最近になって、

コロナウィルスについて

やっとやっと

バコーンビックリマークと腑に落ちたので…

 

 

 

 

私が思うコロナの意図を、

今日は書いていきます。

 

 

 

 

 

ゆめみる宝石

 

 

 

 

 

結論から言うと…

 

 

 

 

コロナは、

私たちの意識を引き上げるため

地球にやって来た。

 

 

 

 

ということになりますが…

 

 

 

 

大事なのが、

「意識を引き上げる」が

具体的に何を意味するか?

というところで。

 

 

 

 

それは人類が、

これまでどうしても

超えることができなかった、

書き換えることができなかった観念―

 

 

 

 

 

死=悪

 

 

 

 

 

という定義を、乗り超えること。

書き換えること。

 

 

 

 

だと、感じています。

 

 

 

 

この「死=悪」という定義を、

未だに人類が持ち続けていることが

諸々の弊害を

生んでいるように思うんです。

 

 

 

 

 

死は悪いことだから、

死なないようにしなくてはいけないビックリマーク

 

 

貯金しなくちゃ。

保険に入らなくちゃ。

将来に備えなくちゃ。

 

 

今楽しいのは我慢、我慢。

=「今を生きる」感覚を忘れる、

人生が絶望的に楽しくない、

鬱憤が溜まる、病気になる

 

 

 

 

 

…上の例は、

人間だけの問題だから

まだマシだけど…

 

 

 

 

「死=悪」という定義は、

ほかの生命をも脅かす。

 

そして巡り巡って、

人間に還ってくる。

 

 

 

 

 

死は悪いことだから

自分と、家族が、

死なないようにしなくてはいけないビックリマーク

 

 

自分と家族を守れればいいから、

ほかのことは知らない。

 

 

他人が困っていようが知らん。

海が汚れようが知らん。

地球が暑くなろうが知らん。

動物が絶滅しようが知らん。

(=結果的に自分が住む環境が脅かされる)

 

 

 

 

 

…「死=悪」

という定義の何が怖いって、

排他的になること。

 

 

 

 

行き過ぎると、

自分と家族以外のことは

どうでも良くなってしまう。

 

 

 

 

自分(たち)さえ良ければいい、

という思考になってしまう。

 

 

 

 

だから、買い占めが起きたり

感染者がいる家を攻撃したり

炎上や誹謗中傷なんかも生まれる。

 

 

 

 

それは根底にあるのが、

 

「死=悪いこと」

 

という定義だから。

 

 

 

 

…というところに行き着くと、

私は思っている。

 

 

 

 

でも、しょうがないんだけどね。

 

長年、それが当たり前だったから、

強固な集合意識が出来上がった。

 

 

 

 

それに、

自分と家族を守りたいと思うことは

自然なことだしね。

 

それ自体が悪いわけではない。

 

 

 

 

ただ、今このタイミングで

 

「死って、何だろうか?」

 

を、一人ひとりが

自分に問い直す必要がある。

 

 

 

 

 

死は、本当に悪いことなのだろうか?

 

 

 

 

死は、過剰に恐れることなのか?

 

 

 

 

死を、善悪でジャッジすることはできるのか?

 

 

 

 

 

…といったことを。

 

 

 

 

ヒトとしての知性を使って、

考えないといけない。

感じないといけない。

気づかないといけない。

 

 

 

 

※これは自分の生と死を

軽んじろと言っているわけではなく、

むしろその逆。

 

「死=悪」を超えられたとき、

生をより貴く感じられる。

 

 

 

 

 

…「そうは言っても」。

 

 

 

 

そう言ってこれまで、

人類はこの観念を

書き換えて来なかった。

書き換えられなかった。

 

 

 

 

だから、

コロナウィルスがやって来た

と、感じるんです。

 

 

 

 

一国、一か所の問題なら

 

「よそのことだから」

 

とこれまで通り

知らんぷりできたけれど…

 

 

 

 

そう言えないように、

全世界に影響を及ぼした。

 

 

 

 

今後の行方は、

どれだけ多くの人が

 

「死=悪」

「死=恐怖」

「死=避けるべきもの」

 

という観念を書き換えられるかに

かかっている…と、私は思う。

 

 

 

 

肉体を持っている限り、

死が怖く感じるのは当たり前。

 

 

 

 

でも、

その恐怖に振り回されたままで

本当にいいの?

