルトはシールになってるからとても便利。それでも、一文字一文字、紙で型紙を作り、フェルトに反転して写して切って貼ってとなかなか手間のかかる作業。

最後に名前アップリケの周りにミシンを落として縫いつける。これがもの凄く時間がかかって結局ほぼ丸一日費やしてしまった(笑) (上糸下糸の交換は色が変わる度その都度 何度も繰り返せばだんだんスムーズにこなせるように 笑)

ぎこちない左手、上手く動かないけど、なんとかなった。
そんなことを気にするより楽しかった。

発症時、もうミシンなど使うことはないと思ってた。
リハビリが進んで動くようになっても、発症前と比べるのが怖くて去年はミシンを使おうとも思わなかった。


きっかけは、父母の紙パンツ。
パッとしないきっかけでも

娘は私をキャッチする。
目に見えないところで、何も聴こえないところで。
そして、ちゃんと私を導いてくれる。

一日ミシンをかけて、左腕は中途半端に浮かせた状態をキープ。この2年半、長時間座って同じ姿勢で作業することもなく、出来上がった夜には左半身余すところなく筋肉痛のような痛みが。脇腹、お尻、脚まで(笑)


復活の経験と楽しいリハビリ。
痛みのメッセージ。

私にこの経験をさせるために、再びミシンを使って創造させるために、私の世界は総動員で動いてくれた。

一番の恐怖と拒否、高いハードルだったミシン。
そこに案内してくれたのは、父と母と兄と娘だった。
兄の却下がなければ起きなかった。一見マイナスでネガティブな事象もすべて必然な必要事項。


そして、紙パンツさまさま。

この経験にありがとう。
この経験を通って、私に還る。
世界に感謝、すべてのことに感謝。


そして、糸掛けは意図かけ。
ボビンケースの仕込みは舞台の仕込み。
この世界に産まれた時にはすでに後遺症があり巧く機能していなかった。
後遺症を持つ前とは、そういう時があったということ。
今は、経験を通して完全な自分を思い出し完全な自分に還るという旅をしている。
それに気付く貴重な経験。
復活の経験を共に創ってくれたこの素晴らしい世界にありがとう。

幾重にも幾重にも
深く創り込まれた舞台が重なり合って
この世界を創り上げている。
この世界と共に在ることに感謝。
感謝のフラクタル。これが真実。