天官3巻を読んだ方なら絶対に注目をしたはずの詩
曾经沧海难为水,除却巫山不是云
滄海を知ればよその水にもう魅力はない。
巫山を知ればよそで見る雲はもう雲と呼べない
p113 第46章 白夜題書紅袖添香 天官賜福 著:墨香銅臭
取次花丛懒回顾,半缘修道半缘君。
次々に咲く花など振り返る気にもならない。
その理由の半分は修行の身であるから、もう半分は君が心の中にいるからだ
p114 第46章 白夜題書紅袖添香 天官賜福 著:墨香銅臭
世の中にはすでにたくさんの解説が出ています。
これは元稹の『離思』の詩。
子供向け番組でも紹介されるくらい、中国では有名な詩。
【大意】
曾经见过茫茫的大海的人,
別的水就再雄以到吸引他了。
除了巫山上的彩云,
其他所有的云彩都黯然失色。即使走到盛开的花丛里,
我也只是毫不留心地过去,懒得回头观看。
一半是因为修道,一半因为怀念爱妻。
天官賜福の作者さんは作中に『離思』を取り入れているのですが、
実は元稹も孟子と「高唐賦」を取り入れているっぽい。
(もしかして李白もかな??)
まずは孟子を参考にしたと思われる曾经沧海难为水。
これは『孟子』を典拠とする句です。
孟子曰、孔子登東山而小魯、登泰山而小天下。故觀於海者難為水、遊於聖人之門者難爲言。(盡心上)
(中略)
孟子のこの文章は古来難解とされますが、有力な解釈は「孔子という聖人が高い位置から世界を俯瞰して、世界の正しい姿が理解できた。しかし凡庸な人が同じ真似をしても、世界の真相は理解できない」
「海」は「魯」「天下」の比喩です。【海は水からできているが、それを理解できるのは賢い人だけで、初めて海を見た者には余りの広漠さに圧倒され、それが理解できない。それは巨大な国や世界も結局は一人一人の人の集まりからできているのに、凡人にはそれが理解できないのと同じだ。聖人の教えも同様で、一つ一つの言葉によってそれが構成されているが、凡人は全体の威容に圧倒されてそれが理解できない】そのような文意を孟子は比喩によって簡潔に表現しています。
(中略)
愛妻の死を追慕し、【生前にはその意味がよく分からなかった妻の一つ一つの言動を思い出し、妻が自分の人生の半ばを占めていたその存在の大きさを改めて気づきかみしめている】といった大意の詩のようです
這首詩詞他是參考了孟子
孟子盡心當中的滄海
以及宋玉在高唐賦序當申的巫山
這兩個元素
來寫作的
這首詩的賞析我們會從他的題材
【中略】
他的主旨呢
最主要是贊美來妻之間的恩愛
以及對亡妻愛情是忠真不渝的
除却巫山不是云は先ほども高唐賦とありますが、巫山の雲雨からきており、
李白も『江上寄巴東故人』の中で巫山雲雨飛と使っています。
漢水波浪遠,巫山雲雨飛。
漢水の波浪は、遠く天に接し、その先は巫山に通じ、高唐の賦の「朝雲暮雨」の雲雨が紛飛している。
教養があると、中国の作品はもっともっと楽しくなると思います。
大河の『光る君へ』の「香炉峰の雪」が出たシーンなんて、すごく話題になっていましたよね。
――定子の「香炉峰の雪は、いかがであろうか」という問いかけに対して、ききょうが御簾を上げたのはなぜでしょうか?
唐詩を代表する中国、中唐の詩人である白居易(はくきょい)の漢詩の中に、「香炉峰雪撥簾看/香炉峰の雪は簾(すだれ)をかかげて見る」という一節があります。定子は、清少納言が白居易の漢詩のこの一節を知っているのかどうか、試したのだろうと思いますね。そして、清少納言はその問いに見事に答え、御簾を上げて雪を見せました。このエピソードは清少納言が著した『枕草子』の「雪のいと高うふりたるを」の段に書かれていますので、清少納言にとってとても印象深い定子との出来事の一つだったのだろうと思いますけれども、定子はちょっと意地悪だなとも思いますね。この問いに即座に答えられる人物が、どれほどいたのでしょう。しかも男性貴族とは違い、当時の女性貴族にとって漢文の勉強は必須ではありませんでしたからね。
私は大河は見ていないのですが、Yahooニュースになっていたので録画でこの場面だけ見ました。
中国の方はみんな古典や漢詩を見たらわかるのかと思っていたら、
どうやら「中国人でも知っているわけではない」と言っていました
好きな作品で取り上げられていたらそこから興味を持つという今のやり方でいいのかもしれないです
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