 

 

 

 

と、問いかけられているんだと思います。

 

 

 

 

 

ゆめみる宝石

 

 

 

 

 

ここまで考えたときに…

 

ある本に書いてあったことを

思い出した。

 

 

 

 

敬愛する辻麻里子さんが、

遺作『藍の書』の中で

夢で見た光景のことを書いていて…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(今手元に本がないから、

記憶を頼りに書いてます。

内容が異なっていたらお許しください。)

 

 

 

 

7組の父子が、

湖に落とされた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

みんな必死に、

水面を目指してもがく。

 

 

 

 

7人の父親と7人の子どもは
バラバラになり、
それぞれ自分から一番遠いところにいる―

 

 

 

 

 

※よく見たら子6がいなくて、

番号が合っていない…(笑)

図を作るのが苦手でして、悪しからず。

 

 

 

 

 

 

どの父親も、

自分の一番近くにいる

よその子どもを助けたなら…

 

全員が助かっていた。

 

 

 

 

でも、実際は

それをしたのは1組だけで、

みんな近くにいる子を足蹴にして

我が子のところへ行こうとするから

パニックになり、助からず…

 

という内容だった。

 

 

 

 

これこそが、人類がなかなか

乗り超えることができない

パターンなのではないか?

 

と、思ったのです。

 

 

 

 

遠くにいる自分の家族を

その近くにいる人に任せて、

自分の近くにいる他人を

助けることができるか?

 

 

 

 

そういう意味で、

 

 

 

自他の垣根を超えられるか?

 

 

「自分(たち)だけ良ければいい」

を超えられるか?

 

 

自分のも他人のも

同じ「いのち」として扱えるか?

 

 

 

が、試されているとき

なのかもしれない―

 

と、思うのです。

 

 

 

 

 

…ちなみに。

 

 

 

 

 

今の私の、死の定義は…

 

 

 

 

 

死とは、夜寝るのと同じこと。

 

 

 

 

 

かな!(笑)

 

 

 

 

いや、私たちって

毎日当たり前に寝てますよね。

 

 

 

 

寝てる間って、何してるんでしょう?

 

 

 

 

よく分からないですよね…?(笑)

 

 

 

 

死と、大差ないのかもしれない。

 

なーんて、思うんですよ。

 

 


 

私は寝るのが大好きだから、

ダラダラ過ごした日も

活発に過ごした日も、

 

「あー、幸せ~!!!」

 

と思いながら寝るんですが…

 

 

 

 

やっぱり、

身体がクタクタなときって

寝る喜びが倍増して。

 

 

 

 

結局人生も、

そんな感じなのかな~って。

 

 

 

 

クタクタになるまで

やり尽くしたら…

 

きっと死を迎えるとき、

喜びが倍増するんじゃないかな?

 

 

 

 

そうしたら、

「死が怖い」と怯えて

逃げるように迎えるんじゃなくて…

 

 

 


「やっと来てくれたか!」

「これで、好きなだけ眠れる!」

 

みたいな感じで、

自分から積極的に

迎えに行けるんじゃないかな?(笑)

 

 

 

 

そう思える人が増えたとき…

 

コロナウィルスでこんなに

騒ぐこともなくなるんじゃないかなぁ(^-^)晴れ

 

 

 

 

 

 

 

 

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内容の詳細は、こちらの記事に龍

 

「あなたのその人間関係の悩み、

私が先に体験しておいたよ!」

https://ameblo.jp/momoko-kawakita/entry-12517124419.html