1995年1月17日(火曜日)5時46分 兵庫県南部地震 被災。1 | 妖狐のモモン ー統一教会の話ー

妖狐のモモン ー統一教会の話ー

呆けの母が統一教会の一世でした。
私が生まれた後、統一教会の入れ知恵で、父が他界した事にして、
母は《1969年の春に霊界祝福(統一教会の結婚式)》を受けて、
私は信仰二世にされました

被災して2日目。

親戚から家を置いて避難所に強制的にさせられた。

 

被災して3日目の朝。

倒壊寸前の2階建ての隣家(⇐親戚の家)が倒れてこない様に父が細いスチール製パイプとジャッキで支えていたが…細いスチール製パイプとジャッキでは心もとなく、いつ細いパイプが外れて二階建ての隣家が倒れてくるかもしれない。

 

二階建ての隣家が倒れて来たら震災の被害を免れた家屋も将棋倒しになり巻き添えになる。

で、

父はその被災した家の番をしに家に帰った。

呆け🍆の兄は、父が避難所を出る前に、

何処かへ出かけたので私は、てっきり父を手伝うために先に被災した家に戻ったと思ったいましたが……

 

何所で何をしていたのかは後で分かったのですが……

呆け🍆の兄の、その時の行動で兄の大嘘が全て剥がれ落ち、

近隣の全域から呆け🍆の兄は爪弾きにされ、父は全ての信用を失いました。

 

震災から4日目。

私の行くところ、行くところに、母が付いてくる。

お母さんの後を、ず~~~っと、追ってついてくる幼児みたいに。

ウザかった。

とてもウザかった💢(╬▔皿▔)╯

 

震災から5日目。

私の体は震災前に、すでにボロボロでした。

筋肉炎の薬を飲みながら、ヤットコサ動ける状態でした。

常に呆け🍆の母と兄にぶら下がられて自分の事が何にも出来ない。

 

で…

 

私は避難所で流行った風邪に感染して熱が出て倒れそうでした。

風邪を引いて熱が出たという理由だけで寝かしてはくれませんでしたから。
母という人間は。

何かというと私を呼びにくる。
1~10まで私に聞くのですわ。
呆け🍆の母と兄には

『分からん事は世話役に聞け。』と言っているのに。

 

事あるごとに私を呼びに来るのですわ。
『私も具合が悪いから一寸寝かしてくれへんか❓』というと、

母:『一寸、用事を頼んでいるだけやない。用事が済んでから寝たらええやない』

と言うのですが‥‥母は口だけの人なのです。
結局、寝かしてなどくれなかったのです。

 

症状が急激に悪化し、『意識が飛びそう!』と思ってので体温計を借りてきて自分の体温を測ってみると‥‥39度を超えていたのでした。

 

私は

《40℃超えるで…家に帰るまで意識が持つかいな? 

まあ意識が飛んだら終わりやな。

呆け🍆の兄貴と出来損ないの母と縁が切れるのやったら、

それもええか‥‥いや、
​呆けナスの兄貴と出来損ないの母と一緒の墓に入る事だけはごめんや!!』

 

当時は生活する事だけでやっと。
薬なんてありません。
自分の体力で治すしかありません。
体力がなければ死ぬしかない。

 

そんな状況でしたから、
私は、
『今から家へ帰って、そこで生活するわ。同じ死ぬんやったら家で死ぬ。

家の下敷きになって潰れて死んでもかまへん』

 

母:『潰れて死ぬで❗』

 

私:『ここ(避難所)に居っても風邪で死ぬがな』

 

母:『お前も父ちゃんみたいに母ちゃんとお兄ちゃんを置いて行くのんか❗』

 

私:『ほな一緒に潰れそうな家に帰らんかい❗(╬▔皿▔)╯💢』

 

母:『お前も父ちゃんと同じ事をいうねんから』

 

私:『やかましいわい❗❗ಠ▃ಠ💢 お母ん、用事があったら家に来てな。ほな家に帰るわ』

と言いおいて避難所を後にしました。

 

夕暮れ時で‥‥朦朧とした意識の中で、何とか家に辿り着いた時には辺りは真っ暗になっておりました。

家の玄関の戸を開け、『だだいまー』と言うと。

親父:『どないしたんや。なんかあったんか❓』

私:『風邪ひいてな、えらい熱が上がりよるから、お母んに同じ死ぬんやったら家で死ぬ。言うて帰ってきたんや。』

親父:『そうか。ほな、ストーブの側で温うにして寝とき』と言って釣り道具を触っていました。
親父の趣味が魚釣りでしたので。

家で寝ていた間も余震で日々揺られていましたが、

それでも避難所で死ぬまで統一教会の信者をやっていた呆け🍆の母と兄と一緒にいるより安心することが出来ました。

呆け🍆の母と兄のお守をしなくて済みますからね。

 

翌、震災から6日目。

私は、いつ、隣家の2階が我が家を押しつぶすかもしれない。という状況の家で寝ておりました。
熱は40度を越して意識は半分飛んでおり、昨晩よりも朦朧としておりました。

