奥様の白洲正子さんによると、白洲次郎は大まかなわりには本質を掴んでいるようなところがあり、「プリンシプル、プリンシプル」と喧しかったと言う。

日本語に訳したら、原理原則となるが人間として最も大事なことを指すのだろうかグラサン


本物の貴族の良さを、ケンブリッジ大学の親友ロビン(イギリス貴族)から学んだことが、以下の言葉にあらわされていると思う流れ星



写真 武相荘ホームページより
白洲次郎とロビン


「 日曜日の食卓にて──日本人についての雑談 」より

※「文藝春秋」1951年 9月号に掲載。
新潮文庫『プリンシプルのない日本』に収録。
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 ~イギリスという国~

 僕は1927年から戦争が始まる前まで、2年に3回くらいの割合で外国へ行った。だから日本には、1年に4ヶ月位ずつ滞在したわけだ。続けて長く海外にいたといえば、1925年まで大学にいた期間だろう。


 その後、日本水産の仕事で毎年イギリスへ鯨の油を売りに行った。僕が鮭缶を売りに行ったとか、その鮭缶を英国の貴族社会が臭いから食べないというのを無理に食べさせて、販路を拡げたなどというゴシップがあるが、全部誤伝である。真相は鯨の油売りに行った時に、友達の家で酒を呑んで、何かの意地で鮭缶を開けて食わせた、というだけのことだ。但し僕は未だに鮭缶は絶対に食わない。


 一定の教育の過程を通ってきた英国人の英語というものには、一種のアフェクテイションがあって仲々味のあるものだ。アフェクテイションとは「恰好」とでも訳したらいいのかな。つまり弁舌爽やかにスラスラ喋る、ということの反対だ。
ちゃんとした英国人は、非常に澱みなく喋るような雄弁な人には、反射的に疑惑心をもつ傾向がある。シエイクスピアのハムレットの淡々とした名調子は評価(アプリシエート)するが、政治家などの余り演説のうま過ぎる、という人には警戒心をもつようだ。
普通に話していても、一語一語をさがしている、というような恰好を見せる、それがアフェクテイションということだ。だから普通のくだらない日常の会話をしていても、一つのセンテンスを終わりまでハッキリいわない人が多い。


 演説は雄弁でなくてはいけないことは英国でも同じだが、その雄弁のあり方が日本あたりと少し違うようだ。永井柳太郎式(※1)の名演説にはあまりうたれないらしい。今、英国で演説が非常にうまいといわれる人の一人はイーデン(※2)だが、この人は品よく図々しさのないような演説だ。大向うの拍手を強いるようなところがない。


 このアフェクテイションは、始終雨が降っている暗い、落ちついた英国の気候に由来するところが多いのではないかと思う。これが英国人の気質に、ひいては話し振りにも作用しているようだ
 そこへいくとアメリカ人には、スラスラと澱みのない演説をする人が多いようだ。雄弁家でならしたヒットラーの演説を聞いたことがあるが、意味は大部分わからなかったが、さすがに演説がうまい、ということはわかった。しかし英国であんなに興奮してテーブルを叩いて演説をしたら、英国人は頭がどうかしてやしないか、とか、恥ずかしくないのか、とか思うに違いない。僕も僕なりにそう思ったのだが。


 この頃、英国を斜陽の国のようにいう人もあるけれども、昔のような大英帝国になることはともかくとして、いわゆる英国的な人間がいる間は、あの国は崩れないと思う。
気分的にも英国は変ったということを屡々聞くが、英国にいて一番気持が好いのは、身分に関係なくお互いに人間的な尊敬を払うことだ。
例えば、前には英国の貴族は田舎に大きな家を構えていて、その領地の中に村が一つ、二つあるのはよくあって、その田舎道を旧城主の子供が歩いている、向うからその領地内の小作人のおじいさんが歩いてくる、そういう場合の子供が年長者に対する態度は、実に立派なものだ。ちゃんとミスターづけで、「グッド・モーニング・ミスターだれそれ」とやる。片方も丁寧に「グッド・モーニング・ロード」と挨拶する。こうした、ほんとうの行儀のよさ、というものが英国人にはあって、見ていて気持のいいものだ。


 この意味で不愉快なのは、日本でなんとか名のある人の家へ行くと、そこの子供が女中や運転手に威張り散らしていることだ。銀行の頭取だの、社長だのの子供が、親父の主宰する所に働いている大人に対する態度も実に言語道断だ。これは第一に親が悪いと僕は思う。英国では会社の社長に給仕がお茶を持ってきたら、必ず「ありがとう」という。当たり前のことだが気持が好い。


日本でも子供に親がもっとこういうことを教えなければいけない。これがほんとうの民主教育というものだと、僕は思う。