しかし…何故か目が覚めました。
頭は冷たくて気持ちが良かったのですが、
臭うのです。
枕が。
無茶苦茶、臭い❗
サビキ釣り用の撒き餌独特の、あの何とも言えない臭いで目が覚めたのです。

​​私:『臭・・・、この枕、臭うで・・・豪い硬いし・・・』と言うと、​​

親父:『臭いか?冷凍庫に入れたままにしてあった餌を氷枕の代わりにしたさかいな。再冷凍したものは、もう使われへんけど、とりあえずお前の頭を冷やす氷枕の代わりには使えるさかいな。』​

​​私:『何や、エサかいな・・・』と、またいつの間にか寝ておりました。​​

次に兄が私を起こしにきました。

兄:『陸上自衛隊の野営テントに行って薬を貰うて来たったで。』と言っておりました。

兄は自衛隊の医師に私の症状を説明すると、
『普通の解熱剤では効かないだろうから座薬を出しておきます。たぶん、これで熱は下がると思います。もし、それでも熱が下がらないようなら、直ぐに来てください。』
と言っていたそうなんです。

1日目は何の変化もなく寝ておりました。
2日目に、ようやく熱が下がり始めました。
3日目の明け方になると、だいぶ楽になってきました。

4日目には全身の痛みと激しい咳は止まらないけれど、ようやく熱も下がり動けるようになりました。

兄は、母が言っていたように、よく気が付くのかな・・・・と思っておりました。
その時は。

でもね、その後しばらく恩に着せられ続けておりました。

事あるごとに、
兄が、『あの時、俺が自衛隊のテントに薬を貰いに行ったらんかったら、お前も此処には居らんかったかも知れへんかったんやで。よかったなぁ。俺が薬を貰いに行ったってなぁ。俺が薬を貰いに行ったったから、モモンちゃんは生きてられるんやでぇ。(・∀・)ニヤニヤ』

と、しきりに言い続け、

面倒くさい事は、全部、私に押し付けておりました。

あまりの、しつこさに、

私は晩ご飯代わりの菓子パンをかじりながら親父に、
『こないに、しんどい目に遭わされるのやったら熱冷ましなんか貰うてきてくれんかて良かったわ❗❗』


と苦情をいうと・・・

親父は、
『何でや? 熱が下がらへんから、あいつに、

「俺は家を留守にするわけにいかんから、代わりに熱冷ましを貰うてきたってくれへんか。お前かて体があいとんのやさかい。」

言うて頼んだんが何でいかんのんや❓』

と言っていました。

私は、これまでの経緯を親父に説明しました。

親父は、『明日の朝、避難所へ行ってくるから留守をたのんだで。』と言って、、、、
その夜は寝ていました。

あくる朝。震災から7日目。
朝ご飯の代わりは、やっぱり菓子パンでした。
親父は、菓子パンと水っぽいジュースで朝食を済ませると避難所へ向かいました。

私も、もしもの時にブレーカを落とす以外に何もする事はなかったので家の中でゴロゴロしておりました。

で‥‥昼前くらいに親父と母が帰ってきました。

親父:『今度、兄貴が恩着せがましいことを言うたら、「父ちゃんが言うてたことを、もう忘れたんか❓」と言うたらええさかいな。』

と言っていました。

その後、兄は恩着せがましいことを言わなくなりました。

母は今にも潰されそうな家に帰りたくなかったのですが‥‥

親父が避難所から連れて帰ってきました。

親父が、
『娘が豪い熱出して寝てるのに、家ごと潰されるのが怖いからいうて様子を見に来ん母親が何所ぞの世界におるんや? 1~2時間くらい家に居って、また避難所へ帰ってらええやないか❓』

と言って連れて帰ってきました。

呆けナスの兄貴が自発的に私の解熱剤を貰いに行ったのではなく、

全て、親父の指示によるものだったのでした。

​​​​昼前くらいに親父と母が家に帰ってきた。
母が持っていた手提げの中には握り飯が3個、入っていて、

親父は母に『握り飯で“おかゆ”を炊いてくれや。冷たい握り飯は胃にこたえるさかい。』と言っていました。
 

ガスは、まだ来ていなかったけれど

電気は通っていたので電磁調理器で水さえあれば簡単な煮炊きができました。

 

母は《おかゆ》を炊く準備を始めたのですが‥‥余震が度々くるため落ち着かず‥‥台所をウロウロしていた。

持ち場を離れれば親父が怒るし‥‥で。

親父は私に『手を出すな。』と言っていたけれど、見ている私の方がイライラした。
 

で、母と私は選手交代。

私が《おかゆ》を炊き。
母は家の外にいた。昼とはいえ寒いのにね。
 

しばらくすると近所の小父さん達の話し声が聞こえてきました。

母の声も。

《おかゆ》が炊ける頃、母が家に恐る恐る入ってきました。
我が家は南側の隣家の二階が、今にも落っこちてきそうな光景でしたからね。

怖くなかったのか。って❓

そんなもん、怖いに決まってるやろ❗

親父も『怖い』って言っていましたよ。

だけどね、家で食い止めなければ北側のお隣さん達も巻き添えを食らって将棋倒しになるわけよ。
だから親父と2人で頑張っていたのだよ。

私も ❝何でも屋❞ の親父の実力を信じていましたからね。